▼‐12
あんなに殺人事件で騒がしかった教室は、
学びの舎としてあるべき落ち着きを取り戻している。
わたしと和ちゃん以外は全員帰宅した。
帰り際になってしずかが心配そうに声をかけてきたけど、
そっと笑いかけたら、あとは何も言わず、そのまま立ち去っていった。
でもわかる。あの背中は納得していない。
「どうしたの?」
「あとでご馳走するとか、埋め合わせしないとなって」
「わたしに?」
「まさかー」
もちろん今日の働きは、労われるべきものだろう。
まあ、それとご馳走は別ということで。
「それで話ってなにかしら?」
「あの推理の続き。当ててもいい?」
和ちゃんは考える間もなく、すぐに頷いた。
わたしに呼び止められたときから、腹は決まっていたといったように。
「あのとき、和ちゃんは犯人の名前を五人挙げた。そして、それで打ち止めにした。
でも本当は――“六人目”がいるんだ」
「続けて」
「あのロープの使い方は当たってると思うし、それを使ったのは姫子ちゃんだった。
でも、それだとおかしな点が出てくる。
美冬ちゃんたち二人がトイレの前で話していた理由を、和ちゃんは、
“唯ちゃんを守るという意味合いが強かった”と言っていた」
「確かに言ったわね」
「うん、この点も間違ってはいないと思う。それだけ慎重になってたんだから。
だったらどうして“姫子ちゃんを守る人はいなかったの?”」
和ちゃんは横目に窓の外を見ながら、眼鏡のつるをそっと擦っていた。
「すぐに戻ったから、とは考えられないかしら?
わたしたちが廊下にいる間に上り、刺し、下った。
短い時間だったら、守る人は必要ないかもしれない」
「窓には鍵がかかっていた。そして、あの窓は外から鍵を掛けられる作りじゃない。
つまり和ちゃんたちが部屋を覗き込んでいる間は、姫子ちゃんは部屋の中にいたということ。
短い時間なんて、とんでもないよ」
「唯だっていた」
「唯ちゃんはちかちゃんが鍵を取りに来てから、すぐにトイレへ行った。
守るという役割を全うしていたとは到底思えない」
「だったら聞くわ。この問題を解決する、六人目の犯人は誰?」
ここまで来れば簡単だ。名探偵でなくても、唯ちゃんでも解けちゃうかもしれない。
ああ、こんなこと言ったら、唯ちゃんに失礼かな。ごめんなさい。
だけどわたし、今はこうするしか無いんだ。でも時間は待ってくれない。
覚悟を決めて。
「……わたし」
簡単で最も身近な三文字の言葉は、
高等学校の教室にとってふんわりとしすぎたものだった。
けれどもそれは重くもあり、吐き出した瞬間軽くなったけれど、
でも、この言葉を繕うのに随分と時間をかけた。
和ちゃんは微笑を浮かべた。
「まるで自白ね。これまで費やした労力を返して、って言いたいぐらい」
「そうだね。でも、和ちゃんはもう一つの解決法を見つけ出した。
それだって、結局わたしと同じことをするんでしょ?」
「そうね。ええ、そうよ。姫子は実際、誰かに守られていた。
その子は姫子の異常な行動を発見すれば、すぐさま通報するだろうと思われていた」
「でも逆だった。わたしはむしろ、姫子ちゃんを守る立場にいた」
そして和ちゃんの二つ目の方法では、さらにもう一度逆転が起こる。
「和ちゃんの提案は“探偵をありふれた人間にする”。
作中の“ありふれた”という言葉の主語は――」
――殺人。
「和ちゃんは名探偵を犯人側の協力者にしろと言ったんだ。
そうすれば、あの犯行は至ってシンプルなものになる。
短い時間で犯行を終え、ベランダからすぐさまキッチンへと下れる」
「そうね」
「そして、鍵を取りに行った行動は、それが終わったことの合図でしょ。
唯ちゃんがトイレに行ったのは、その後のこと。
でも……色々と最後で無茶な展開を用意しなきゃいけないよね、これ」
「だからそれは全部脚本家に投げたわ」
そうなのかな。むしろ、和ちゃんは選択肢をあげたんじゃないかな。
なんとなく、あの和ちゃんからは、優しさが感じ取れていたんだ。
「でも、最後に一つだけ教えて。それだけでいいから」
「あら、なにをかしら? この事件は今度こそ解決したのだけど」
「まだだよ。うん、まだ……オリエント急行の殺人の、最後を聞いてない」
突飛な質問に、和ちゃんは吹き出した。珍しい。
