・エピローグ

 下校する頃には、空は夜模様に移ろうとしていた。空を覆う夜の藍が、地平線に沈み始めた陽光の茜と、ほんのりとした紫の層を成してる。なんとなく空を見上げていると、一点の一番星が煌めいていた。

 その小さな明かりに私はときめくのを感じた。とくべつ星に興味があるわけじゃないのに。たまにはこんな日もあっていいかもね。

 小学校に入る前の小さなお子さんはとっくにお母さんに連れられて帰宅している時間。春とはいっても、この時間になれば肌寒さも出てくる。

 私はいつもの公園に寄っていた。この遅くに馴染みの顔たちに逢えるかはわからなかった。けど女の子たちはいてくれた。

 たちまち、女の子たちは私のもとに集まってくれた。今日の女の子たちは運動部で頑張ってる三人娘。彼女たちは今日の新鮮な体験を思い思いに喋った。私は彼女たちに相槌を打って、誉めたり笑いかけていた。

 この子たちが夕刻になってもいるということは…と公園を見渡していたら、ベンチで談笑している見知った顔の奥さん2人が頭を下げた。慌てて私も挨拶したら、つい琴吹家仕込みの堅苦しいお辞儀の姿勢をとってしまった。そのことを自覚したのは、周りの小さなお姫様に茶化されてようやくだった。

 橙の陽射しを顔の半分に眩しいほどに受けてる。陽が当たってるところは暖かい。けれど陽の当たらない部分を撫でていく夕風はやや冷たい。ひんやりとしてきた内腿同士を擦り合わせて若干の温もりを得た。

 寒さを覚えたのは女の子たちもそうみたい。一人のタンクトップ姿の女の子は曝け出してる肩と腕を抱えてる。一人のおとなしめの女の子は、ベンチのお母さんに借りたと言うカーディガンを着ていた。もう一人の膝丈より短いスカートを穿いた女の子は、寒さに強いアピールをしたいのかな、たびたび蹴り上げるように足を上げて、健康な肌を見せつけていた。

 いつもの少女たち。私にとって大切な人たち。眺めているだけで顔が綻んでしまう。

 ……だけど、そんな暢気な気分は少しの間引っ込ませないといけなかった。

 私が今日この子たちを探していたのは、遊びたいからじゃない…。

 やがて女の子たちは喋ることがなくなったようで、お互いに思い思いに抱きついたりくすぐったりしていた。悲しさのかけらもない悲鳴がときどき上がった。

 さて、と一息つく。そろそろかな。

 公園に来る前から喉元に空気の塊が詰まった感覚があった。それが大きくなりすぎた。塊を一気に吐きだして楽になりたい。

 目線を彼女たちに合わせるように膝を落として、みんな、と声を掛けた。女の子たちの笑顔が一斉に私に向けられた。その眼には期待が満ちてるように見えた。

 「少し聴いてもらいことがあるの」

 できるだけ穏やかに大事なお話をした。新しい学校で部活に入ることにしたこと。だから女の子たちと遊べる時間がグッと減ること。

 今までの私であれば、小さな女の子たちよりも優先することができてしまうことなんて有り得なかった。そういう理由でこれは私にとって一大事なこと。なので一度交流してる少女たちとお話しないといけないと思った。

 もしかしたら私と会える時間が減って悲しむかな…なんて不安があった。女の子たちは本物のお姉ちゃんを相手するように懐いてくれていたから。思い上がりかもしれないけど、そんな一抹の可能性が脳裏に貼り付いていた。

 「すみれちゃんが部活!?おめでとう!」

 でも女の子たちの反応はいつも通りだった。部活の話をしていたときは軽音部について根掘り葉掘り訊き出されて、少女たちも自分の部活について自慢し始めたりして盛り上がっていた。私と遊ぶ時間が減ることを話しているときでも、そっか、とあっけらかんとしていた。それどころかミニスカの子が『すみれちゃんがとうとう私たちから卒業するときがきたんだねヨヨヨ』と演技じみた悲しみを見せて、思わず吹き出してしまった。

 私の不安は杞憂だった。べつに私が必要とされていないわけじゃない。離ればなれになる時間が増える程度じゃ、私たちの絆は途絶えないんだよね?

