「それから」


 私は、お姉ちゃんを愛していました。

 かけがえの無い家族として、たった一人の姉として−−そして、一人の女性として。
 この気持ちに気付いたのは私が中学2年の時、同じクラスの男の子に告白されたのがきっかけでした。
 周りの女の子も、恋をして、初めての彼氏ができて、
自分もそうなっていくのかな−−そう思っていた頃の事です。
 私に「付き合ってほしい」と告白した男の子がいました。
それは爽やかで顔もかっこいい、サッカー部の男の子でした。
 私はその言葉を受けた時−−驚きました。

 何とも思わなかったのです。

 告白されるってことは、もう少しときめいたり、やだなと
思ったり、何かしら心が動くものだと−−そう思っていたのに。

 私の心はぴくりとも動きはしませんでした。

 それどころか夕暮れの教室でひとり、「早く家に帰りたいなぁ」とだけ、思っていたのです。
 もちろん、そんな想いを口にしたら悪戯に傷つけてしまうだけなので、
その場で丁寧に「ごめんなさい」と断って−−私は家へと急いで帰りました。

 恋を知らない私だから、なんとも思わなかったのかな……?
 誰かを好きになったことがないから、なんとも思わなかったのかな……?

 そんなことを考えながら、私は家路を急ぎました。
 一刻も早く忘れてしまいたいとか、そんな気持ちも、あったのかもしれません。
 だけど何故でしょうか−−そんな事より何より、お姉ちゃんに逢いたくて、仕方がなかったのです。

 家に帰った私を、お姉ちゃんはいつも通り出迎えてくれました。

「ういー、おかえり。今日は遅かったね、なんかあったの?」

 「ううん、なんでもないよ」と、その言葉を口に出そうとお姉ちゃんの方へ顔を上げた、その時です−−
私の前にいる、いつも通りの柔らかい笑顔で私を見るお姉ちゃんに、突然どくん、と胸が跳ねたのは。

 少し癖のある、栗色の髪。丸くて大きな瞳に柔らかく弾むようなその唇。
 砂糖菓子みたいな甘い声と、小さくて頼りないけれど、温かい手のひら。
 そこに居るのは私によく似ているのに、私とは全く違う−−。

 たった一人の、私の“お姉ちゃん”。

 私は、その瞬間。
 その人に−−平沢唯に。
 ずっと恋をしていたのだと、気付いてしまったのです。

 それからの日々は、痛みと共にありました。

 同じ“女”で、血の繋がった“姉”。絶対に赦されない−−そんな事はすぐに解りました。
 来る日も来る日も、私は姉の何気ない仕草や表情に
ときめく気持ちを必死に堪えて、隠して過ごしました。
 そうして、いつからか家中が寝静まった夜、お姉ちゃんを想ってこっそり自分を
慰めるようになりました−−そしてその後は決まって夜が明けるまで泣き明かしました。
 姉を想ってする事への罪悪感と、今まで感じたことのないとてつもない快楽と、虚しさと。
こんな事してはいけないのに、止められない私の弱さと、膨れ上がる姉への想いが、
ひとり絶頂へ達した後、いつもいつも押し寄せるのです。

 一度だけ、そんな私の泣き声を聞いてしまったお姉ちゃんが、夜中に部屋へやってきた事がありました。
 どうしたの? と訊くお姉ちゃんを必死に誤魔化して、私は無理に笑顔を作りましたが、
その優しさに胸が熱くなって、余計に涙が溢れます。
 私の髪を撫でるその手も、私を抱きしめるその身体も、
私が心から欲しているとお姉ちゃんが知ってしまったら……。
 そう思うと申し訳なくて、苦しくて、だけど、どうしようもなく温かくて−−
朝まで涙が止まらなかったのを、よく憶えています。
 お姉ちゃんは、何の力にもなれなかったことを悔いてでしょうか、
「ごめんね……ごめんね……」といつからか一緒になって泣きながら抱きしめてくれていました。

 それからです。
 私が声を殺して泣くようになったのは。
 そのくらいに、絶対に気付かれてはいけないくらいに、想いは膨れ上がってしまっていたから。
 私はお姉ちゃんにだけは気付かれないよう、迷惑をかけないよう、声を殺して泣くようになりました。

 そして時間が少し経ち−−お姉ちゃんが桜が丘に合格して軽音部に入る頃には、
私は自分の気持ちとうまく付き合うことを考えるようになっていました。
 姉を女として愛してしまった自分が赦せない分、
家族としては精一杯まっすぐ愛していこうと、そう決めたのです。
 お姉ちゃんも楽器を始めて、友達ができて−−私の知らないところで世界がどんどん広がっていくのは
少し寂しかったけれど。それ以上に変わっていくお姉ちゃんが
かっこよくて、来る日も来る日もこっそりときめいていました。
 そしてそんな中でも、変わらず私を頼り続けてくれること、甘えてくれること。
そして何よりも近い“家族”でいてくれることがとても嬉しかったのです。
 しかし、いつも嘘をついているような罪悪感と、妹として私を愛してくれているお姉ちゃんを、
どうしようもなく裏切っているような、その気持ちを消し去ることは出来ませんでした。

