「結構前からさ、続けて変な夢を見るんだ」
自室の寝台に仰向けで寝ころび、ふと思い出したかのように彼女は言った。
普段つけている髪留めは外されていて、おろした前髪が額から耳元へと流れている。
「へえ、どんな夢?」
枕元に座り、その流れに手を差し入れ軽く梳きながら、彼女の恋人が尋ねた。
さらさら、さらさら。
指の先で彼女の髪が遊び、聞こえない音を奏でる。
それはいつものように、心地よい無声のささやきだった。
「なんかさ、リンゴを食べる夢」
指が止まり、レコードの針が上がると、ささやきは消えた。
「なんだ、星新一でも読んだのか?」
「ほししんいち?」
残念ながら、彼女は自分が以前薦めた小説を読んではいないようだった。
それとも、読みはしても既に忘れてしまったのかもしれない。
学校の教科書に乗るほど有名で、読みやすい文体で、かつ良質で、その上どの作品も短いお話を作る作家であるにもかかわらず、彼女の中には残らなかったらしい。
「ううん、なんでもない。
それで続きはどうなるんだ?」
恋人は小さく笑い先を促した。
「夢の中の私は、手にリンゴをひとつ持っているんだ。
食べ痕がついたリンゴを、ひとつ。
まだ口の中には果汁の香りと甘さが残っていて、それをつけたのが私だってすぐに気づいた。
でも、なんて言ったら良いのかな。
口の中のそれは、まるで時間の流れで薄められて、細く細くなった糸みたいなものなんだ」
「ふーん」
恋人は内心で、少し意外に思いながら相づちを打った。
「お前がそんな風に物事を言葉にするなんて、珍しいこともあるんだな。
もうちょっと感覚的、というかアバウトに生きているとばかり思っていたんだけど。
なあ、次の曲の歌詞、ちょっと試しに書いてみないか?」
「うるさいなあ。
まあ聞けって。
それで、私はこう思うんだ。
『私は次にどうするんだろう』って。
もう一口続けてそのリンゴを齧るのかもしれないし、リンゴを食べるのをやめて一息つくのかもしれない。
どっちも十分あり得るし、少なくとも不自然じゃないだろ?
ただ、私には『自分が次にどうしたいか』が分からない。
あー、違うな。
それだとちょっと違う感じだ。
えーっと……同じ私のはずなのに、夢の中の私は、今こうして話している私とは別物なんだよ。
夢の中の私も、その手の中のリンゴも、それを見ている私の意思とは関係なくそこに在るんだ。
リンゴの考えが分からないように、夢の中の私の考えが私には分からない。
だから、正確に言うなら『次にどうなるか』分からないんだ。
いや、何度も見ている夢だから、この次にどうなるかは分かるんだよ。
でも結局は、そこに行き着くんだ。
『次にどうなるか』にさ。
私は、夢の中でそれを考え続ける。
その内に、夢の中の私は、その手に持ったリンゴから顔を上げる。
ただ顔を上げるんだ。
そうすると、目の前にテーブルがある。
そこには白い皿が置かれていて、リンゴが三つ乗っている。
傷一つない、きれいなきれいなリンゴがさ。
んー、手の中にあるそれも、その皿から取ったものなのかもしれない。
いや、最初から持っていたのかもしれないな。
そんなことに気づくんだ」
話を聞きながら、恋人は頭の中に脚の長いテーブルを組み立てた。
彼女の腰の高さほどの脚の上に、小さいけれどそれなりに厚く、四隅の角が丸い天板が乗っている。
薄い幕板も脚の先を十字に結ぶ貫もしっかりとついている。
そのテーブルの上の皿を、そこに乗っているリンゴを、彼女が見ていた。
「私は手に食べかけのリンゴを持ったまま、そのリンゴと皿の上のリンゴを交互に見ているんだ。
ずっと、ずーっと。
『次にどうなるのか』って考えながら」
恋人の頭の中で、夢の中の彼女が手に持った齧りかけのリンゴの果肉が、彼女が口をつけた場所が、酸化しようとしているのを感じた。
