自分でも気がつかないうちに、梓の瞳から涙が流れていた。
堰を切ったようにとどまるところを知らず、流れ続けていた。

目の前の彼女は、そのことに気付いていたのだろうか。

ガタン

観覧車が揺れる。

彼女の身体は梓を離れ、いつの間にか対面にが座りなおして空を眺めていた。


それからふたりはずっと無言だった。

わずかに軋む音だけがせまい空間に響いて、
前後左右に空間が揺れる。

椅子が固くてお尻が痛い。
長く座っているのは辛いな、と梓は思う。

窓の外の風景がだんだんと変わっていく。

ゆっくりと、目をつむれば気がつかないくらいのスピードで、
観覧車は下へ下へと降っていく。



台風の多い夏だった。

大きな台風がいくつも日本列島を襲った。

この夏最大、という言葉をいったい何回聞いたことだろう。

いくつか目に来た台風は予定の進路を大幅に変えて、列島を避けるようにして海に流れていった。

台風は海に流れていった。

台風は、海に。

海に、流れていった。

海に。

海。

…。




TV画面にはいくどもいくども、荒れ狂う海の様子が流された。

そんな夏だった。


もう、帰ろう。

どうしてもその一言が言えないまま、梓はずっと窓の外を眺めていた。
地面がどんどん近づいて、景色が見慣れたものに変わっていく。

言わなくちゃ。

「もう、帰る?」

自分から言いだそうと思っていた一言が相手の口から出たことに、
戸惑いながらも梓は彼女を向き直った。

「それとももう一周、する?」

彼女が聞くと、梓は頷くような頷かないような、笑うような泣くような様子をみせた。


「もう一周、しよっか」


ふたりはそのまま、観覧車を降りなかった。

もう何周、回ったんだろう。
梓にも彼女にも、わからない。

夕日に照らされた観覧車は、ゆっくりゆっくりおなじところを回り続けていた。

ガタン ゴトン



帰らないと、ダメ?
帰りたくないよ。

真夜中の海辺に、潮騒だけが静かに響いている。
わたし達ふたりは、砂浜に腰を下ろして海の方を見ていた。

『わたしも帰りたくなかったよ』

じゃあ、帰らなきゃいいじゃん。

『そういうわけにはいかないの』

あずにゃんはひとりで帰るの?

『ひとりじゃ帰らない。ひとりじゃ』

それなら一緒にいよう。いつまでも。このままずっと。

『一緒だよ。でも逃げるのは無理。…もう無理』

よかった。一緒にいてくれるんだ。
そう思ったけれど、この言葉は口に出さなかった。


『わたしも…帰りたくなかった。
 ずっと同じところを回り続けていたかったよ。
 そうしなきゃ生きていけなかった。
 そうしなきゃ耐えられなかった』

つむっても開けてもおなじ暗闇が広がっているんだから、目を開けてる意味なんかない。
そう思ってすっと瞳を閉じた。

『だって、ずっと一緒だったんだもん。
 ずっと一緒だって思ってたんだもん。
 わたしを置いて行っちゃうわけないって…。
 あのひとがいなくなるわけないって…。
 もう、あの人なしに生きていけそうになくて…
 だから…』

両手には砂の感触は、ジメッと湿り気を帯びている。
強く握ると手のひらからこぼれていって、落ちて消えた。

『でも、もうムリ。
 逃げ続けるのも回り続けるのもムリ。
 つらいの。
 あの人の思い出にしがみ続けるのはもうムリなの。

 きっとわたしはあの人のことを今よりずっと深いところに沈めちゃう。
 ごめんね、今更こんなこと言い出すなんて。許して。


 ごめん…』

震えながら、声にならないくらいのかすかな声で、あずにゃんは言った。


目を閉じていても、わずかに触れてる肩を通して、身体から震えが伝わってくる。
わたしは目を開いた。

暗闇の中に、ぶるぶると全身を震わせながらそのまま膝を崩して前のめりに倒れこんでいる。
倒れても震えは止まらない、声はころしているけれど、泣いているんだとわかった。





思い出した。
あのときに見た大粒の涙。





潮はいつの間にか随分と引いて遠く離れてしまっている。
暗闇に潮の香りが鼻をついて、いま自分が海辺にいることを思い出させた。
少しだけ星が姿をあらわにしている。


なんで…泣いてるの。
わかんないよ。


…ここにいるよ。わたしはここにいるのに。
むかしも、いまも、これからも。ずっと。

だって、そう約束したじゃん。


思い出…いっぱいつくったじゃん。
すっごくたくさん。それはもう、数え切れないくらい。


海風がつめたい。海底よりも海の上がもっと寒いよ。
それならずっと、海の底にいようよ。

泣かせるつもりなんて、これっぽっちもなかった。
ふたりで笑って生きていくためにしたことだった。
自分が生きていくためにはこうするしかなかった。
そうしたら、わたしたち、しあわせなままで居られると思った。




