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ムギ先輩の首筋にそっと両手をあててみる。
白く細い肌はほのかに脈打っていて、彼女が生きていることを確かに感じさせてくれた。

私は時々こうして眠っているムギ先輩のに手をあててみる。
ほんの少しだけ力を入れると、苦しそうに噎せ返りながら先輩が目を開いた。
先輩は心配そうに私の顔を覗き込む。
私が顔を横に振ると、強く抱きしめてくれる。

ムギ先輩の体は温かいというより少し熱い。
その熱に包まれて、私はやっと平穏を取り戻すことができる。
私の鼓動が落ち着くのを確認すると、先輩は抱擁を緩める。
今度は逆に先輩を強く抱きしめ、深い眠りへと沈んでいく。



私はムギ先輩と一緒に住んでいました。
二人の生活は、その言葉の響きほど甘いものではありません。
それでも、そんなに悪いものではない。
少なくとも、私はそう思っています。



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ムギ先輩と再会する半年ほど前、私は酷い失恋をしました。
相手の名前を言うつもりはありません。

彼女を失ってしまった後、私は何もできなくなってしまいました。
比喩ではなく、本当に何もできなくなったのです。
自炊もできなくなったし、満足に食事を摂ることもできなかった。
もちろん仕事も失いました。

自分がこんなに弱い人間だとは考えていませんでした。
失恋したとしても二三日後には何ともない顔をする可愛げのない人間だと。
でも、そうじゃなかった。

あの人を失った痛みは私を酷く傷つけました。
リストバンドをつけながら精神科に通う日々が続きました。
私がムギ先輩と再会したのはその頃のことです。



ムギ先輩と再び出会うことができたのは、本当に偶然でした。
私が赤信号を待っているとき、後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえました。
先輩は大学時代とほとんど変わらぬ姿で、私のことを「梓ちゃん」と呼びました。

私は最初逃げ出そうと思いました。
変わりすぎた私を先輩たちに見せるのは嫌だったからです。
だけれどもムギ先輩の「梓ちゃん」という言葉の響きは懐かしくて。
心の中で何かが込み上がってくるのを感じました。

再会を喜び、必死に食事に誘うムギ先輩を見ているうちに、自然と涙が溢れていたのです。
泣いている私を見て、先輩は少し戸惑った後、私を家に連れて帰りました。

強く私の手を握りひっぱるムギ先輩に、私は従うしかありませんでした。
抵抗するだけの気力も体力も、その時の私にはなかったのです。



ムギ先輩の家は3LDKのアパートです。
扉を開くと優しい紅茶の薫りがしました。

先輩は私にミルクティーを振る舞ってくれました。
高校時代と同じように柔らかい手つきで手際よく。
ティーカップもティースプーンもあの頃と同じものでした。

懐かしい匂い。
懐かしい物。
懐かしい人。

たくさんの懐かしさに包まれて、心の中で何かが弾けました。
気づくと私は大声で泣いていました。
そんな私を先輩は強く抱きしめてくれました。



ムギ先輩は何も言いませんでした。
けれども、ぎゅっと抱きしめたまま離してくれません。
観念した私はゆっくりと話を始めたのです。


大好きな人がいたこと。

その人と大切な時間を過ごしたこと。

一緒に色々な場所に行き、色々なものを見たこと。

たくさんのキスを重ね、沢山の愛の言葉をささやいたこと。

その全てを、一瞬で失ってしまったこと。


全て話し終えても、先輩は私を離してくれませんでした。
離してくれるように頼んでも、先輩は拒みました。
一層強く私を抱きしめ、やっと口を開きました。

この部屋は菫と二人で暮らすために借りた、ということ。
菫が海外出張してしまい、一人で使うには広すぎる部屋を持てあましてい、ということ。
そして、誰か一緒に住んでいる人を探している、ということ。

私に一緒に暮らして欲しい、ということを。



最初は断ろうと思いました。
だけど、ムギ先輩の熱を感じているうちに気が代わりました。
この熱に自分の未来を委ねてみるのも悪くないかもしれない、と感じてしまったのです。