 よかった。

 それから私たちはガールズトークに花を咲かせた。彼女たちの内の一人のお母さんが家からお迎えに来るまで。そのお母さんもベンチにいた二人のお母さんと合流した。やがて三人の女子小学生と一人の女子高生と三人の奥さんっていう、少し不思議なグループが夕暮れの公園で談笑していた。

 空を藍色が占めそうな頃、私たちは解散した。少女たちの高らかな挨拶に、私も精いっぱいの声で返事をした。この分だと今晩中には見知った女の子たちの殆どに私のニュースが駆け巡ることになりそう。ガールズネットワークってすごいもんなあ。なんてふうに、今日会わなかった女の子たちに思いを巡らす。その間にも冷たい風が足を撫でていくけれど、足取りは軽かった。

 今日、私は私の知らない新しい道を進むことになった。

 成り行きと誘惑に後押しされて見つけたこの道の先に、私は何を見るんだろう。

 大好きな女の子たちから先輩たちについて、女の子たちにこれでもかと尋ねられた。軽音部に入って間もない私には、軽音部についてそれくらいしか話せないからね。

 そこで話したことは覚えてない。きっと私の正直な思いに違いない。矢継ぎ早に訊かれるものだから、変に返答をごまかす暇もなかった。

 恥ずかしいことは話してないはずだけど…。歩みを止めて記憶の残滓を寄せ集めてみる。

 平沢先輩。見かけどおり優しい先輩。先輩の持ち込んだケーキがとても美味しくて、琴吹家専属のパティシェに劣らない。それにお茶の煎れ方を少し教えたら瞬く間にマスターしてしまった。他の先輩方が言うには大変才能溢れる逸材らしくて、その片鱗を私は見てしまったらしい。

 鈴木先輩。しょっちゅう中野先輩に突っ込まれていた先輩。でももしかしたら先輩のような人がいないと軽音部に活気が生まれないのかもしれない。

 そして、中野先輩。小さい。喜怒哀楽が顔や態度にはっきり表れていて、眺めているとほっこりする先輩。ぴょこぴょこと跳ねるツインテールの髪も捨てがたい。

 なにより、中野先輩は強い意志を持ってる。私には無い、何かを成し遂げたい強い意志が。それは何だろう?もしかしたら、あのとき先輩が言いかけたことと関係があるのかもしれない。

 私なんかが入部するだけであんなに喜ぶほどに…。

 知りたい。そんな気持ちが熱くなるのを感じる。中野先輩のことをもっと知りたい。

 私、頑張ります。いつか中野先輩の言いかけたことを訊けるくらいに信頼してもらうために、楽器の腕を上げます。頑張って、ギターを弾いている先輩を間近で見られるポジションに付きます。距離が近くなれば、それだけ親密になれますからね?

 そのためにもまずは音楽に興味を持たないと、だけど。

 中野先輩。ううん、梓先輩。私でよければ、梓先輩のお役に立てるように頑張りますね!

 他に誰も居ない夕暮れの舗道で、一人ガッツポーズを決める。俄然、やる気が出てくる。

 あ、そうだ。一人のときなら『ちゃん』付けで呼んでもいいよね?学年を間違えてた頃はこの呼び方が一番しっくりきてたもの。今だって、3年生だとわかっていても、そういう目で見てしまうし。ね?

 「梓ちゃん」

 そう呟いた直後。心臓のあたりがキュンッときた。胸の内や顔に熱っぽさを覚えた。梓先輩が笑顔で私の名前を呼びかける姿を幻視した。

 『すみれ!すみれー!すみれのお茶、飲みたいなー!』

 恥ずかしい…!恥ずかしさで頭が沸騰しそう!心臓がドキドキと高鳴ってる!

