「あずにゃん、帰ったら眠れそう?」

唯先輩が会話を変えた。
律先輩と澪先輩のことにあんまり興味ないのかな。
あまりに淡々としすぎてるように思えて、この人本当に律先輩好きだったのかちょっとひっかかる。

「今寝たら明日ゼッタイ授業出れないですね」

「いいじゃん。こんなときくらい」

「わたし、授業サボったことなかったんです」

「いいじゃん。こんなときくらい」

唯先輩がわたしの前に缶酎ハイを差し出した。

「これね。おいしいよ。最近出たの。ライチ味」

「いいんですか? これ?」

律先輩と飲もうと思ってたやつじゃ。

「いいよ、もう」

ぐいっと缶酎ハイを前に押し出す。
わたしはそれを両手で受け取り、プルトップを開けた。

プシュ、と小気味よい音を夜に響かせて缶が開く。

「好きなんだよね~、ライチ」

「そうなんですか」

缶と缶をカチンとぶつけて小さく乾杯をすると、唯先輩が言った。

「うん、大好きなんだよ。だから普段飲むのはこればっか。いろんなメーカーから出るたびに試し飲みしてるの」

「へぇ…そんなに」

一口含むと、シュワっとした口当たりと酸味と甘みが舌を刺した。
悪くはないけど…できればちゃんと冷えた状態で飲みたかったな。

そう思って唯先輩の方を見る。

唯先輩は缶酎ハイのプルトップを開けたまま口もつけずにそのまま、わたしと反対の方の夜空を見上げていた。

「…唯先輩?」

飲まないんですか?、と声をかけようとした瞬間、
唯先輩の右手から缶が滑り落ちて、中身を吐き出しながら転がっていく。

「ちょっと、なにやってるんですか」

「…いいんだよ、もう」

同じ言葉を繰り返す。

「よくないですよ、もったいない。好きなんでしょ、ライチ味」

「好きだよ、」

唯先輩がわたしの方を振り向いた。

「そうだよ。好きだよ、りっちゃんが」

振り向いたその顔は涙でくしゃくしゃになっていて、
それを見てしまったわたしはもうなにも言えなかった。

わたし、何もわかってなかった。
この人もわたしといっしょだ。

わたしの手からも缶酎ハイが滑り落ちた。

唯先輩は声をあげて泣き出し始め、わたしはそんな唯先輩を抱きしめ、背中をさすった。

いつまでたっても泣きやまず、その間わたしはずっと先輩を抱きしめ、背中をさすり続けていた。

東の空が白んで見え始めた頃、ようやく落ち着いた唯先輩が顔をあげた。

「ごめんね、あずにゃん。ダメな先輩で」

「…いまさらですよ」

涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のままの唯先輩が近距離で喋ると、
さっき食べたばっかのニンニクとアルコールの混じった強烈なニオイが鼻腔をついて、思わず唯先輩をはねのけた。

「…いたい」

「あっ! す、すみませんつい…」

「あずにゃんしどい…」

ぐしゅぐしゅと鼻水をすすりながら唯先輩が言う。

「だって…あんまりにもクサかったから…」

「そんなこと言わないでよ…あずにゃんだって十分クサいよ…」

エッ、ホントに?!
慌てて手のひらで口元を覆い、自分の息のニオイを確かめる。










くっさ。










「でしょ?」

泣きながらドヤ顔の唯先輩を見て、わたしはなにも言い返せやしなかった。
穏やかな夜の静寂を、わたし達のクサイ息が乱していた。

「…帰ろうか」

「…そうですね、帰りましょう」

そう言って唯先輩はわたしの手を握った。
手のひらは脂っこくて、ちょっとベトっとした。
思わず眉を顰める。
でも離したいとは思えなくて、ぎゅっと握り返す。

「あずにゃんや」

「なんですか」

「ちょっと思ったんだけど」

「はい」

「わたしたちが付き合ったら、りっちゃんどう思うかな?」

唯先輩はまっすぐ前を向いたままわたしの顔を見ようとしない。
クサい息を避けているのか。
それとも。

わたしは答えない。


風のない夜だった。
いや、朝だったのかな。
空の端は白く薄く輝きを帯び始め、
夜は明けようとしていた。
時々走っていく車のヘッドライトがわたし達を照らし、
踏みつけられた落ち葉が、パリパリと乾いた音を立てる。


