どうしてかしら?
確信があったわけじゃない。
けれど私は軽音部の部室に足を踏み入れていた。
鍵は掛かっていなかったから、先客が居る事は分かっていた。


「あら、おはよう」


「ん、おはよう、さわちゃん」


おでこを出したカチューシャの教え子が軽く微笑んで返してくれた。
今の時間は八時ちょっと過ぎ。
夏休みとは言え、もっと早くから部活をしている子も居るから、不可思議な現象と称するほどじゃない。
だけどこんな時間にりっちゃんが部室に顔を出すなんて、かなり珍しい事には違いなかった。


「どうしたのよ、りっちゃん、こんな時間に、しかも一人っきりで」


「んー……、ちょっと、な」


りっちゃんが私の質問を軽くかわす。
これも結構珍しい事よね。
私の質問を誤魔化す事はあっても、言葉を濁す様な事はほとんどしない子だもの。
何かあったのかしら?
それをそのまま口に出せるほど、私は無粋じゃない。
「そうなの?」とだけ呟いて、私は部室の長椅子に腰を下ろした。
そのままドラムスローンに座っている、制服姿のりっちゃんと視線を合わせる。


「学園祭に向けて練習でもしてたの?」


「いや、そういうわけじゃないんだけど、さ」


予想は出来ていた返答だった。
りっちゃんのドラムスティックは、長椅子の上に置かれたりっちゃんの学生鞄に刺さっていたんだもの。
ドラムスローンに座っているだけって事は最初から分かっていたのよね。
だけど私はりっちゃんの口からその返答を聞いておきたかった。
どうしてかは分からない。
強いて言えば、りっちゃんの静かな表情が気になったからかもしれない。

この三年の付き合いの中で分かってきたのよね。
りっちゃんは……。
りっちゃんは、一人きりでいる時、とても静かな表情を浮かべる事がある。
騒がしいくらいの普段とは違って、生意気なくらいの日常とは異なって、一人の時のりっちゃんはとても物静かなのよね。
一人で居る時に騒がしい子の方が少数派なのは勿論分かってるわ。
だけどそれを前提に考えたとしても、りっちゃんの静かさは逆に不自然だった。
ひょっとしたら、一人で居る時のりっちゃんの方が素の姿なんじゃないかって思えるくらいに。


「さわちゃんこそ」


「何?」


「さわちゃんこそ何してるんだよ、こんな夏休みの朝っぱらから」


少し怪訝な私の視線に気付いたのかもしれない。
りっちゃんは口元に普段の微笑みを浮かべて、私の方に質問を返した。
とりあえず私も苦笑を浮かべてみせる事にする。


「見れば分かるでしょ?
仕事よ、仕事。
夏休みの貴方達とは違って、先生はしなきゃいけない仕事が沢山あるの。
それで今は朝の見回りって所ね。
夏休みで暇した子が部室でだらけてる事が結構あるから」


「私だってそんなに暇ってわけじゃないんだぜ?」


「そうね、受験生だものね。
暇じゃないりっちゃんは受験勉強まっしぐらなのよね」


「ごめんなさい、あんまり勉強してません!」


りっちゃんが勢いよく頭を下げて、ぺろりと軽く舌を出す。
それに対し、やれやれ、と私は大袈裟に肩を竦めてみせた。
ある意味お約束の私達のやりとり。
困った教え子だけれど、私はりっちゃんとのこんなコントまがいのやりとりが嫌いじゃない。
こんな時間が嫌いじゃない。
いつまでもこんな関係で居られたら幸せだろうな、って感じる事もある。

だけどいつまでもこんな関係のままじゃいけない事も分かってるのよね。
私も、きっとりっちゃんも。
時間は誰にでも流れていて、その流れは止められないんだもの。


「ねえ、りっちゃん」


私は長椅子に荷物を置いて、ドラムスローンに座っているりっちゃんに近付いていく。
座ったままでも話せる事ではあったけれど、この話はもっと近い距離で続けたかったから。
りっちゃんの温度と想いを至近距離で感じたかったから。