 手遅れなのに手で口を塞いでいた。このことを自覚したのは少し時間を置いてからだった。

 だめだ…この呼び方は禁句。周りに誰もいなかろうと、自分の部屋の外でやっちゃだめ。興奮してダメになる。ダメになってるところを誰かに見られたら不審者ってレベルじゃない。

 なので。

 梓せんぱいっ。梓せんぱいっ。梓せんぱいっ。梓せんぱいっ。梓せんぱいっ。

 梓せんぱいっ。梓せんぱいっ。

 「ふぅ…梓せんぱいっ」

 よしっ。呼吸が落ち着いてきた。興奮を誘う梓先輩のかわいらしい幻影を振り払うために、星の散り始めた空を見上げて網膜に焼き付ける。

 あんな風に興奮するなんて…思いもしなかった。すっかり梓先輩の虜になってしまったみたい。

 私は小さな女の子たちを愛でてきた。けれど常に興奮のブレーキはかけてきたつもり。周りの目を気にしてるのもだけど、琴吹家のメイドとして、最低限の淑女の振る舞いを忘れないよう心掛けてきた。

 それなのに…。

 ああ、梓せんぱい。こんな破廉恥な私を慕ってくれて、ありがとうございます。

 キラキラと輝く瞳が綺麗です。

 誰よりも慎ましいそのお体も素敵です。

 思い起こせば、新歓のときのおみ足も白く健康的です。

 たまりません。

 そんなあなたと過ごす高校生活が、とても楽しみです。

 だから…。


 新しい世界を、私に見せてください。


 新しい愛のある生活を、あなたと過ごしたい。


 この先どんなことがあっても、あなたに助力します。


 だから……。


 もしも、あなたが良ければ。


 私を…。


 私を、あなたのそばに置かせてほしいな。


 高揚感。身体が軽い。今にも空に昇ってしまえるよう。心地いい浮遊感。

 ゆっくりと瞼を閉じると、闇の中にはやっぱり梓先輩の姿が手を振っている。

 うん、て頷いて先輩のもとへ駆け寄る。

 するとどこからともなくダイニングテーブルとイスが現れて、テーブルの上には家庭料理が並んだ。同時に自分が割烹着に身を包んでることに気付く。

 先輩は、お疲れ様、菫も早く食べよ、てイスを引いて待ってくれる。そのことで私は少し慌てる。

 ああ、いいんですよ先輩。私はメイドですから。先輩は座っていてください。

 そう伝えると先輩はムゥ、て眉間にわずかにシワを寄せて唇を強く閉じる。割烹着を脱ぎつつ、謝る言葉を慌てて探す。

 ごめんなさい!メイドじゃなくて、えっと、か……うぅ。

 続けるべき言葉はわかってる。でも告げるには恥ずかしい。顔が火照っているのを感じる。

 梓先輩はそんな私を表情を変えないで見つめている。やがて一つ、溜息をつく。もしかして怒られる…、そう思った私はビクつく。

 でもそんなことはなかった。やれやれと言いたげな顔で、けれど微笑んで言う。

 すみれ~?菫は誰のもの~?