 それでも、私が、姉を追って桜が丘に入学する頃には、
その痛みを隠して生きていく覚悟さえ、出来ていたのです。

 梓ちゃんと出会ったのは、そんな春の日のことでした。

 お姉ちゃんがいる軽音部が、新入生歓迎ライブで講堂のステージに
立っている時−−私の隣で、背伸びをして必死にステージを見ていた可愛い女の子。

 それが彼女−−中野梓ちゃんとの出会いでした。

 それから私たちはクラスが同じだったこともあってか、すぐに仲良くなりました。
 同じ中学だった純ちゃんも合わせて3人で、いつも一緒に過ごすように
なるまでそれほど時間はかからなかったと思います。

 梓ちゃんはいろんなことを話してくれました。

 入った軽音部のこと、私の知らないお姉ちゃんのこと、“あずにゃん”というあだ名のこと。
澪さんや律さん、紬さんのこと、さわ子先生のこと。それから梓ちゃん自身のこと。

 梓ちゃんはいろんなことを訊いてくれました。

 家にいる時の私のこと、梓ちゃんの知らないお姉ちゃんのこと、
好きな漫画や音楽のこと、家族のこと。そして私から見た梓ちゃんのこと。

 時々私がひとり泣き明かした次の日は、理由もきかず髪を撫でてくれたり、
私の髪を綺麗だと言ってくれたり、作ったご飯を美味しいと言ってくれたり……。
 そうしたなんでもない事で、梓ちゃんはゆっくり、ゆっくりと
頑なになりかけていた私の心を、解きほぐしていってくれたのです。
 そして、心が解きほぐされた時、私は初めて−−お姉ちゃん以外の人に
心を揺り動かされ始めていたことに気付いたのです。

 季節はゆっくりと、確実に流れました。

 お姉ちゃんは高校3年生の文化祭の後、他の軽音部の皆さんと
同じ大学を受験し、家を出ることを決めました。
 それからのお姉ちゃんは、私も驚くくらい勉強に励んでいたのを憶えています。
 私には少し、その姿が家を早く出たがってるように見えて寂しくなりましたが、
変わっていくお姉ちゃんが今までよりもっと輝いて見えて、言葉を飲み込みました。
 そして努力の末、お姉ちゃんは軽音部の皆さんと同じ第一志望の大学に合格しました。
 だけど合格発表の後に私が「おめでとう! やったねお姉ちゃん」と伝えると、
ほんの少しだけ、寂しそうに笑ったのが、不思議でした。
 卒業式の後、久しぶりに揃った家族でお祝いをしている時も、お姉ちゃんはどこか悲しそうにしていました。
 私は結局お姉ちゃんの本心がつかめないまま、残り少ない日々が過ごしていったのです。

 そしてお姉ちゃんがこの家を出て大学の寮へ出発する前の日の夜。
お姉ちゃんは私の部屋へ「一緒に寝てもいい?」とやってきました。
 私はどくん、と跳ねた心と最後の夜だという寂しさを抑えて、
「いいよ、入って?」というので精一杯でした。

 迎え入れた一つのベッドの中で、私たちはいろんな話をしました。
 小さい頃のこと、小学校の時のこと、中学校の時のこと、そして、桜高でのこの3年間のこと。
軽音部の皆さんのこと、梓ちゃんのこと。ギー太のこと、音楽のこと、それから、私のこと。

 たくさんたくさん、ありがとうを言ってくれました。

 「憂が妹でよかった、憂と一緒にいられてよかった」と、
最近よく見せる寂しそうで、それでいてどこか悲しそうな笑顔で何度も言ってくれました。
 それからもいつもは早寝のお姉ちゃんが、まだ寝たくないと、
駄々をこねるようにたくさんたくさん、話してくれていました。
 私はもう、その気持ちや言葉に嬉しいような、寂しいような気持ちになってしまって、
そしてそれと同じくらい、お姉ちゃんに恋をしてしまったことが申し訳なくて……涙ぐんでいました。
そんな様子を気付かれないよう、欠伸をかみ殺すふりをしてみたり、鼻をかんでみたり。
 ちゃんと誤魔化せているかな、とお姉ちゃんの様子を見ると−−
なんとお姉ちゃんも同じように、涙ぐんでいるのを必死に誤魔化しています。
 その後言葉は途切れて、涙を堪えるような声だけが、静かな部屋の中を支配していました。

 そうして、しばらくした後−−。

「似た者姉妹だね……私たち……っ」

 そう、涙声のお姉ちゃんは同じような私と目が合うと、鼻をすすりながら言いました。
そして涙が溢れるのを、顔を歪ませながら堪えて、続けます。

「なんで……っ! わたしたち……姉妹で生まれちゃったのかなぁ……っ!」

「お、ねえちゃん……!」

 そうか……お姉ちゃんも、“同じ”だったんだ。

 私が一人で声を殺して泣いている時も、想いをひた隠しにしている時も。
 お姉ちゃんだって、妹の私に赦されない想いを抱いて。
同じように、隠して、声を殺して、傷ついていたんだ……。