私は「はい」と応えてしまいました。


こうして私とムギ先輩の同居生活がはじまりました。



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ムギ先輩は実家の系列会社で働いていました。
育児用品のプロジェクトを任されていたそうです。
先輩は縁故採用だと言っていましたが、ちゃんと仕事ができたみたいです。
何度か先輩の部下の人に会ったことがありますが、皆先輩のことを信頼しているようでした。

ムギ先輩と再開した頃、私はニートでした。
失恋する前は楽器店で正社員待遇だったのですが、あの日以来働く気はおきませんでした。

そんな私に先輩は何もいいませんでした。
ただ、ムギ先輩と仕事の話をした後、すこしだけ私を憐れむような目で見ました。
私はその目がとても嫌いでした。



平日の日中は先輩がいません。
先輩がいない時間、私はずっと泣いていました。
失ってしまったあの人のことを想って。
ただ、ただ、泣いていました。


夜の8時頃になるとムギ先輩が帰ってきます。
真っ赤な目をした私を一瞥した後、御夕飯を作ってくれます。
出会ったあの日以来、先輩は私を積極的に慰めようとはしなくなりました。

先輩はただ私を見守ってくれました。
それがあの頃の私にはありがたかった。
悲しみを抑えることなどできないのだから。



土曜日と日曜日はムギ先輩が家にいます。
特に土曜日は家でゆっくり過ごすことが多かったです。

ムギ先輩がいれてくれた紅茶を飲みながら、本を読むのが定番でした。
図書館から本を借りてきて、二人で読むんです。

ソファに腰掛けて別々の本を読む静かな時間。
体が触れ合ってるわけでも、楽しいお喋りをしているわけでもない時間。

私はこの時間が嫌いじゃありませんでした。
だって、あの人のことを忘れていられたから。



私がはじめて先輩の首に手をあてたのは、一緒に暮らし始めて一ヶ月ぐらいした時のことです。
何故そんなことをしてしまったのか、自分でもよくわかりません。


首を絞められて飛び起きたムギ先輩はだいぶん混乱していました。
けれども、しばらくして落ち着くと、私のリストバンドを指してこういいました。
ストレスが自分を傷つけることもあるのだから、他人を傷つけることもある、と。

先輩は特に気にした様子もなく、すぐにまた眠りにつきました。

私は眠っている先輩の首筋にもう一度手を近づけました。
でも、今度は力を入れませんでした。
そっと首筋を撫でて、その感触を確かめるだけにとどめました。



ムギ先輩と暮らし始めてから3ヶ月ほどで私はリストバンドを外せるようになりました。
それは全部ムギ先輩のおかげだったと思います。
先輩がいなければ、私はあのまま自傷行為を続けていたでしょう。

しかしそれとは逆に、ムギ先輩は首を隠して生活しなければならなくなりました。
外に出るときは必ずタートルネック。
先輩は、私服可の会社でよかった、と笑っていました。