ふたりの息は、まだクサい。


お互い鎧を脱いで幻想を捨てて、
ありのままを見せ合ったら、わたしたちはうまくやっていけるだろうか。

左手があったかい。
脂っこくてベトベトしてたって、唯先輩の手のひらのあったかかった。
高校時代、毎日抱きつかれたあの感覚を思い出した。
先輩があんな風に抱きつかなくなったのはいつからだっけ。

「…唯先輩?」

不意に唯先輩が立ち止まった。
それからわたしをぎゅっと抱きしめる。

「答えて、あずにゃん」

それでもわたしは答えなかった。答えられなかった。

心の痛みを応急処置だけでほったらかしにしたまま、
足りないパーツを適当な代替品でごまかすみたいに、
これじゃわたし達ふたり、

まるでわれ鍋にとじ蓋みたいじゃないですか。

ブルブルと、ケータイのバイブが震えた。

「…」

手と手が離れる。
わたしはケータイを開いた。

「りっちゃんかー」

「…」

「今起きたのかな? そんなわけないか。ずっと起きてたのかな」

「…」

「0時ちょうどに送るつもりが忘れてて、ようやく今思い出したのかな」

「…」

ディスプレイを注視したままのわたしに向かい、唯先輩は一人でしゃべり続ける。

「もしかしてわたしたちが一緒にいる、って知ってたりして」

「…そんなわけないでしょ」

「あ、やっぱりりっちゃんだった」

「…」

「わたしの誕生日にもおめでとうメール、送ってくれるかなー」

送ってくれるに決まってんじゃん。

なんでこんなタイミングであの人はメールをよこすのか。
返事はせずにケータイをトートバッグに突っ込み、早足で歩き出す。

「ちょ、ちょっとあずにゃん」

ああやっぱり。
自分の気持ちに嘘なんてつけないんだなぁ。
好きだって気持ちはカンタンになくなるわけ、ないよね。

唯先輩が小走りに追いかけてくる。


今の自分は律先輩のこと全然忘れられそうになくて、
ひとの気持ちはきっと時間が経てばかわるんだろうけど、
めちゃくちゃツラくてしかたない現在進行形のわたしとは無関係で、
今ここにいる他の誰でもないわたしは律先輩が大好きで、
律先輩じゃなきゃやっぱりダメで、
それはきっと唯先輩だっておんなじ気持ちに決まってるのに、
わかりきってたはずのことなのにごまかそうとしてたことが嫌で嫌で、
嫌すぎてたまらなくなって、
気づいたら走り始めていた。

「待って! 待ってよぉあずにゃぁん!」

呼ぶ声に耳を貸さず、点滅する信号をよそに、がむしゃらに走り続けた。

目の前を鴨川が流れている。
出町柳の橋の真ん中あたりで立ち止まったわたしは、
堪えきれずに橋の上から盛大にゲロを吐いた。


うげぇ。


「はぁ…はぁ…、あずにゃん、大丈夫?」

べちょべちょと水面に音を立てて吐瀉物が落下していく。
ようやく追いついた唯先輩が、そのまま地べたにへたり込んだ。

唯先輩こそ。
ちょろっと飲んだだけのわたしがこのていたらくなのに、あなたは大丈夫なんですか。

「しんどいときはぜーんぶ吐き出したらいいんだよ」

そう言って地べたに座ったまま、わたしにハンカチを差し出した。

さっきまでのあなたはなんだったんですか。
子供みたいにわぁわぁ泣いてたくせに。
好きなくせに。
律先輩のこと、好きなくせに。
澪先輩に勝てないことがわかって、落ち込んでるくせに。
それなのにまた、自分だけ平気みたいな顔して笑って。

わたしはへたり込んだ唯先輩に向けて手を伸ばした。

「ほら、立ってください。お尻、汚れちゃいますよ」

「ありがとう、あずにゃん」

唯先輩が伸ばしたわたしの手を握る。
グッと引っ張って立たせるはずが、バランスを崩してわたしが唯先輩に倒れこんでしまった。
その拍子にトートバッグからケータイが滑り落ちていくの見えた。