 そして、私の想いにも、とっくに気付いていたんだ。

 お姉ちゃんは知っていながら隠して、私は知られないよう隠した。
 私が“お姉ちゃんにだけは気付かれないよう”想っていたのと同じように、
お姉ちゃんは“私にだけは悟られないよう”想ってくれていたんだ。

 なんて、優しくて愛おしいんだろう……。

 そんな事を思っていると、目の前のお姉ちゃんはもう誤魔化しきれないくらいに、涙を流し始めました。

 私とよく似た泣き顔をして、同じような、素振りをして。

 私たちは、この何年かを、きっとほとんど同じ気持ちで過ごしていたのです。
 そしてそんな日々をお姉ちゃんは軽音部の皆さんに救われ、私は梓ちゃんと純ちゃんに救われた。

「似た者姉妹」

 その言葉が、たぶん、私たちのすべてだったのです。

 そんなお姉ちゃんを抱きしめていると、私も涙でぐしゃぐしゃになっていました。

「ほんとだね……似た者姉妹っ……だね」

 それだけをやっとの思いで言うと、二人で顔を見合わせて、笑いました。
 泣きながら、たくさん笑いました。
 そうしていると、やがて解り始めたのです。

 今、この瞬間が。この夜が。

 私たち姉妹の−−卒業式なんだということに。

 しばらくして流した涙が赤い痕になって残り始めた頃−−
私の胸に抱きしめられていたお姉ちゃんは、もう涙声を隠さないで意を決したように、言いました。

「ねぇ、憂……キスしたことある?」

 私は一瞬、戸惑いましたが−−「ううん、ないよ。お姉ちゃんは?」
とだけ返しました。真意はすぐに、わかりました。
 お姉ちゃんは、それから、いつもの柔らかい声ではない、強い意志を持った声で話し始めました。

「私もしたことないよ。だからね、憂に、私の初めてを……あげたいの。
私たち……姉妹だから、ここから先には、もう行けないけど……だけど! 
私の初めては……初めてだけは、もらってほしい……」

 その言葉で、途切れていた涙がまた溢れ出しました。

 聴いていた私も、話したお姉ちゃんも−−とめどなく溢れて、
思わず抱きしめていた両手に、ぎゅっと強く力がこもりました。

「うん……いいよ……っ、お姉ちゃん。私もっ……
私の初めても……っ。お姉ちゃんに、もらってほしい……!」

 その言葉をきっかけに、私の胸元にいたお姉ちゃんは私の眼前にやって来て、
涙でぐしゃぐしゃになりながらにっこり、笑います。
 つられて私も、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、にっこり、笑いました。

「同じ顔で……へんなの……っ!」

 そう言って、お姉ちゃんは両手で私の頬を挟み込みます。
その手は震えて、今にも崩れ落ちそうでした。

 それじゃ、いくよ−−そう言って、私たちは最初で最後のキスをしました。

 そのひと時に、私たちの想いは駆け巡ります。ふたりが恋し合った一瞬を、
これから訪れる姉妹としての永遠に託すかのように。

 溢れる涙でしょっぱい、哀しくて、優しい−−それが私たちのファーストキスでした。

 窓の外には、もう朝が、待っていました。

 それからしばらくして、私が浅い眠りから目覚めると、そこにお姉ちゃんはいませんでした。

 なんとなく、そんな気がしていたのは、やっぱり私たちが
どうしようもなく「似た者姉妹」だからなのでしょうか。
 ベッドから起き上がって、立ち上がると、姿見に自分の顔が映ります。
 一晩中泣き腫らして、酷い顔−−きっとお姉ちゃんも、
おんなじような顔で、ふたりで暮らしたこの家を出て行ったのでしょう。

 私とお姉ちゃんは、最後の夜になってようやく、お互いの隠していた顔を見せ合ったのです。

 酷くて、醜くて、赦されない想いを。

 部屋を出ようとした時です。
 ふと見ると、私の机の上に走り書きのようなメモがあるのに気づきました。

 【行ってきます。唯】とだけ書かれた、涙で滲んで震えた文字。

 きっと、眠ってる私を起こさないように、声を殺して泣きながら書いたのでしょう。

 やっぱりお姉ちゃんは−−いつも、いつまでも、私のお姉ちゃんなのです。

 そしてそれが、私たちの、昨日までの私たちからの卒業証書で−−私がそれを見つけたたった今、
私たちの卒業式は終わったのだという事に、気づきました。

「行ってらっしゃい……お姉ちゃん」

 メモに滲んだ涙の跡に−−溢れた涙が、重なりました。





最終更新:2015年04月15日 07:44