「何だよ、さわちゃん」


「もう進路は決まったの?
進路調査票をちゃんと出していないの、りっちゃんと唯ちゃんくらいよ?」


「いや、あはは、分かっちゃいるんだけど、まだ……」


「もう……、自分の進路なのよ?」


「面目無いです……」


りっちゃんが申し訳無さそうに視線を伏せる。
その様子を見る限り、進路の事を考えてくれてはいるみたいね。
分かってる。
りっちゃんは自分の未来について考えている。
考えているけれど、今の自分と未来の自分とのギャップがきっと埋められていない。
だからこそ悩んでいるのよね。
だからこそこんな大切な日の早朝から、部室に顔を出してしまったりもするんでしょうね。
私は微笑んでから、りっちゃんの肩を軽く叩いた。


「まあ、進路を早く決めればいいってわけでもないんだけれどね」


「……そうなのか?」


「ええ、早く決めたって事はそれだけ考えた時間が短いって事でもあるもの。
勿論、即決即断が悪いわけじゃないけれど、重大な決断が早過ぎるのも考え物なのよね。
何人かそれで後悔しちゃった同級生も見てきたわ」


「ひょっとしてさわちゃんの実体験?」


「まあ、少しはあるかもしれないわね。
教師って職業は嫌いじゃないけど、他の可能性があったんじゃないかって考える事はたまにあるもの。
実はここだけの話なんだけど、私ね、進路調査票に『ミュージシャン』って書いて出した事あるのよ?」


「マジかよ!
それで私と唯をよく叱れたな!」


「他の先生の目もあるの。
それに自分がやっちゃったからこそ、りっちゃん達の無茶も諌められるわけ。
ミュージシャンって進路が悪いわけじゃないわ。
ミュージシャンも立派な職業だし、尊敬出来る仕事よ。
だけどね、本気でミュージシャンを目指すなら、今から活動しておかないといけないのよ。
放課後ティータイムの曲は私も好きよ?
けれど貴方達はまだその曲を音楽会社に売り込んだりしていないでしょう?
地道で世知辛い話だけれど、ミュージシャンになるにはそういう活動もしておかないといけないの。
ミュージシャンだって職業なんだもの」


「そう……だよな……、そうなんだよな……」


りっちゃんのその声は沈んでいたけれど、想像より暗い声色でもなかった。
軽音部の中でも意外と現実が見えているりっちゃんの事だもの。
もしかしたら心の何処かで分かっていたのかもしれないわね。
だからこそ私はもう一歩踏み込んでみる事にした。
追い打ちになるかもしれない。
けれど私は教師という職業で、ミュージシャンを目指した先輩でもあるから、それを訊かないといけない。


「ねえ、りっちゃん……?
りっちゃんが一番したい事は何?
職業や進路に限った話じゃないわ。
将来りっちゃんが一番したい事を教えてほしいのよ。
今なら都合良く誰も居ないわ。
軽音部の皆が居るわけでも、三者面談をやってるわけでもないもの。
だからね、りっちゃんの素直な気持ちを教えてほしいのよ。
りっちゃんは将来どうなっていたいの?
本当にミュージシャンになりたいの?
それとも他にもっと叶えたい何かがあるの?」


「私の……将来……」


りっちゃんが押し黙って拳を握り締める。
聞こえるのはクーラーの音と蝉の声。
そして、自分の将来と向き合うりっちゃんの呼吸の音。
私も口を閉じて、りっちゃんの答えを待つ。

一分くらい経ったかしら。
頬を軽く染めて、いつもより弱々しく、それでもりっちゃんは言葉を紡いでくれた。


「本当はさ……。
私、ミュージシャンを本気で目指してるわけじゃないのかもしれないんだよな」


「うん」


「ミュージシャンには勿論憧れてるよ?
音楽は好きだし、沢山の人達に私達の曲を聴いてほしいって気持ちもあるしさ。
だけどさ、ミュージシャンになりたいって思ったのは、もっと他の理由があったのかもしれない。
ううん、他の理由があったんだ。
私はさ、ミュージシャンになれたら、皆とずっと一緒に居られる気がしてたんだよな。
よく聞くじゃん?
同級生で組んだバンドでデビューしたって話とかさ。
ミュージシャンになれたら、私もそんな風にいつまでも皆と一緒に居られる気がしてたんだよ……」