唯先輩にぶつかるまいと両手を地面につけたわたしが、まるで唯先輩を押し倒したような形になっている。

「いいよ」

何がいいんですか。

唯先輩は何も言わずわたしを抱きしめた。

「ありがとう、あずにゃん」

なんで急に、お礼なんて言うんですか。

唯先輩は離してくれない。
高校時代とは違う、ちょっと痛いくらいのキツい抱き方。
わたしはなにも言えなくてそのままだった。
早朝の今出川通りを原付が駆けていく。

しばらくして地面に落ちたケータイの明かりが消えた。



「わたしね。全然平気じゃないんだよ。
 もし平気に見えるとしたら、それはあずにゃんのおかげだよ。
 だからありがとう、あずにゃん」


「ありがとう。大好きな人にフラれちゃった夜に、一緒にいてくれて」

しばらくして唯先輩がわたしの身体を離すと両肩に手を置いた。
ふたつの瞳がわたしを見つめていた。
タクシーが通りを走っていく。
ヘッドライトに照らされて光る、潤んだ瞳に溜まった涙。
ゆっくりと近づいてくる薄桃色の唇。
わたしは目を閉じた。

わかってる、ムードに流されやすいってこと。
でも、いいじゃん。フラれたんだもん、わたし。



いいじゃん。
いいじゃん…。


次の瞬間、
むわぁっと強烈なニンニクの臭いが鼻腔をついた。

「◯*×&△!◇?#$!?」

思いっきり唯先輩の身体を突き飛ばす。
うえーっとゲーして咳き込んだあと唯先輩を見ると、してやったりといたずらっぽく笑う。

「えへへー、どう? 元気出た?」

知らぬ間に涙まで流れてた。

「そうそう、泣きたいときには泣くのがいいんだよ」

涙の意味が違う気がするんですが。頬を拭いつつ思う。

「時間はかかるだろうけどさ。ずっと引きずってるわけにはいかないじゃん」

唯先輩もまだ泣いてるように見えたけど、
それは自分の息のクサさに自分でも泣けたせいか、
やっぱり律先輩のこと思い出してたせいか、

どっちだったんだろう。

もう一度、目の前に手が差し出された。
わたしは注意深く間合いをとってをその手を握る。
そんなに警戒しなくても、唯先輩は不満げにいう。
そりゃ警戒しますよ。あんなことされたあとですから。
わたしとあずにゃんの仲なのに。
特別な仲ってわけじゃないでしょ。
特別だよ。
そういうのは、本当に特別なひとに言ってあげてください。
わたしは落としたケータイを拾いながら言った。

自分で言って、なんか凹んだ。

わたしの特別なひと。

でもその人にとってのわたしは、特別じゃなかったんだなぁ。
ほかに特別なひとがいたんだよなぁ。

あーあ。

「特別、かぁ」

唯先輩が大きく息を吐いた。
白い息がふわふわと舞う。
綺麗に見えるけど、これ、クッサいんだよなぁ。

「…特別じゃないですけど。手、繋ぐくらいならいいですよ」

そう言って唯先輩の手を握る。

「ありがと、あずにゃん」

顔を向けずに唯先輩が言った。
瞳は遠く、山の向こうの空の果ての方を向いていた。

「手を繋いでくれるひとがいるって、しあわせだね」

「・・・ですね」

「こんなときだから、余計にね」

「・・・ですね」

それから歩き出した唯先輩はわたしの方を見なかったし、
わたしも唯先輩を見なかった。
わたし達は一言もしゃべらずただ歩いた。

山の向こうから昇り始めた太陽がわたし達ふたりを照らし、
遠く、電車の走る音が街に響き、
通りを走る車がいくつか行き交い、
自転車がわたし達を追い越しても、

言葉を交わすことはなく、ただ歩き続けた。

世界が朝を迎えても、わたし達は手をつないだまま。

小さな足音と手のひらから伝わる体温だけが唯先輩だった。



おわり



最終更新:2015年11月11日 19:50