人の波に押されながら、よろよろと電車を降り、息も絶え絶えといった調子で、トイレに向かった。

個室に入ると後ろ手でガチャリと鍵をかけた。手に持ったカバンが汗で滑って、どさっと落ちる。
手のひらにはびっしょりと汗。

あつい。あつい。

堪えきれずにセーターを脱ぎ捨た。三つ目、四つ目と、残ったブラウスのボタンを外していく。

大きく胸元をはだけさせると、じめじめと生ぬるい空気が直接肌に触れる。

汚く淀んだ空気が肌から直接体内にしみ込んでいく。じんわりと私を毒していく。

あつい。あつい。

梅雨時のトイレに漂う独特の臭気が鼻をつく。


ジメジメとした暑さは、ものを腐らせる。

夏の暑さが、私を腐らせる。
湿った空気が、肌にまとわりつく。
身も心も腐らせてゆく。
腐敗してグズグズに溶かしてゆく。
私の大切にしているものを溶かしていく。
骨まで溶けて、身体の芯の奥の奥までドロドロになっていく。

なにも考えることが、できない。

頭のなかは真っ白になって、漂白されていく。

なんでこんなに…なんでこんなにキモチイイの?

目の前の快楽をむさぼることに夢中で、
いま、どこで、だれが、なにを、しているのか、わからない。

いいや、わかっている。

琴吹紬』。

上品で、やさしくて、おだやかで、おっとりぽわぽわ、おうちには執事までいる、絵に描いたようなおじょうさま。
勉強ができて、ピアノも上手で、紅茶がだいすきで、
きのうも、きょうも、きょうしつで、部室で、なにくわぬかおで、
きたないものなんて、ちょっともしらないようなかおして、

わらってる。
にこにこ、にこにこ、おだやかに、わらってる。

むぎちゃんは、とっても、えんぎが、うまいね。

おとうさん、おかあさん。
ゆいちゃん、みおちゃん、りっちゃん、あずさちゃん。

ごめんなさい。

わたしはうそつきです。

わたしはそんな、まともなにんげんじゃないんです。

わたしがいま、なにをしているか、しってる?

わたしはね、いまね。

うすぐらい、きたなくよごれた、えきのトイレで、
かたもむねもおおきくはだけさせて、パンツもぬいじゃって、
スカートに手をつっこんでいるんです。

背徳的な感触に打ち震える。


(あうっ…うくっ……ふぁ、ああ、はうぅ……)



キモチイイ…キモチイイ…なんてキモチイイんだろう。

お父さんお母さん、斉藤、菫、けいおん部のみんな…大切な人たちを裏切ることは。
目先の欲望に振り回され、逆らうどころか進んで支配されることは。
清らかで、美しく、けがれのない、大切にしなくちゃいけないはずの、自分の身体と、心を、汚していくことは。
きれいなものを、踏みにじることは。


なんて、キモチイイのだろう。


全身が断続的に傾いで震える。

私は消えてゆく。

みんなの知る『琴吹紬』は汚され、穢され、貶められて、その姿を全く別のものに変えていくの。


(ふぅ、あ、く……くぅぅ、あ、ン…ああ!)


もう、もうダメ…


突き上げてくる興奮を抑えきれず、身をよじりながら腰をくねらせ、声にならないうめきをあげ、絶頂を迎えた。



抗えない欲望に身を委ねた後は、決まって虚脱感に襲われる。

またやってしまった…しかもあんなところで。あんな格好で…。


ブラウスのボタンを上まできちんと留めて、リボンを丁寧に結び、セーターを着る。
端から見れば、どこにでもいる、真面目な、普通の、女子高生にしか見えない、はず。

もうダメ。私、病気かもしれない。
さすがにやりすぎたかな、と思う反面、たぶんまたやってしまうだろうな、という予感もあった。もう、自分の理性というものが信用できない。だいぶん諦めを感じている。

(そうだ。マカロン、明日持っていくの忘れないようにしなくちゃ)

唯ちゃん、楽しみにしていたものね。
みんなの笑顔を思い出して、少しだけいつもの私に戻れた気がした。



ピッ。

定期券をかざし、改札を抜けたところで、一人の男性と目が合った。
男性は、不自然な歩調で(本人は至って自然を装っているであろう)私の進行を邪魔をするような形で近づき、目の前に立った。