みずみずしい断面が、徐々に徐々に茶色くなっていく。
皿の上のそれは変わらず、彼女の手の中のものだけが古ぼけた写真のように色褪せ、古い映画のようになっていく。
それは恐ろしい想像だった。
——喉が、やけに渇く。
「な、変な夢だろ」
彼女が顎を軽く上げ、恋人を見た。
普段のままの、自然体の表情で。
恋人がそっと頭を撫でると、くすぐったそうに微笑む。
くつろいだ、どこか幼さを感じさせる笑みは、恋人と二人きりの時にだけ見せるものだった。
それは恋人にとって、とてもとても大切にしているものだ。
しかし、いつもは愛しさを覚える幼さが、恋人の内面を揺らした。
彼女がその幼さで、テーブルの上のリンゴに手を伸ばす幻影を見たせいだ。
それだけではない。
彼女が大人になってしまった時に、かつての幼さとは関係なしに、新しいリンゴに手を伸ばす幻影も見た。
幻影は鎖のように連なり、様々な結末を引き寄せる。
「そうだな。変な夢だ」
恋人はそうつぶやいて、もう一度彼女のおろした前髪の流れに手を差し入れる。
さらさら、さらさら。
指の先で、いつものように無声のささやきが起こる。
それを聞きながら、恋人は急に自分が座っている場所が寝台の上よりも、ずっと遠くにあるような感覚に陥った。
——ああ、まるで映画館だ。
遠く離れたスクリーンに、自分と彼女が映っている。
それは大昔の映画のように、白黒で、無声だった。
弁士もおらず、音響すらもないまま、無音の上映は続く。
銀幕には、白い字幕で彼女と恋人の科白が映る。
"そのリンゴはさ"
"うん"
"そのリンゴは、どうなるんだ?"
"どうなるって?"
"食べかけのリンゴだよ"
"うーん、夢の中の話だからなぁ。
結局、夢の中ではどうもしないまま終わるしさ"
"そっか"
"沈黙"という字幕が、灯りに惹かれた虫のように画面にとまる。
それは、画面にテーブルの上の皿が映し出されると、どこかへ飛んでいった。
"きっと、これから皿の上のリンゴは変わっていくんだろうな。
古いものが残ることもあるけれど、大体は新しいものと入れ替わるんだ"
リンゴが減る。
リンゴが増える。
シャッターを切るように、画面が暗転する度に映像が切り替わる。
切り替わった後に向きが変わっていたものが、きっと入れ替わったものなのだろう。
しばらくの間、増減し、向きを変えるリンゴを映した後、画面は真っ暗になった。
"食べかけのリンゴも、入れ替わるんだろうな"
そんな字幕だけが最後に残る。
画面には映らなかったが、彼女が手にしていたリンゴも、最初のものとは変わっているに違いない。
そう、思った。
夢の話だよ、と笑いながら彼女は言う。
そうかもな、と恋人は言った。
彼女はもう一度微笑み、両手を恋人の方に伸ばした。
恋人は彼女の意図を察し、体勢を変えて上体を傾けた。
彼女の両手が恋人の首に絡まり、引き寄せる。
限りなく近い距離で感じるやわらかな香り。
ふれ合った唇の感触とその奥の蜜の幽かな甘さ。
幾度となく交わしたそれを恋人と彼女は確かめ合った。
初めて口にした時と同じように。
そうして離れた後に、彼女は恋人に言った。
ただの夢の話だよ。
そうだな。
恋人はようやく笑みを浮かべ、彼女にそう言った。
——そうだ、これはただの夢の話。
——私はそれを知っている。
目を開けると、闇だけがあった。
暗い部屋には私一人しかいない。
いつか口にしたやわらかな香りも、蜜の甘さも、記憶には残っている。
けれど、実際に私の乾いた舌に、鼻に残っているのは、時間の流れによって薄められた細い細い糸のような感覚だった。
追おうとするほどにそれはさらさらとほつれ、やがて消えた。
無音の闇の向こうに指を伸ばしても、何一つ絡めとることは出来ない。
喉が、痛みを感じるほどに渇いていた。
おしまい。
最終更新:2014年12月17日 23:14