 梓先輩のものです!!て高らかに宣言したい。けど大胆すぎて、私にはできない。

 答えはわかりきってる。だからこそ恥ずかしくて、口を手で覆って口ごもる。

 先輩の目は私の目をつかまえて離さない。見つめ合うだけで胸が高鳴る。

 やがて、しょうがないな~と言って、先輩が近寄る。うろたえる私のもとへ、ずんずんと。

 手を伸ばせば先輩の身体に触れられる。その距離まで近づいて歩みを止めた。こうしてみると私たちの背丈の差がよくわかる。

 何を言われるのだろう、て身構える。すると、先輩が私の胸へ飛び込んできた。

 ちょ、せんぱっ!?と言葉にならない驚きに混乱する。先輩はがっちりと私の背に腕を回して、胸に顔をおしつけてくる。

 突然襲う胸の圧迫感に羞恥心でヒートアップする。それになにより、梓先輩の体温や甘い香りを強く感じられることが羞恥心に拍車をかける。

 頭が沸騰してくる。単語にすらならない喘ぎ声が口から零れていく。このままだと恥ずかしさで息が絶えそう……でも先輩で死ねるならそれも…もう先輩ったらかわいいなあ………、とふわふわな思考がただよう。

 不意に胸元から先輩の頭が離れる。それでも私の腕ならいつでも抱き寄せることができるほど近い。顔を上げた先輩は耳まで紅潮している。

 そして、その小さな唇で告げた。

 わかった?ちゃんと答えないと、さらに恥ずかしい目に遭うんだってこと。

 直後先輩は、プイッと顔を背ける。その様子が一層愛おしい。

 たまらない。

 はい、ちゃんと答えますね。私は誰のもので、そしてその誰が今望んでいるものをお届けします。

 息を整えて、先輩が私の顔を見上げなくて済むように膝を曲げる。小さな耳の小さな穴までかわいらしいですよ、とは心の内にしまっておこう。

 せんぱい、と呼びかける。尚も梓先輩は私から顔を背けている。

 それなら、と先輩の頬を両手で挟んで正面を向かせる。先輩の熱くて甘い吐息が顔にかかる。それでも先輩の眼は私を見ない。私を見てください。まちがいなく、先輩と同様に私も顔がまっかっかになってます。

 聴いてください。

 「私は梓先輩のものです。先輩の彼女です。そして、梓先輩は私のものです」

 ようやく先輩と眼が合う。夜のように綺麗な黒の瞳。ほのかに瞳から反射される光さえ星のよう。

 その瞳がゆっくりと瞼に覆われる。

 わかっています。

 私もあげようと思っていました。

 先輩が私を待っている。いつでも待っている。私はいつも先輩の通った道を通る。それでいいの。私の人生をあなたに捧げたあの日から。

 だから、受け取ってください。

 先輩と鼻先がそっとすれ違う。

 お互いの鼻呼吸が入り混じる。

 まだそんな感触を味わうほどに、一気に、とはいけない私の弱さの顕れ。

 我ながらじれったいとさえ思う。

 でも、もうすぐ。あなたの唇に触れる前から体温を感じる。

 梓せんぱい。

 いただきます。










【冗談だよね?】





 忽然と飛び込んできた声に驚いて、その場を跳びのく。辺りを見渡しても、声の出所はわからない。

 その声はこの妄想の空間に未だに反響している。私の胸をキュゥッと締め付ける。

 せんぱい!縋りたくて叫んだ。私の拠り所。私の愛を受け止めてくれる、妄想の人。湛え始めた涙を拭き取ることもせず、先輩の姿をこの眼に収めたかった。

 けれど、大好きな先輩は手遅れだった。

 全身を黒い靄に覆われている。もうその笑顔を確認することさえできない。

 私はすっかり脱力してしまっていた。その場にくずおれて、溢れる涙を膝に滴らせていた。

【嘘よね?】

 再び奏でられる、女の子の声。警戒心を隠していない疑問の声。さっきよりも大きく鳴り響いて、私の胸を打つ。

 いつのまにか妄想の空間を追い出され、闇の中にいる。手を伸ばしても、もう手遅れ。幸せな空間ごと黒い靄に覆われ、やがて姿を消した。

 孤独の闇に、声が木霊し続ける。その声に押し出されるように涙の粒が零れていく。

 やがて黒い靄は私を『元通りに』包みこんでいく。

【え、本気なの?】

 やめて!やっと忘れていたのに!お願いだからもう忘れさせて!