「うん」


「だって同じ大学に行けるかなんて分からないだろ?
もし同じ大学に行けたとしても、同じ会社に入る事なんてまず無いよな?
だから私はミュージシャンになりたかったんだと思う。
いつまでも皆と一緒に居たかったから……」


「そうだったのね……。
本当の気持ちを教えてくれてありがとう、りっちゃん」


「……私の方こそ」


りっちゃんの話は終わった。
りっちゃんは秘めていた想いを私に伝えてくれた。
本当の事を言うと、そんな気はしていた。
こんな特別な日の早朝から部室に来るなんて、落ち着いて自分を見つめ直す以外の動機があるはずないわよね。
分かるわよ、りっちゃん。
だって私も高校三年生の時に同じ様な事をしていたんだもの。
私だって皆とずっとバンドをしていたくて、進路調査票に『ミュージシャン』って書いたんだもの。
誰にも伝えなかった私のその願いが叶う事は無かった。
だけどりっちゃんは私に想いと願いを伝えてくれた。

それで何が変わるというわけでもないのかもしれない。
まだまだ未熟な先生でしかない私に出来る事なんて、ほとんど無いのかもしれない。
だけどそのりっちゃんの想いの手助けはしてあげたいと思う。
だって私はやっぱりりっちゃんの先生で、りっちゃんの先輩なんだもの。
生意気で騒がしくて元気なりっちゃんが大好きなんだもの。


「ちょっと待ってて、りっちゃん」


りっちゃんの耳元で囁いてから、私は部室の物置き場に飛び込んだ。
偶然だけれど、ここが部室で良かった。
用意していた物をすぐ取りに行ける距離の場所で良かったわ。
もしかしたら神様の用意してくれたちょっとした奇蹟なのかしら?
ちょっとした奇蹟に感謝しながら、私は予め用意していたそれを手に取って部室に戻る。


「じゃーんっ!」


わざと軽い感じでそれを差し出すと、面食らった様子のりっちゃんは首を傾げて口を開いた。


「何、それ?」


「ぬいぐるみよ、クマのぬいぐるみ!」


「いや、それは見れば分かるんだけど……、クマのぬいぐるみが何なんだよ?」


「何を言ってるのよ、りっちゃん。
これはりっちゃんへのプレゼントよ」


「プレゼント?」


「誕生日プレゼント。
お誕生日おめでとう、りっちゃん」


そう言ってからクマのぬいぐるみを手渡すと、りっちゃんは一瞬泣き出しそうな表情になった。
だけどすぐにはにかむと、ぬいぐるみを軽く抱きしめてくれた。


「さわちゃん、憶えててくれたんだ……」


「そりゃね、三年の付き合いなんだもの、りっちゃんの誕生日くらい憶えてるわよ。
今日の帰りにりっちゃんの家に寄ってプレゼントするつもりだったけど、ちょうどよかったわ。
十八歳の誕生日おめでとう、りっちゃん。
あ、物置き場に置いてたからって、適当な物をプレゼントしたって思わないでよ?
ちゃんと前もって用意してたぬいぐるみを物置き場に置いてただけよ?」


「いや、それは疑ってないけどさ、でも……」


「でも?」


「まさかぬいぐるみをプレゼントしてくれるなんて思ってなかったよ」


「どうして?」


「だってこんな可愛い系なんて、私のキャラじゃないだろ?
いや、プレゼント自体は嬉しいんだけどさ」


「何言ってるのよ、りっちゃん」


「えっ?」


「可愛いの、好きでしょ?
私の観察眼を甘く見ないでくれる?
唯ちゃんと憂ちゃんの見分けをおっぱいの大きさで出来る女よ?」


「うっ……、妙な説得力がある……」


りっちゃんの鞄には可愛いキーホルダーがぶら下げられている。
いつもじゃないけれどたまに見せる私服には可愛い服も多いし、
唯ちゃんの家で可愛いぬいぐるみを気にしてたのを目にした事だってある。
本当に可愛い系がキャラじゃなければそんな事はしない。
ただ自分のキャラじゃないと決め付けて、りっちゃんの方から避けていただけなのよね。

