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 翌日からの軽音部は表面上は今までと変わらないものだった。

 唯先輩と律先輩がふざけ合い、澪先輩や私がツッコミをいれる。
 そんな姿をムギ先輩はニコニコと見つめている。
 唯先輩も昨日メールで釘を刺しておいたとおり、過剰にはベタベタしてこない。
 本当にいつもどおりの風景だった。

 ……見ていて痛々しいぐらいに。

 律先輩を責めるわけにはいかない。
 もともと私と澪先輩が無茶な告白をしたのだ。
 受け入れてくれた唯先輩が特殊なのであって、律先輩の対応はごく当たり前のものだろう。
 いや、当たり前どころの話じゃない。
 昨日澪先輩が電話で言っていたとおり、縁を切られていても不思議じゃないのだ。
 今もこうして澪先輩といつもどおりに振る舞っている律先輩の優しさには頭が下がる。
 律先輩が澪先輩を完全に拒絶していたら軽音部の日常は失われていたかもしれない。



 そんな風に一見いつもと変わらない日常も一ヶ月ほど過ぎていきましたが、
 澪先輩との体の関係はあの夜からもずるずると続いている。
 恋人であるはずの唯先輩とはまだキスさえもしていないというのに……

 最近の澪先輩はひどく不安定になっていた。ある時は、

澪「いつまでも梓に甘えてちゃダメだよな……唯にも申し訳ないし……

  うん、私はもう一人でも大丈夫だよ。今までゴメンな、梓」

 なんて言ったかと思えば翌日には、

澪「梓……寂しいよ……今から家に行ってもいい……?」

 なんて言い出したりする。

 本当なら私がきっぱりと断らなければいけないんだろう。

 『私は唯先輩と付き合ってるんですから、もう澪先輩とこういうことは出来ません!』

 とでも言わなければいけない。

 でも今の澪先輩は本当にボロボロで。
 部活の時なんかは気丈に、いつもどおりに振る舞っていますが、
 事情を知っている私から見れば無理をしているのが痛いほどわかって。
 いま私が拒絶したらこの人はどうなってしまうんだろう、なんて考えると、
 泣きついてくる澪先輩を無碍にはできなかった。



 私が澪先輩を慰めるのは、私か澪先輩の家に親が居ない場合、もしくは部室に
 他の先輩方が来ない場合のその三箇所に限られている。
 まあ流石に部室ではお互いの家の時ほど無茶はできませんが。
 キスをしたり、服の上からお互いの体を触ったりする程度だ。
 今日は唯先輩、律先輩、ムギ先輩の三人にそれぞれ用事があって
 部活はなし、ということになったので、もしかしたら……と思っていると
 案の定、昼休みに澪先輩からメールが届いた。

 『今日の放課後、部室でいいかな』

 ………はっきり言って唯先輩に対しての罪悪感は半端ないです。
 澪先輩もそれはわかってくれている。
 わかってくれているはずなんですが……
 やはり律先輩のことはまだ忘れられないようで。
 いや、忘れるも何もクラスも部活も同じで、ほぼ一日中一緒にいる人を
 忘れる事なんてできるわけがない。
 律先輩が普通に接してくれれば接してくれる程、澪先輩の胸は痛み、誰かの温もりを求め、

 結果、私に縋ってしまうようです。


 放課後。

 メールでの約束どおり、私と澪先輩は二人で部室に来ていた。
 トンちゃんにエサをあげたあと、私は誘われるままに澪先輩の座る長椅子の隣に腰を下ろす。

澪「ごめんな?梓、いつも私の為に………」

 私と唯先輩が付き合い始めてから、澪先輩は私との行為の前には必ずこうして一言、謝罪をする。
 澪先輩もいま私達がしていることが唯先輩に対する
 裏切りである事は当然、自覚しているのでしょう。