 私の叫びは嗚咽に阻まれて、僅かな呻き声になってひっそり消えてしまう。

 反響音が尚も私を苛む。淀み一つ無い闇の中で、黒い靄だけがぼんやりと存在を主張している。

【ごめんね?】

 途端に全身が重苦しくなる。声は重さがあるように私にのしかかる。その重圧に屈して、息も絶え絶えに、その場に這いつくばる他なかった。

 私の心を抉る拒絶の言葉。また、思い出してしまった。

 違うの!あなたは悪くないの!私が気持ち悪いの!ごめんなさい!ごめんなさい!

 胸の内で謝罪の言葉が無限に生まれ、渦を巻き始める。渦が内臓に衝突しているような鈍痛さえ感じる。

 でも一つでもこの渦巻く言葉を決してあの子に向けて突き出してはいけない。あの子は悪くないんだから。

 おえっ……吐きそう。口を精一杯に抑え、零れるのは透明でさらさらとした唾液だけ。

 唾液にまみれた手の平を茫然と眺めて、僅かに残った正気で考える。

 言わなくてはいけない。あの子を悪者にしない代わりの言葉。それでいて私が悪いと伝える言葉を。あの頃と同じように。

 けれど裏切りの言葉が喉に詰まっている。もはや呻いて泣くだけの機械になった私に、他の言葉を吐き出す余裕はなかった。

【ほんとうにごめんね?】

 さらに紡がれる声に、とうとう頭痛を起こした。

 「ごめ……んんっ!!」

 吐き出しかけた裏切りの言葉を強引に引っ込める。手で固く覆った口をさらに地に押し付けて。

 違う!この言葉じゃなくて!そうだ、あの言葉を……だからお願い!この言葉は引っ込んでて…!

 ようやく生まれた別の言葉は、体内に渦巻く謝罪の渦の中。

 絶えず木霊は頭痛をもたらして、地に伏せた私の意識を奪いかける。その度に口の栓が緩み、謝罪が飛び出そうとする。

 もう少しだけ。もう少しだけ堪えれば、きっと木霊が小さくなって聞こえなくなるタイミングがくる…。

 そう思っている間にも、木霊は徐々に聞こえづらくなっていく。再び声が轟く前に、今のうちに、と謝罪の渦の中からたった一つの言葉を探し求める。

 ごめんなさい…、気持ち悪いよね…、友辞めした方がいいよね…、私が悪いんだよね…、死んだ方がマシかな……。探索している間、私自身の言葉が幾重にも私を虐める。竜巻のような謝罪の勢いに流されて、やっぱり口からごめんなさいと零れかけた。

 やがて木霊は徐々に聞こえなくなって、ついに無音の瞬間が来た。同時に、大事な言葉を探し当てた。

 嗚咽を止ませるために歯を食いしばって、伏せた体勢で厳しいけど深呼吸をして、ようやく息を整えた。

 ごめんね、でもこれで、さようなら。


「冗談だよ…」



【あー、びっくりした~】

 少女の声に安心感が込められている。もう私を苛むことはなかった。反響することもない。喉まで出かかっていた謝罪の言葉はその荒れ狂った渦を鎮めて、パラパラと散乱していく。