ムギ先輩は、そのことに関して私を咎めたことは一度もありません。
むしろ自傷行為をやめた私のことを祝福しているようでさえありました。



その頃になると、もう泣いてばかりではありませんでした。
時々思い出したように寂しさに襲われることもありましたが。

平日の暇な時間を利用して、私は料理を作るようになりました。
図書館から借りてきた料理の本を読んで、かなり凝ったものも作りました。

ある程度上達した頃、先輩が帰ってくる時間に合わせて御夕飯を作りました。
先輩はちょっと驚いて、私の頭を撫でてくれました。

ペットのような扱いに少し恥ずかしい思いをしましたが、悪くはありませんでした。


ムギ先輩との生活はあの人との関係のように幸せに満ちたものではありませんでした。
けれども、静かでゆったりとした二人の時間は、確かに私の心を癒してくれました。



ある程度心に余裕ができてくると、私は友達とのメールを再開しました。
いち早く反応してくれたのは純でした。

純はさっそく私に会いたいと言ってくれました。
たまには人と会うのも悪くないと考えた私は、レストランで純と待ち合わせました。


久しぶりの純はちょっと垢抜けた感じがしましたが、話してみるとあの頃のままでした。
私たちはたくさん食べ、たくさん飲み、楽しい時間を過ごしました。

最後にお互いの身の上話をしました。
ムギ先輩と私の関係を語ると、純はこう言いました。

それはよくないよ、と。



当然といえば当然です。
私はニートで先輩は正社員。
そして、先輩の首に手をあてる日々。
こんな関係が誰かに認められるわけがありません。

ふとあの目を思いだしました。
仕事の話をするときの、ムギ先輩のあの目を。


たぶん私は自然と考えないようにしていたんだと思います。
ムギ先輩の元を去り、1人で生きていくという選択肢を。

もう自傷行為もしていません。
働くだけの能力も気力もあります。
自炊できる生活能力だってあります。

それならば、もうムギ先輩のもとにいる理由は何一つない筈です。



ある日の夜、私はムギ先輩の首筋にそっと手をあてました。
先輩の首は私のせいでほのかに赤みがかっています。
私の手を伝ってドクンドクンという鼓動が伝わってきます。

そっと首筋を撫でた後、私はベッドから抜け出しました。
財布だけ持って、寝具を着たままでで、私は先輩の家をでました。

あてはありました。
一度実家に帰って、それから人生をやり直そう。
ちゃんと自分で生きていけるようになったら、先輩にもう一度会いに行こう。
会って、ありがとうと言おう。
そう考えていたんです。



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実家に戻ると両親はとてもやさしく迎えてくれました。
私はアパレル店で働きはじめました。

最初は色々ミスをしましたが、慣れるのは意外と早かったです。
同僚にも恵まれ、仕事はそれほど辛いものではありませんでした。

この頃になると以前のように泣くことはなくなりました。

ムギ先輩の元を離れてから、自分の時間は減りました。
でも、ちゃんと働き両親と過ごす日々は悪いものではありませんでした。
週末は純達と買い物に行くようになりました。

一年もすると私はほとんど完全に回復することができました。
私は働いて稼いだお金で旅行に出かけることにしました。



目的地は熱海。
1人で、ただ温泉に浸かるだけの気楽な旅。

お気に入りの服を着て。

家を出て。

電車に乗って。

旅館について。

温泉に入って。

貸切状態の湯船に浸かったとき、ふと思ったんです。

ここにムギ先輩がいたらもっと楽しいじゃないかなって。



一度ムギ先輩のことを考えると止まらなくなってしまいました。
なんだかとても懐かしい感じがして、いてもたってもいられなくなってしまったのです。
久しぶりに先輩に会いたいという気持ちで一杯になってしまいました。


二泊の予定を一泊で切り上げると、私はムギ先輩のアパートに向かったのです。

先輩が住んでいたアパートはあの頃のままでした。
だけど、扉を開いても、あの頃の先輩はいませんでした。



出迎えてくれたのは菫でした。
菫は高校時代の私の後輩です。
大学は別になってしまったのですが、その後も何度か一緒に遊びました。
そして琴吹家の執事の家系であり、先輩にとって家族同然の存在でもあります。


菫は私をみて複雑な顔をしました。
たぶん、その中には憎しみも入っていたと思います。
彼女に連れられて私はムギ先輩のもとに行きました。


目に入ったのはベッドの上で横たわる、変わり果てた先輩の姿でした。



ムギ先輩はすっかり痩せ細っていました。
それも2キロや3キロではなく、10キロ20キロというレベルで。

先輩は私の顔を見ると驚いた様子で、ベッドから飛び上がり、お茶の用意をはじめました。
菫が止めようとしたのですが、先輩は聞き入れません。

出てきたお茶はいつもよりちょっとだけ薄かった気がします。



菫は私に耳打ちしてくれました。
彼女が帰ってくると先輩が拒食症になっていたこと。
何を食べても吐き出してしまうこと。
サプリメントを飲んで、かろうじで生きていること。