澪「………梓………」

 澪先輩が私の唇に自分の唇を重ねてくる。
 それと同時に左手は私の『触っていて楽しいのかな?』と思えるような胸に伸びてくる。
 最初のうちは澪先輩は私のことを『梓』と呼んでいますが、
 気持ちが昂ぶってくると律先輩の名前を呼びだす。
 いつものことだった。 
 私も澪先輩の羨ましく育った胸に手を伸ばしたところで、
 澪先輩の頭越しに音楽準備室のドアが目に入った。
 音楽準備室のドアには上の方にガラスが嵌まっているのですが、
 そこからこちらを覗いている人物と目が合った。

 心臓の鼓動が跳ね上がる。

 校舎内でこんなことをしているのだ。
 誰に見られても大問題だけど、その人物が誰であるかはっきり認識できた時、


 ———全身の血の気が引いた


 唯先輩だ。


 唯先輩に見られた。

 澪先輩とキスしているところを。

 体を触りあっているところを。

 私と目があった唯先輩は、しばらく無表情で私を見つめていましたが
 何も言わずスッと部室の前から立ち去ってしまった。

 追いかけないと。

 唯先輩を。

 でも体が動かない。

 比喩表現ではなく本当に全身の血の気が引いた私は、
 貧血でも起こしたのかそのまま気を失ってしまったようだ。




 目を覚ました時、私は澪先輩に膝枕をされていた。

澪「梓……!良かった……急に倒れちゃったから心配したぞ?」

 ………………

 頭がボーっとしている。
 なんで私は部室に………?澪先輩と二人………?えーっと………?
 ………そうだ。澪先輩を慰める為に部室に来て………
 澪先輩とキスをして………

 !!!

 そうだ!唯先輩が………!

 全てを思い出した私は再び血の気が引くのを感じる。
 しかし、ここでまた気を失うわけにはいかない。
 唯先輩に会わないと………!
 澪先輩の様子を見るに、この人は唯先輩が見ていたことは気づいていないようだ。
 それならそのほうがいい。
 澪先輩がそれを知ってしまったら、話はますますややこしくなる。

梓「すいません、澪先輩!私、帰りますっ!」

澪「あ、梓っ……!?おい!」

 澪先輩に呼び止められたが申し訳ないけどそんな事を気にしている場合じゃない。
 多少ふらつく体に鞭打って私は部室を飛び出した。

 全速力で唯先輩を追いかける。
 私はいったい何分ぐらい気を失っていたんだろうか。
 いくら走っても唯先輩の背中は見えない。

 結局、追いつく事は出来ないまま、私は唯先輩の家の前まで来てしまっていた。

 ………唯先輩はまっすぐ家に帰って来てるんでしょうか?
 インターホンを押そうとする指が震える。
 唯先輩が家にいて、唯先輩に会って、そしてなにを話せばいい?
 思考がまったくまとまりませんが、それでも唯先輩に会わないといけない。
 意を決してインターホンを押す。

 ガチャッ

 玄関ドアが開き、唯先輩が顔を出す。
 その顔は部室でドアの向こうから私を見ていた時と同じ、無表情なものだった。
 こんな時にどんな表情をすればいいかわからない、とでも言うように。
 いつも表情豊かな唯先輩のこんな顔を見るのは私は初めてのことだった。

梓「ゆ、唯先輩……あの……」

唯「………あずにゃん、あがって?」

 私が言葉を発する前に家に入るように促されてしまう。

唯「私の部屋、いこっか」

 階段を上がっていく唯先輩の後ろを、私は絞首台に上がる死刑囚のような
 気持ちでついていった。

 唯先輩の部屋に通され、テーブルを挟んで向き合って座る。 

梓「そ、その……唯先輩は今日、なんで部室に……?用事があったはずじゃあ……?」

 はっきり言って今、そんなことはどうでもいいことだ。
 ただ今から話し合わなければいけない問題について先送りにしたいが為の質問だ。

唯「うん。今日トンちゃんのエサやり当番だったこと思い出して……それで部室に

  いったんだよ………………あっ!どうしよう、結局エサあげてない!」

梓「あ、エサは私があげておきましたから……」

唯「そっか、よかったぁ……ありがとね、あずにゃん」

 いま唯先輩にお礼を言われてしまうのは非常に心苦しい。
 ありがとうなんて言わないでください。こんな私に。

梓「………………」

唯「………………」

 それっきり二人とも黙り込んでしまう。
 唯先輩はなにも言わない。
 怒られた方が気が楽だ。『浮気者!』とでも罵ってほしい。
 でも、ここで唯先輩からの言葉を待つのは卑怯だと思う。
 私の口から、ちゃんと唯先輩に話さないと。