「え、え、ちょっとちずる、それ本気?」
「もういいよ。こっちの方が気になる」
困ったジャーナリスト精神ね、と和ちゃんはため息混じりに語った。
待って、わたしは写真部で、新聞部じゃあない。
「最大級のネタバレよ、いいの?」
「もう散々された」
「そう……じゃあ覚悟して聞きなさいよ」
思わず息をのむ。名作として世に通じている作品の、最後。
それは一体どんな姿を、わたしの前に見せてくれるというのだろうか。
「犯人はアンドレニ外交官夫人を除く乗客と車掌の、合計十二人。
でも名探偵ポワロは、その人たちの事情を考え、一つ目に挙げた嘘の真実を本当のこととした。
犯人を完全に当てたのに見逃したのよ」
「その、アンドレニ外交官夫人って……」
「安藤れん……つまり、ちずるのことね」
和ちゃんの言葉が頭の中に滑り込んだ瞬間、わたしの頭のあらゆる回路が繋がった。
それは、パーツ単位では理解に苦しんだものたちが、
パズルのように歯車のように、かしゃ、かしゃ、と噛み合っていくような感覚だった。
止まってしまった脚本。
役者のケガ。
後輩ちゃん。
多数決。
ありふれた人たち。
たった一人の非殺人者。
最後の犯人。
罰せられるべき殺人。
繋がった回路には電気信号が忙しなく走り、そして、てっぺんについている電球を灯す。
和ちゃんは即興劇で二つ目の方法を暗示していた。
けれど本当に、その二つ目は、脚本家の考える劇中で出てきていただろうか。
“オリエント急行の殺人”にはあっても、“織園戸高校の殺人”にはあっただろうか。
そこまで行きつく前に脚本は途切れてしまっていたけど、あの劇の結末は、きっと。
「……ねえ、和ちゃん。脚本家さんは、和ちゃんの言葉に頷いていた?」
「電話越しだからわからないわ」
「そういうことじゃなくて」
「あとに続いた会話を聞いたなら、わかってくれると思うけど」
全てが腑におちた。ピースは一枚の絵となり、歯車はブリキを動かし始めた。
「まあ唯一わからないのは……、いえ、きっとそうなんだけど、
安藤れんに罪の自覚があったかどうか、かしらね」
なんとなく、そんなこともわかっていた。
恐らく彼女は、わたしが演じた彼女は、自覚していた。
だけど最後に怖気づいた。だからこうなった。
「わたしはね、ちずる。今回のこの事件、解決ができたと思ってないわ。
そうね、多少は前に進めることができたかもしれない。
でもそれが最善の手だったかはわからないし、できることが他にあったかもしれない」
「らしくないよ、和ちゃん。それに、頼んだのはわたしたちの方なんだから、
和ちゃんがなにかと考えることもないんだよ」
「一度参加してしまえば、後だ先だなんて、関係ないことよ」
和ちゃんは肩を上下させ、大きなため息を吐いた。
「わたしは、こういう推理モノは好みよ」
やたら主語を強調しているように聞こえた。
次に続く言葉が、わかるような気がした。
そんな言葉はついに鼓膜を揺らすこともなかったけど、ぼんやりと、頭の中で囁いていた。
だから。
「ねえ、和ちゃん。今日は本当にありがとう。
だからさ、この後なにか食べに行こうよ、ご馳走するよ」
「ありがとう。でも、気を遣ってくれなくてもいいのよ」
「なに言ってんのさ。これは最後をハッピーエンドで締めたい、わたしの願望だよ」
「……ふふ、そうなの。じゃあお言葉に甘えさせてもらうわ」
和ちゃんはそっとわたしに笑いかけてくれた。
どうも、たったこれっぽちしか生きていないわたしたちでも
わかるぐらいに、この世界のままならないことというのは多いようだ。
「どうぞどうぞ。あ、ついでにしずかも誘っていい?」
「負担を減らすため?」
「あ、バレてる……まあしずかにはバレないだろうし、大丈夫でしょ」
例えばこの後、その狙いが一瞬で見透かされてしまったとか。
出会い頭に彼女が言った言葉は、わたしへの不平不満、やっぱりなにかあったんだ、とかとか。
そこまでしずかを悩ませていたなんて、思ってもいなかった。
こりゃこっちもご馳走しなくちゃな。
ああ、ままならないこととは、お財布に優しくないことだ。
わたしの周りはままならないことで恵まれている。
なーんてね。
最終更新:2015年04月02日 22:53