テーブルの上を見るとサプリメントの用器が大量に置いてありました。

私が今日は泊まりたいと言うと、先輩は歓迎してくれました。
菫は怪訝な顔をしましたが、しぶしぶ納得してくれたようです。



夜。
菫が寝たあと。
私はそっとムギ先輩の首筋に触れました。
あの頃のような肉感はありません。
けれども剥き出しの血管は先輩が生きていることを、より鮮明に伝えてくれました。
私はそっと手に力を入れました。
ムギ先輩は苦しそうに咽て、私の顔を見ました。

仕方ない子ね、って顔をして。

先輩にあの頃の面影はありません。
でも美しい瞳はあの頃のままでした。

私たちは暫くの間互いの瞳を見つめ合いました。



ふと、おみやげがあるのを思いだしました。
熱海で買った温泉饅頭です。
私は包装を解き、封を開け、先輩の口元にお饅頭を持って行きました。
先輩はごくりと息を飲んだ後、大きく口を開けました。

苦しそうに咳き込みながら、先輩はお饅頭を飲み込みました。
私が頭を撫でると、先輩は苦笑いしました。

次の一つを用意すると、また先輩は食べてくれました。
私はまた先輩の頭を撫でてあげました。

それを何度も何度も繰り返しました。

こうして私が買ってきた12個のお饅頭は全て先輩のお腹に納められたのです。



次の朝、ムギ先輩は朝ごはんの用意をしてくれました。
菫は驚いていましたが何かを察したようで、私にありがとうと言ってくれました。

菫は一週間ほどすると仕事があるからと言ってアパートを出ていきました。
出ていく時菫は少しだけ寂しそうな顔をしていました。

その顔の意味を正確に知る術が私にはありません。
先輩と菫、その二人の間にどんなものが積み重ねられてきたのか。
それが私にせいでどれだけ壊されてしまったのか。
私にはわかりません。

けれども、今更後戻りはできません。
なぜなら――。



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私はしばらくの間お休みをもらって、付きっきりで先輩のお世話をしました。
先輩は私が作るものをよく食べてくれました。
一ヶ月もすると元気に活動できるようになり、先輩は仕事に復帰しました。
会社に席は残っていたようで、すぐに残業生活に戻りました。
私もアパレル店に復帰し、労働を再開しました。
でも、夕御飯を作るのは相変わらず私の役目でした。

私の料理を食べて、少しずつ元の体型に戻っていく先輩を見る日々は楽しいものでした。
仕事の合間を縫って料理の勉強をしたおかげで、私のレパートリーもどんどん増えていきました。



それから三ヶ月ぐらいしたある日。
先輩に有給をとってもらい、熱海に行きました。


温泉はあの日と同じように貸切状態でした。
裸のムギ先輩を見ると、もう完全に痩せる前に戻ったようでした。

湯船に浸かりながら、私は今まで聞かなかったことを先輩にぶつけました。


どうしてあんなに痩せてしまったのか、と。



ムギ先輩は自分は兎かもしれないと言いました。
私がそんなわけないと言ったら、自分がこんなに弱いとは思っていなかった、と言いました。

私は先輩を抱きしめました。
私の腕の中で先輩は小さく震えました。


先輩の中で自分が大きな存在になっていたことを改めて知りました。
それと同時に、この人を守れるのは自分だけだと知りました。



私はそっとムギ先輩の首筋に手をあてます。
先輩の首は透き通るような白でとても柔らかい。
肌の下には血が流れていて、先輩の命を繋いでいる。
思い切り力を入れたらきっと壊れてしまう。

でも、たとえ壊れたとしても。

私が壊してしまったとしても。

それでも。

先輩は私から離れていかない。

ずっとずっと私を待ち続ける。

だから――。




私は先輩の口を塞いだのです。



おしまいっ!




最終更新:2012年11月11日 04:22