梓「あの……唯先輩、実は………………」 

 澪先輩には悪いと思いましたが私は唯先輩に全てを打ち明けた。

 澪先輩は律先輩のことが好きだと言うこと。
 以前から私と澪先輩はお互いに恋愛相談をしていたこと。
 いつしかお互いの体を慰めあう関係になっていったこと。
 私と唯先輩がお付き合いする事になったあの日、澪先輩は律先輩に振られていたということ。
 澪先輩を慰める為に体の関係を続けていること。

 全てを打ち明けた。 

 私の話を無表情で無言で聞いていた唯先輩は全てを聞いた後、ゆっくりと口を開いた。

唯「……あずにゃんは私より澪ちゃんのことが好きなんじゃない?」

梓「そ、そんなことないです!私が好きなのは唯先輩一人です!……澪先輩のことは

  ………その、なんだか見ていて可哀相で……放って置けなかったというか……」

 この言葉に嘘はない。
 初めて会った時から私は唯先輩のことだけを想い続けている。
 一目惚れだったと言ってもいいだろう。
 そしてそれから一緒に過ごしていくうちにその気持ちは日増しに強くなっていった。

 澪先輩に対する気持ちは同情の域を出ない。

唯「キス……してたよね?澪ちゃんと」

梓「…………はい」

唯「その先のことも……してるんだよね?」

梓「…………してます……ごめんなさい……」

唯「私とはキスもしてくれないよね……」

 唯先輩とお付き合いを始めてからキスをするような
 雰囲気になったことは何回かあったけど、そのたびに私が拒否してきた。
 『まだ早いです』と。
 唯先輩は付き合い始めてからの期間がまだ短いから、という意味に解釈されたでしょうが
 本当はそうじゃない。
 澪先輩との関係を終わらせてからじゃないと、唯先輩とキスやその先のことを
 する資格が無いと私が思っていたからだ。
 勝手な言い分であることは自分でもわかっています。
 現時点でも唯先輩を裏切っていることには変わりないのですから。
 澪先輩との体の関係が終わったからといって私の身が潔白になるわけでもなんでもない。

 それでもやっぱり唯先輩とキスしたり、体の関係を結ぶのは澪先輩との関係をきっちりと
 終わらせてからじゃないと、私自身が納得できなかった。


梓「そ、それは……」

唯「……やっぱり、してくれないの……?」

 私は唯先輩を押し倒した。

 世界で一番大好きで世界で一番かわいい恋人にこんな事を言われて。
 いや、言わせてしまって。
 なにもしないなんて最低の恋人だ。
 ………今までしてきた事だけでも充分最低の恋人ですが。