本当の自分を避ける必要なんてない。
それを教えてくれたのは実はりっちゃん達の方だった。
この前の結婚式、つい出し物で盛り上がって素の自分を見せちゃったけれど、クラスの皆は受け入れてくれた。
それよりずっと前から軽音部の皆は素の私を受け入れてくれていた。
本当の自分を全て曝け出してとは言わないけれど、さっき私にしてくれた様に少しでも本音を聞かせてほしい。
その方が軽音部の子達も喜ぶと思うから、私は可愛いクマのぬいぐるみを誕生日プレゼントに決めたのよね。


「ねえ、りっちゃん……」


「何、さわちゃん?」


「思ってる事を全部口にして、なんて言わないわ。
りっちゃんもりっちゃんの考えがあって自分の気持ちを黙ってる事も知ってる。
部長が皆の前で不安を口にするわけにはいかないものね。
だけどね、たまにでいいから本当の気持ちを皆の前で口にしてあげて。
そうする事で考えをまとめられる事もあるし、その方が私も嬉しいわ」


「……考えてみるよ」


「ありがとね、りっちゃん。
それと進路についてはまた一緒に考えていきましょう?
皆とずっと一緒に居るためにミュージシャンを目指すのか、
それとも皆とずっと一緒に居られる他の方法を模索していくのか……。
及ばずながら私も一緒に悩んであげる。
私だってこれでもりっちゃんの先生なんだもの」


「うん、ありがとう、さわちゃん」


二人して見つめ合う。
部長として頑張るために無理をして、優しい先生になるために無理をして、ある意味で似通っている私達。
無理をする事が悪いわけじゃないけれど、無理ばかりしていてもしょうがない。
少しでも本当の気持ちを誰かに伝える事だって、決して悪い事ではないはずだから。
私達はもう少しだけ正直になってもいいはずよね。


「そ、それにしてもさ」


長く見つめ合っていた事に照れを感じたのか、不意にりっちゃんが話題を変えた。


「このぬいぐるみ、ふかふかしていい感触だよな?
材料って何を使ってんのかな?
毛皮?」


「えっと……、確か毛皮じゃなくてフェイク・ファーだったはずよ」


「フェイク・ファー?」


「自然の毛皮じゃなくて、石油から作った人工の毛皮ね」


「なーんだ、偽物かよー」


「偽物って言わないの。
でも……」


「でも?」


「偽物でもいい感触でしょ?」


「うん、それは確かにそう思う。
中々いいよな、フェイク・ファーだって」


そう言って微笑んだりっちゃんは、プレゼントのぬいぐるみを強く抱きしめてくれた。
プレゼントした私の方が嬉しくなっちゃうくらいに。

それから思った。
本音を隠して作り上げたフェイク・ファーみたいな偽物の私達。
私達はまだまだフェイク・ファー。
それでも歳を重ねながら少しずつ成長していく。
もしかしたらいつかは本物を超える様な偽物になれるかもしれない。
偽物の自分も、本物の自分も、全部受け止められたありのままの自分に。
その時までりっちゃんと一緒に成長していけたら嬉しい。


「プレゼントありがとう、さわちゃん」


ぬいぐるみを抱き占めながらりっちゃんが上目遣いに笑った。
キャラじゃないなんて言っていたけど、ぬいぐるみを抱いたりっちゃんは十分過ぎるくらい可愛い女の子だった。


「気にしないでいいわよ。
それより落ち着いたら早く家に帰りなさいよ?
今日はこの後、りっちゃんの家で誕生日会をやるんでしょう?」


「何だよー、お見通しかよー」


「さっきも言ったけど、先生を甘く見ない事ね。
皆と思い切り楽しんでらっしゃい。
改めて誕生日おめでとう、りっちゃん」


「うん、楽しんで来るよ。
今日は本当にありがとう、山中先生!」



(*´・ω・`)b【ォワリ誕生日ォメデトゥ】



最終更新:2014年08月21日 22:00