わたしはずっと追いかけていた。

追いかけて追いかけて、

ちいさいころから大好きで、
追いつきたくていつでも背中を追いかけて、
喜ぶ顔を見るのがなによりのしあわせで。
どれだけのたのしいをもらったんだろう。
いっぱいのたのしい。
お返しできないくらいたくさん。

毎日毎日思い出して思い出して、忘れないように胸に刻んだ。

忘れたくなかった。

どこにも行かないって約束したのに。
もう少しいっしょにいられると思ったのに。
あのひとが約束をやぶるわけない。やぶったとしたらそれはわたし。
姿を消したのは、わたし。
消えていなくなっちゃうなら、わたしの方がいい。
いくらでも代わりになるよ。

ほら。
身体を起こして。
目を開けてみて。

ちゃんといるよ。
わたしはここにいる。
どこにも行かないよ。
いつだって、そばにいるよ。
いっしょに逃げよう。
どこまでも逃げよう。







うそつき。






水面に浮かんだ波の泡が、消えた。


こんなに泣かせちゃうなんて、思わなかった。
よろこんでくれてるって、
支えになってるって、
そう思ってた。思い込んでた。

うそ。
ううん。わかってた。
ぜんぶわかって、やってたの。
確信犯。
だってわたしも耐えられなかったから。

だからずっとうそついてた。
自分を救うためにはこうするしかなかったから。
どうしようもなかったから。
けれど、まわりは誰もわかってなんてくれなかった。

誰もがみんな、わたしのことを可哀想な子だと思って相手にしてくれなかった。
おとうさんやおかあさんでさえ。

でも、ひとりだけは違った。
わたしを信じようとしてくれた。

だからわたしは、わたしを信じてくれるたった一人の友達を巻き込んで、うそをほんとうにしようとした。

どこまでいっしょに、いつまでもいっしょに、ずっといっしょに、逃げ続けていたかった。

うまくいってると思ってた。そんなわけないのに。

わたしのせいでどれだけこの子を追い詰めて、くるしめてしまったんだろう。




『 』


顔を上げて、瞳をじっと見つめてわたしの名前を呼んだ。

『ごめん…わたし最低だよね。
 今まで何も言わなかったくせに、 に甘えてばっかりで思い出にすがってばっかりなくせに。
 それなのに今さらこんなこと言い出して。

 だけどわたし、もう一度ちゃんと向き合いたい。そうしないともうどこにも行けない。
 だから 、会いたいの。戻ってきて。お願い』


ちがうよ。最低なのはわたしだよ。
ごめんね。ほんとうにごめん。
ずっと側にいてくれたのに、ずっと助けてくれてたのに、わたし、自分のことしか考えてなかった。


海の向こうの向こう。水平線の向こう。灯台の光の向こう。光が届かない向こうを見つめた。

雲のすきまから月が見えて、すぐ隠れた。
現れては消え、現れては消え、を繰り返すおつきさま。

電池、切れかけなんじゃない?
ちゃんと入れ替えたほうが、いいんじゃない?
乾電池、買ってこようか?

いらないよね。
本物のお月さまだもん。偽物じゃない、本物の。

また雲が、月も星も何もかもを隠す。

わたしは立ち上がった。


わたしは立っている。砂の上に立っている。
今いる場所は海の底じゃない。
いまわたし達がいるのは浜辺なんだ。
たとえ真っ暗でも、目の前には海と空が広がっていて、どこまでも続いているんだ。

右手でぎゅうっとケータイを握りしめて大きく振りかぶると、
全力で右腕を振った。

手から離れたピンク色のケータイは大きく大きく放物線を描いて、
なにも見えない、すべてを吸い込んでしまったまっくらの、
その先の先のほうに消えてった。
なにも見えない、すべてを吸い込んでしまったまっくらの、
その先の先のほうに消えてった。
夜の闇と海の向こうに、消えていった。



