「純って、好きな人いるの?」
梓からの突然の質問に、思わず憂と顔を見合わせる。
あいまいに笑ってごまかそうとしても、
好きな人、と言われて思い浮かぶのは一人しかいなかった。
「澪先輩のこと、どう思う?」
梓が澪先輩の名前を口にした時、
どくん、と心臓が高鳴った。
綺麗で、繊細で、誰もが憧れる先輩。
梓が軽音部に入ったのも、澪先輩と無関係じゃないはずだ。
「私、澪先輩のこと……」
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、梓の目に浮かぶ涙を照らした。
私たち以外、誰もいない教室。
夕暮れの放課後。
それは私と同じ、恋をしている目だった。
もしかしたら、と思った事は何度もあった。
最近やけに明るく、口数の多くなった梓。
考えないようにしていた予感は、気のせいなんかじゃなかった。
「私、澪先輩のことが好きなの……」
女の人を好きになるなんて、変だよね。
消え入りそうな声で微笑んでみせた梓の頬を、涙が伝った。
あまりにも真っ直ぐな涙に、私は気付かない振りをした。
「でも、好きなの……」
うつむいて、唇を震わせて、今にも泣きだしそうな梓を、
私は月並みな言葉で慰める事しかできなかった。
梓が誰を好きになったっていいじゃん。
女の人を好きになったって、全然おかしくなんてないよ。
澪先輩、素敵だし、それに……
私だって。
最後の言葉を必死に飲み込んで、
泣いてしまいたいのは私のほうだった。
どうしてこんな恋をしてしまったんだろう。
このもどかしさを打ち明けてしまえたら、どんなに楽だろう。
言えるわけがない。
梓が澪先輩に告白する事を決心した今は、特に。
自分で伝えないと決めた以上、
私の想いが叶う事は決してないんだろう。
そもそも、私が恋愛対象として見てもらえるわけがないのに。
共通点は、楽器を演奏できる事くらい。
それだけで少し近づけたような、だんだん遠くなっていくような笑顔。
美しく流れる黒髪。 澄んだ瞳。 細い指先。
何もかもが私と不釣合いだった。
どうしてこんな恋をしてしまったんだろう。
答えの出ない問いかけと、夕焼けが照らした梓の涙が、
あの日からずっと頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
授業中に、部活の合間に、一人になった帰り道に、ふと考える。
もし梓が澪先輩に告白して、その想いが通じたら。
人目を避けるように、二人が付き合う事になったら。
嬉しそうに澪先輩との時間を話す梓を、私は直視できるだろうか。
少しづつ距離を縮めていく二人の姿に、耐えられるだろうか。
幸せそうな梓の笑顔の前で、私は上手く笑えるだろうか。
私が知る事のできない軽音部でのやり取りを聞くだけで、
自分でも理不尽だと思える嫉妬を感じるくらいなのに。
そんな事を考え始めると、胸が締めつけられるように痛みだす。
大切な人が幸せだったらそれでいいはずなのに。
私じゃそんな関係になれっこないってわかってるはずなのに。
応援しなきゃいけないのに、嫉妬するなんて。
うまくいかなければいいのに。
ほんの少しだけでもそんな事を考えてしまう私は、最低の人間だった。
昼休み。
階段の踊り場なんかで話しこんでいたのがよくなかった。
告白しようかどうか迷ってる、と小さく切り出す梓。
私と憂の間に、ほんの一瞬だけ沈黙が訪れた時だった。
手すりに寄りかかる梓に向かい合っていた私の視線に、
下の階の廊下を通る澪先輩の姿が映った。
階段の踊り場は澪先輩から死角になっていたのか、
私たちに気付いていないようだった。
澪先輩の存在を梓に教えようとした時、
廊下の反対側から向かってきたのか、律先輩の姿も見えた。
憂が絶妙な力加減で梓の決意を後押している間、
私は澪先輩の姿を追いかける視線に細心の注意を払っていた。
梓のすぐ後ろで起きている光景に、梓が気づいてしまわないように。
梓の笑顔が消えてしまわないように。
辺りを見回す先輩たちの姿を。
澪先輩の唇が律先輩の唇にそっと触れた瞬間を。
憂が怪訝そうな顔で私を見ていた事にも、
澪先輩が立ち去る直前、一瞬こちらを見たような事にも、
私は必死で気付かない振りをし続けた。
一晩中悩んでも、梓に伝えるべきかどうか結論は出なかった。
翌日、律先輩がうまく口実をつけて梓と私たちを引き離したのか、
梓がいない時を見計らって、澪先輩が私と憂を訪ねてきた。
私と憂に 『現場』 を見られてしまった事について、
澪先輩は弁解も口止めもせず、恋の話を聞かせてくれた。
ずっと律先輩を想っていた事。
誰にも相談できず、友達のまま過ぎていく毎日のもどかしさ。
受け入れてもらえないかもしれない、
それどころか嫌われてしまうかもしれないという怖さを乗り越えて、
律先輩に気持ちを伝えた事。
幸福なエピソードの一つ一つが残酷すぎて、
梓と同じ、恋に輝かせた瞳を見るのがどうしようもなくつらかった。
その反面、どうかそっとしておいて欲しいという
澪先輩の想いが、痛いほどわかった。
女性が女性を好きになるのがどういう事か。
打ち明けるのがどれほど勇気のいる事か。
それは私が抱え続けたもどかしさ、そのものだったから。
空回りしていた私たちの恋に、終わりが近づいていた。
今日の放課後に告白するつもりだと梓が言った時、
また心臓が高鳴った。
いずれこの日が来るとわかっていたはずなのに。
その結果を私は知っているのに。
部活に向かう梓に、頑張ってね、と声をかける憂。
ワンテンポ遅れて繰り返した私の声は、梓に届いただろうか。
「純ちゃん、本当にいいの?」
なにが? と強がる代わりに、 どうして? と聞き返した。
律先輩と澪先輩の事を教えてあげればよかったの?