 後に残ったのは私の身体と、包み込む黒い靄だけ。

 全身に掛かっていた重圧感が消え去った感じを覚える。けれど私の目から涙がとめどなく流れていく。

 私が探し当てた言葉を告げてから、たった一度きりだけの台詞。それはあの子にとっての危機が去った瞬間の一言。

 同時に、私が私自身の気持ちを裏切った瞬間でもある。

 でも、いいの。大好きなあの子が傷つくくらいなら、私だけが傷つけばいい。

 あの子は本当に優しかった。あんな笑えない冗談を振られても、大切な友達でいてくれた。だからこそ、かもしれない。

 小学生の頃の私は今よりも家の外の物事に消極的だった。そんな私がお姉ちゃんの他に心から興味を持った、初恋の女の子。

 「うっ……」

 だめ…思い出しちゃダメだった…。必死に頭を振り回す。

 けれどあの子のイメージが吹き飛ぶことはない。

 ただ、ただ、私の記憶から、思い出が氾濫した川のように溢れ出して遡らされていく。


 どんなことがあっても――――。


 愛のある生活への羨望が犯した罪を忘れてしまった、無意識の記憶。


 どんなことがあって…――――。


 あの子と大切な友達でいられる、幸せで不幸せな運命に苦しんだ記憶。


 どんなことがあっ……――――。


 糸が切れたように、お姉ちゃんすら拒んで部屋に引き籠った記憶。


 どん…ことがあっ……――――。


 あの子との恋愛を描いた夢模様の泡たちを、一斉に叩き潰した記憶。


 どん…こと…あっ……――――。


 自分を悲劇の主人公に見立てて、現実逃避した記憶。


 どん……と…あっ……――――。


 真っ暗な部屋でお気に入りのクマのぬいぐるみを抱いて、すすり泣いていた記憶。


 …ん……と…あっ……――――。


 冷たい通り雨でずぶ濡れになりながら、あの子から逃げ帰った記憶。


 ………………あっ……――――。


 …………ザザッ……ザッ……ザザザザ――。


 「ごめんなさい…、ごめんなさい…、ごめんなさい……!」

 忘却してしまいたかった記憶の蓋を、再び開いてしまった。寒い。腕を抱えて震えるしかできない。

 そんな私を慰めるように纏わりつく黒い靄。ここ数年間は私を包み込んでいただけだったのに、また、私の無抵抗な身体に触れてくる。露わになっている手や足に這い寄って来た。

 生温かい。そうだった、これはこんな感触だったね。気持ち悪く思えて、でも私を見守っている存在。私は靄から逃れることはできない。

 抱えていた腕をだらしなく床に垂らす。

 「…………ははっ、はは…」

 言葉が出ない。独り言を言うには口が痙攣してるように震えすぎる。さんざん泣いたから疲れたのかな。

 闇の中で、靄の中で、自分の殻に閉じこもって瞼を閉じる。

 やっぱりあなたは居た。目に涙を溜めて、必死に私に叫んでいる。

 走馬灯の中にいた小学生の私。本気の恋を信じていた頃の私。

 ねえ、あの頃の私?今になって思い出させるってことは、きっと警告なんだよね?あなたの苦悶を繰り返しそうな私を止めてくれるんだね。

 わかってるよ。あなたも私も、本当は普通の恋愛を望んでる。普通に異性にときめいて、普通に結婚したいね?

 若気の至りで同性を好きになっても不幸になるだけだもんね。

 だから、安心して。私は梓先輩を本気で愛するわけじゃない。かわいい友達が増えただけなの。

 冗談だから、ね?

 「は、はろー?」

 不意に意識を現実に戻された。

 その声に驚いて瞼を開くと、目の前には女の子がいた。

 全身が硬直するのを感じた。日没後の暗がりに紛れて私を見つめる姿。陰になる場所にいても僅かな光を返す綺麗な瞳。

 間違いない。

 彼女は私の初恋の少女だった。

 開いた瞼が見開いてしまったのを自覚している。まるで化け物でも襲われるかのように恐怖している。どうしてここに……。私は彼女から目を離すことは許されなかった。

 心臓が激動する。心音が他の音を聞くことも許さなかった。

 逃げたい。あなたと私は一緒にいないほうがいいの。一緒にいたら、またあなたを傷つけてしまいそうになる。私も苦しいの。ごめんなさい。

 すると、怯える私を見つめて何を思ったか、彼女は後ずさりした。それでも綺麗なその瞳を反らしてくれない。

 そのとき、彼女の背後に箒のような黒い束が腰の辺りで揺れるを見た。彼女の髪型はポニーテールだった。

 えっ……?