とぽん、と遠くでちいさく音が聴こえた。




右手でヘアピンを抜き取って、波打ち際に放り投げた。
波がそれをさらっていく。
少しだけ風が吹いて前髪がなびいた。






『梓ちゃん』






わたしは小さな声で梓ちゃんの名前を呼んだ。
あだ名じゃなくて、昔どおりに、ちゃんと名前で。

梓ちゃんは黙ったままわたしを抱きしめた。
わたしは力いっぱい梓ちゃんを抱きしめ返して、
梓ちゃんもそれに負けないくらいの力でわたしを抱きしめて、



ふたりで声をあげて泣いた。




夜の海は変わらずしんと穏やかで、潮騒だけが絶え間なく夜に響き続けていた。



-spring side-

鳥の鳴き声が絶えず響いている。

枝先の方はまだ膨らみかけの蕾のままだった。

視線を移すと、幹に近い部分は完全開ききって鮮やかに咲き誇っている。

昼前までしとしとと降りつづけた雨のせいか、
根元にはいくらか散ってしまった花びら。

空を見上げると、流れていく雲の合間から時折薄く日が射している。
漏れてくる何条もの光が二人を照らす。

風に吹かれて、黒髪がさらさらと揺れた。




「雨、やんでよかったね」

さっきからずっと、しゃがんだまま黙って目をつむっていた憂が、
ようやく口を開いた。

「傘、持ってきてなかったからね」

雨上がりに土の道を歩いたせいで、梓のスニーカーは黒く汚れている。

「ちょっと、寒いけどね」

「もう、四月なのにね」

梓が肩を寄せて少し震えてみせた。

「だってここ、山の上だもん」

「見晴らしのいい、ところでしょ」

梓が遠くに視線を向ける。
ああ、ここからはこの街が全部、見通せるんだ。

「海、見える?」

左手をかざして遠くの方に視線を向ける。

「見えないよ。ここからじゃ」

「そっか」

「そうだよ」

海は見えない。
海はここから、この街からずっと遠く。ずっとずっと向こうの離れたところにある。




憂はしゃがんだまま、ふたたび目を閉じた。

なにを思っているのだろう。
なにを祈っているのだろう。
でもたくさん伝えたいことがあるんだろうな。

「梓ちゃん」

「なに」

「わたし、桜ってちょっと苦手なの」

憂は目をつむったまま、話しつづけた。

「桜が咲き始めると、不安になるじゃない。
 ほら、雨が降ると心配になるし、
 散り始めると、今年も桜はおしまいだなーって、なんだか寂しい気持ちになるし、

 だからちょっと、苦手」

「どうせ散るなら、咲かない方かいい?」

「…ううん。そうは思わないけど。綺麗だしね、さくら。好きだよ」

街の桜はほとんど散りかけて、枝々は淡いピンクの花とみどりの葉色が混じり合った様子を見せていた。
木々から落ちた花びらはこの街の道という道を覆いつくし、世界を淡い花色に染めていた。


「でも仕方ないよ。桜は散るものなんだから」

「…うん。わかってる」

「それに葉桜も悪くないもんだよ」

「…地味じゃない?」

鳥の鳴き声に混じって、風に揺れる葉擦れの音。

「…まあ、ね。桜の花には勝てないね」

山の上から見渡す淡い花化粧に彩られた街は美しかった。
今まで見たことのある、どんな景色にも負けないくらい美しかった。
きっとこれ以上に美しい街は、世界中探したってどこにもない。

けれど街が花色に変わるのは、限られた時間にすぎない。

一瞬の出来事。

終わってしまえばあっという間。

わたしも桜、苦手かも。梓はそう思った。


遠くの方の空が暗い。
だんだんと黒い雲が集まって、ここも陰りだした。

「雨…、また降るかな」

「……」

「憂」

「……」

「ねぇ憂。そろそろ帰ろっか」

「……」

「やっぱりもうちょっとだけ、ここにいよっか」

憂は答えなかった。
黙ったまま。しゃがんだまま。目をつむったまま。

梓は頬に冷たさを覚えて空を見上げた。

雨。

…。

…。


「…いつにする?」

「え?」

「葉桜見物」

「行くの?」

「行くよ。行こうよ。ふたりで。わたしと梓ちゃんのふたりで。
 そうだ。純ちゃんも誘ってみようか」

憂は座ったまま、梓の方を振り向いた。
憂の頬が、雨の滴で濡れている。

「うん。そうだね。そうしようか」

頷く梓の頬も、雨の滴で濡れていた。
雨が降って、また桜が散る。枝に残った桜の花も散っていく。
花がすべて落ちた後は、葉が茂る。そうして、夏がやって来る。

「…帰ろっか」

「…いいの?」

「いいよ。だって雨、降ってきちゃったし。風邪ひいちゃうよ?」

「そうだね。気をつけなきゃね」


ごめん梓ちゃん、ちょっとだけ待って。
憂はそう言ってカバンをあけ中をゴソゴソと漁ると、
リボンを取り出して口にくわえた。
それから頭の上で髪をひとつに集めて、リボンでしばり上げる。

「おまたせ」

梓の目の前にいるのは憂だった。
彼女は間違いなく、憂だった。

梓が伸ばした右手を、憂が左手で掴む。

雨に濡れて湿ってはいたけれど、
それはあたたかい手のひらだった。

ゆるやかに風が吹く。

ひらひらと花びらが宙を舞い、
憂の頬に触れた。


おしまい






最終更新:2015年04月14日 08:04