梓が勇気を出して告白するのを止めてあげればいいの?
誰のために? 梓のために? 私のために?
うまく説明できない感情が次々に溢れ出して止まらなかった。
憂が確かめたいのはそんな事じゃないってわかってるのに。
いつの間にか泣いていた私を、憂がそっと抱きしめてくれた。
憂だけが気付いていた、私の本当の気持ち。
その優しさが嬉しくて、つらかった。
放課後。 誰もいない教室。
あの日と同じような、夕焼けに染まる教室。
なんとなくここに戻ってきちゃった、と梓は自分の席に座った。
梓の片思いがどんな結末を向かえたのか、私は知っていた。
「純、待っててくれたんだ」
憂は一人にしといてあげようって言ってたんだけどね。
やっぱり心配だったから。
「二人とも、優しいね」
何もなかったように微笑む姿が痛々しかった。
強がった背中は、いつも以上に小さく見えた。
少しだけ離れた私たちの席。
声が届かないほど遠くはない、
抱きしめられるほど近くもない私たちの距離。
すすり泣く声が止むまで、私はいつまでも待っていようと思った。
「ごめんね」
ばか。
こんな時まで人に気を使わなくていいの。
「純も憂も、いろいろ応援してくれたのに」
謝る事なんてないの。
強がらなくていいの。 泣いたっていいの。
「フラれちゃったよ、私」
頑張ったね、梓。
私になかった勇気を出して、震える声を振り絞って、
自分の信じた気持ちを、好きな人に伝えたんだね。
だから、こんな時まで私に背中を向けないで。
今は、私も一緒に泣いてあげるから。
誰も悪くない。
少女と大人の間で誰もがするように、
先輩や同級生に惹かれて、私たちは恋をしていた。
梓も私も、澪先輩だって。
この世界はいくつもの恋がいろんな形で絡み合っていて、
成就するのはほんの一部だけなのかもしれない。
全部の恋が叶う事のないようにできている。
少なくとも、今回の梓の恋がうまくいく事はなかった。
世の中はうまくいかない事ばかりなのかもしれない。
泣きたい事ばかりなのかもしれない。
だけどきっと、幸せな事だって同じくらいたくさんあって、
つらい恋をした数だけ、私たちは大人になっていくんだろう。
だから、いま梓が流してる涙は、
きっと新しい恋を始めるために必要な涙なんだよ。
はやく大人になりたいね。
今日よりもっと強くなれるように。
もう泣いたりしないように。
次の恋が、きっとうまくいくように。
背中を向けたまま、梓は涙を拭いて立ち上がる。
「純、ありがと……」
いつだって意地っ張りで、生意気で、可愛げのない、私の友達。
「純がここで待っててくれて、うれしかった……」
でも本当はとっても弱くて、真っ直ぐで。
「私、純が友達でいてくれて、本当によかった……」
そんな梓だから、きっと私は好きになったんだ。
きっと、梓は知らない。
嬉しそうに澪先輩の事を話す顔を、
軽音部の先輩たちとアイコンタクトを交わしながら演奏する姿を、
私がどんな気持ちで見つめていたか。
そして、きっと一生伝えない。
言葉にしてしまえば、きっと吹っ切ってしまえる想いを、
いつまでもこの気持ちを忘れないために、きっと私は伝えない。
返事のわかりきっている告白で、優しいあなたを困らせたくない。
あなたがまた新しい恋をして、
悩んで、迷って、立ち止まって、振り返ったとき、
そこに私がいてあげたい。
私がいつもみたいにおどけて、
あなたが呆れた顔で笑ってくれたらそれでいい。
そんな恋の形があったっていいはずだから。
夕焼けに染まる帰り道。
寄り添うように伸びる二つの影。
私が澪先輩と一緒に帰ってたらどうしてたの、と梓が尋ねる。
その時は一人で寂しく帰ってたよ、と私は笑ってみせる。
ばか、と梓が顔をそむける。
この距離感が、きっと私たちの形なんだろう。
私たちはこれから、つらい恋を何度も繰り返して、
ふざけ合ったり、ときどきケンカしたりしながら、
こうして一緒に歩いていく。
そんな私たちの距離を、きっと友達って呼ぶんだろう。
校門の近くで待っていた憂を見つけて、梓が駆け出した。
私が追いつけるくらいのスピードで。
いつもと同じ悪戯な笑顔で、私を振り返って。
やっと笑ったね。
胸の奥の小さな痛みを振り払って、私も駆け出した。
猛烈な勢いで走ってくる私たちに気付いた憂が、にっこりと微笑む。
いつまでもこの夕日が沈まなければいいのに。
この帰り道が永遠に続けばいいのに。
そんなバカな事を考えながら、私は梓を追いかけた。
おわれ
最終更新:2014年11月08日 14:38