唯「あ、あずにゃん………」

 私に組み敷かれた形の唯先輩は顔を真っ赤にして私を見つめている。
 その大きな瞳がゆっくりと閉じられる。 

 唯先輩はこんな最低な私を許してくれるんだろうか。
 こんな最低な私をまだ恋人と呼んでくれるんだろうか。

 唯先輩と私の唇が触れようとするその時、

 ♪〜♪♪〜〜♪〜

 空気を読まずに私の携帯がメールの受信音を奏でた。

唯「あずにゃん……電話、鳴ってるよ?」

梓「……メールです。後で見ればいいです」

唯「ダメ。今見て」

 いつになく厳しい口調の唯先輩に逆らえず、メールを確認する。



 from:澪センパイ
 sub :寂しい
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 会いたい



梓「………………」

唯「誰から?」

梓「………澪先輩からです」

唯「見せてもらっても、いい?」

 これを拒否する権利は今の私には無い。
 携帯のディスプレイを唯先輩に見せた。

唯「………行くの?あずにゃん」

梓「………行きません。私は唯先輩の恋人なんですから」

 まだあなたがそう思ってくれていれば、ですが。

唯「……そっか。澪ちゃん……大丈夫かなぁ?」

 ……大丈夫ではないかもしれません。
 それでも。私にとって一番大切な人は唯先輩なんです。
 ずっと、いつかは澪先輩をはっきり拒絶しなければと思っていました。
 それが今になっただけのことだ。

 私は唯先輩の体を抱き寄せ、再び唇を近づけていく。

 ♪〜♪♪〜〜♪〜

 二度めの受信。
 今度こそ無視しようかと思いましたが
 私を見つめる唯先輩の目が物語っている。

 『今、見なさい』と。

 逆らえず、再びメールを確認する。




 from:澪センパイ
 sub :来てくれないの?
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 私もうダメかも




 ………何度も聞いてきた言葉だった。
 澪先輩の『もうダメかも』。
 澪先輩が律先輩に受け入れられなかったあの日から、
 それは澪先輩のは口癖のようになっていた。

 それでもやはり心配になる。

 今、私がそばに居てあげないと澪先輩は本当に壊れてしまうかもしれない。

梓「………………」

唯「あずにゃん、行ってあげて?」

梓「で、でも………」

唯「……心配なんでしょ?澪ちゃんのこと」

梓「そ、それは……確かに、心配ですけど……」

唯「………私も心配だよ……でも、あずにゃんしか助けてあげられないでしょ?」

梓「………はい……ごめんなさい、唯先輩………私、行きます」

唯「うん……バイバイ。あずにゃん」

 部屋を出る私の背中にかけられたこの言葉。
 それが『バイバイ、また明日ね』なんて意味じゃないことはわかっている。
 これは唯先輩からの別れの言葉なんだ。



 澪先輩の家までの道を歩きながら私はボロボロ泣いていた。
 すれ違う人達には変な子だと思われただろう。
 でも、そんなことはどうでもいい。

 唯先輩との関係が終わった。

 それは恋人同士という関係が終わっただけじゃない。
 以前のように仲の良い先輩後輩にもきっと戻れないだろう。
 それどころか同じ部活を続けていく事も、もう無理なのかもしれない。
 唯先輩が私を抱きしめてくれる事はもう二度とないんだという事実に、
 胸が張り裂けそうだった。

 涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔のまま、澪先輩の家のインターホンを押す。

澪「ゴメンな梓……また我が儘言って……あ、梓!?どうしたんだ!?」

 出迎えてくれた澪先輩は私の顔を見て驚く。
 当たり前だ。鏡は見てないけど自分が今どんなに酷い顔をしているかぐらいわかる。

梓「私……グスッ……唯先輩に振られちゃいましたよぉ……」

澪「梓……」

梓「どうしてくれるんですか……ヒック……澪先輩のせいですよぉ……責任とってくれるんですか……」

 違う。
 私が唯先輩に振られたのは私自身のせいだ。
 私が澪先輩を拒絶できていればこんな事にはならなかったんだ。
 そんな事はわかっている。
 それでも澪先輩にぶつけずにはいられなかった。

澪「ゴメンな……私は律のことが好きだから……責任をとることはできないよ。

  でも……いつも梓がしてくれるみたいに、私が梓を慰めてあげるから……」

 そう言うと澪先輩は私の身体を抱き寄せ、唇を重ねてきた。
 今まで何度も繰り返してきた澪先輩とのキス。
 一番したかったはずの人とはすることができず、この先も一生味わうことは
 無いであろうあの人の唇の感触。
 私は目を閉じ、これは唯先輩の唇なんだと自分を錯覚させる。 

梓「グスッ……唯先輩……」

澪「律……律ぅ……」



 そして私達はいつものようにお互いの想い人の名前を呼びながら身体を重ねた。








 おわり