「…………カ」

ところが、男性。目の前に立ったくせに、私の目を見ようともしない。
目線を下に反らしながら、早口で何かを口走った。

「セイ……オ……デシ…カ」
「え…あのぅ…私に何か?」


「イヤ、ダカラソノ………」

小声で、早口、目の前の相手を見ずに吐き捨てるような口調で、何を言っているのか、聞き取れない。

あ。この人。

さっき電車内で向かいに立っていた男性だった。

きっちりと締めたネクタイと羽織ったジャケットは暑そうで、額は汗でテカり、シャツの襟元は汗で不潔そうにぐっしょり湿っている。

男性は握りしめた右手を、私の目の前に差し出した。

「コレ…」
「あ、生徒手帳」

落としてたんだ。電車降りるときかな。ぼおっとしてたから。

「すみません、ありがとうございます」

私は丁寧にお辞儀するとともにお礼の言葉を述べて、手帳を受け取ろうとした。

男性の手と私の手が触れた瞬間、男性がビクッと動いて、その拍子に手帳が落下した。

「ご、ごめんなさい!」

落ちた手帳を拾おうと、二人してしゃがむ。
男性の方が少しだけ早かった。

「…ドウゾ」
「…ありがとうございます」

座ったまま、もう一度お礼を言った。
手帳はじっとりと湿っている。男性の手の平もじっとりと湿っている。

どれだけ長く、手に持っていたのだろう。
あれからずっと、電車が駅に着いてからずっと、待っていたんだ。

なんで駅員さんに預けてしまわなかったんだろう。
いざとなったら、学校に電話することもできたはずだ。
しばらく待って本人を見つけられなかったなら、普通ならそうするはずだ。

なんでずっと待っていたんだろう。

もしかして、この人。


私は、視線の先にあるふくらみに気がついた。
その瞬間、不潔さに身の毛がよだつ思いがした。けれど、それなのに。

わたしは目を離すことができなかった。

堅く堅く弾ける寸前のそれは、わずかに脈を打ちながらわたしを呼んでいるように思えた。

呼んでる…わたしを、呼んでる。

それがぴくんぴくんとうごくたび、わたしの身体の奥へとつながる大切な入り口の扉が、こつんこつんとノックされているような感覚に捕われた。

扉が、汚れていく。大切な、扉が。

予感でも空想でもない、目の前に存在する厳然たる事実を前にして、落ち着いたはずの熱が再び身体の底から沸き上がってくるのを感じた。

奥の方から甘い疼きが立ち上ってきて、再びわたしは支配されていく。


男性の息が、荒い。
目が合うと途端に反らしてしまうけれど、落ち着きなく動き回る視線は、隈無く私の全身を動き回り、舐め回されているような感覚を覚える。

「アノ………カ」
「…はい?あの…よく、聞こえなくて」

男性が何かを喋っているのはわかるが、相変わらずの早口の小声で聞き取ることができない。

私はかがんだ格好のまま、耳に手を当てて男性の口元に近づけた。
私の息も、この人と同じくらい、荒い。鼓動がどんどん早くなる。

どんどん。どんどん。

さすがの近距離。男性が息を吸い込む音が耳奥に響き、今度は明瞭に言葉を聞き取ることができた。



「ぱんつ、クレマセンカ」



耳から離れて、男性の目を見る。またしても男性は目を反らす。おどおどとして落ち着きがない。




ああ、このひと。
やっぱり、わたしと、セックス、したかったんだわ。
わたしのこと、ずっと、いやらしいめで、みていたのね。
わたしと、セックスしたくて。
したくてしたくて、たまらないから。
だから、ずっと、わたしのこと、まっていたのね。
そうよ。きっと、そうだわ。



身体の奥底に溜まっている淀んだ澱が熱を発し、私は全身から汗がふき出すような熱さを覚えた。


あつい。あついわ。


ドロドロした澱は次第に奥底からはい出して、私の内部の真ん中にベットリとまとわりつき、心も身体も支配する。頭はいつも以上にぼおっとかすんだようになっている。


あつい。とってもあついの。


ただ目の前にある欲望を満たすことしか考えられなくなっていく。
もう、なにも、かんがえられない。


あつい。
わたし、いま、とっても、あついの。
もう、あつくて、がまんが、できないの。


瞳を妖しげにきらめかせ、今度は私が口に手を当てて、男性の耳元でそっと囁いた。




「ゴメンナサイ、イマ、ワタシ、ぱんつ、ハイテナインデス」




それはわたしの声じゃないみたいだった。でも囁いたのは間違いなく、わたし。

それから、唯ちゃんにも、りっちゃんにも、澪ちゃんにも見せたことのない、生まれてから誰に見せたことのない種類の笑みを私は浮かべた。そして立ち上がり、男性に背を向けて、足早に駅を後にした。



あのひと、せいとてちょう、みたわよね。
きっと、わたしのなまえ、おぼえたよね。
どこにすんでいるかも、どこのがっこうにかよっているかも。
なにもかも、バレちゃっているわ。
また、えきであうかしら。
そうしたら、わたしのこと、どんなめでみるのかしら。
あのひと、こんどはわたしに、なにをするかしら。
わたし、どうなっちゃうのかしら。

あ…。

だめ、だめだわ。
はやく、はやくかえろう。
はやく、はやくかえって、もういちど…。


気がつくと私は駆け出していた。
走る度にスカートがひらひらと揺れた。

ひらひら。ひらひらと。

頼りなく揺れるスカート。そのうすっぺらい一枚の布切れ越しに隠された敏感な亀裂に、じんわりと甘く蕩けつく感覚がまとわりついて離れなかった。




最終更新:2014年07月19日 09:37