 ちがう…あの子はこんな髪型にはしない。

 あの子は…いつも項まで伸ばして…。

 そのことに気付いたとき、全身の緊張がドッとほぐれた。同時に私の耳にも世界の音が戻ってきた。

 「えと…うぁっとどぅーゆーどぅー…?通じてるかな…」

 彼女の幻影が掻き消えていく。代わりに現れたのは見知らぬ少女だった。

 なんだ…人違いか。安心しきって胸を撫で下ろして、肺の中の空気を空っぽにする勢いで溜息をつく。

 当たり前か。あの頃から何年経ってると思ってるの。それにあの子は私に一生縁の無い遠い場所に引っ越したじゃない。私って、ほんとバカ。

 自分の浅はかさを嘲る。

 「ううん、平気」

 「日本語……」

 「うん。生まれも育ちもこの町だから」

 「そうなんですか…」

 「じつは最近にも英語で話しかけられたことがあるの」

 「私だけじゃないんだ。ふぅ。よかった」

 「ふふっ。あのときはお姉ちゃんも下手な英語で返さなきゃ、て慌てたな」

 「喋れないんですか。なんか損してるみたい」

 「どうだろう?クスッ」

 小学生6年生くらいの幼い、けれどしっかりした雰囲気を感じる。それに背負っているバッグがどこかの塾で売ってるもの。塾帰りの子か。

 ふと我に返ると、酷い有様だった。硬いコンクリートで舗装された道の上に、地べたにぺたんと座り込んで、学校指定の鞄を放置していた。買ってから日が浅いのにさっそく汚しちゃったな…。鞄を拾おうと手を伸ばすと、頬を熱い涙が一筋滴り落ちた。

 女子小学生の前でみっともない。目元を袖で強引に拭って、服装を整えて膝を払う。すると砂に紛れて膝から何か湿ったものが丸まって落ちた。桜の花びらのようだった。

 「ほんとうに平気ですか?どこか具合でも悪いなら救急車を呼びますよ?」

 「だいじょうぶ。心配してくれてありがとう」

 「あ、いえ。では私はこれで」

 「そうだ!お礼にお姉さんの飴をあげるよ」

 「んと、すいません。知らない人から物をもらっちゃいけないって言われてるので」

 「まあまあ、そう言わず。はいっ」

 「ありがとうございます…」

 「おかげで元気でたよ。さよならー」

 「さようならっ」

 女の子は簡単なお辞儀をして去っていく。その後頭部でぴょんぴょんと跳ねるポニーテールを見て、自然に笑みが零れた。

 うん、かわいいな♪今度会ったら別のお礼をしなきゃ♪

 胸がぽかぽかと温かくなる。知的な女の子もかわいい。お勉強を見てあげたいな。でも勉強は本職の先生に見てもらった方がいいからなぁ。

 なら息抜きに私を使って欲しいな。疲れた頃に公園に来て、私と缶ココアを飲みながらお話を聞いてあげて。受験のストレスを発散するために公園の敷地内を思いっきり駆け回って。それから、それから――。

 なんて、友達になったわけでもないのに想像の飛躍かな。さっき話していたときに見知らぬ人って言われたけど、私たちはもう友達みたいなものだ、て言った方が良かったかなぁ?これでいける子もいるけど、あの子にはちょっと不審に思われるかもなあ。

 冷ややかな夜風が足を撫でる。その冷たさにびっくりして、ひとしきり熱を持っていた想像が落ち着いてくる。足早にお屋敷へ歩を進めることにした。

 大丈夫。うん、いつもの私だった。小さな女の子と友達になって、愛でて、幸せを分かち合う。これが私。

 私は二度と過ちを繰り返さない。

 一番星は他の星々の明かりに雑じっていた。

 その星々も翳りのある大雲に見る見ると隠されていった。

 そろそろ、雨が降りそう。

おしまい。



最終更新:2016年04月17日 22:05