13

ムギちゃんのお別れ会は午後から開かれた。
りっちゃんと澪ちゃんは先に行って折り紙の花綱とかきらきらのモールとか百均で買った5色の丸いクッションを並べたりして空っぽの部室に飾り付けをしている。わたしは朝からあずにゃんを探して公園でひとりギターを弾いたりしてたけど、なかなか見つからなくてほとんど諦めかけたとき、陸橋下で恐れを知らないレクサスにひかれそうなあずにゃんの腕をすんでのところで引っぱった。
部室に行くともうムギちゃんがいた。
輪っか飾りの山の中に埋もれていた。

「わたしね、輪っか飾りをつくるのが夢だったみたい」

ムギちゃんは言ってから、あずにゃんを見つけてちょっと笑う。
輪っか飾りはいまや部室の壁を半周できるくらい長い。

「ムギのやつさずっとこればっかつくってるんだぜ。手伝わずに」

「だってわたし送り出してもらうほうだもん」

「むだに長くしやがってー、飾れねーじゃん!」

りっちゃんが輪っか飾りを丸くまとめて投げた。ムギちゃんはカラフルな折り紙の海に沈んだ。銀紙が輝く。
ムギちゃんがちょっと暴れる感じをやるので、すぐそばの紫色の炭酸ジュース入りの紙コップを澪ちゃんは遠ざけた。
近くには紙コップと紙皿の白塔、プラスチックフォーク。ファンタのグレープ(半分減ってる)とペプシ・コーラの1・5リットルペットボトル、バリヤース(残り3分の2)、午後の紅茶のミルクティー。
でもティーポットはなし。お菓子はあり。
ずっと余りっぱなしのミルククッキー缶、ポテトチップス(コンソメ)、各個包装の四角いチョコレート、澪ちゃんお気に入りのパンクッキー。白いビニールの袋にはりっちゃんの買ってきた駄菓子が、シガレット、練り飴,チューイングガム、あめ玉。
そしてなんといってもその中央でどうどうとピンク色に輝く大きな苺のホールケーキ。残念ながらこれはムギちゃんの持参だったけど。
天井にあいた穴の上にはブルーシートが。ばさばさばさって青空のはためく音がする。
わたしたちは円をつくって座っていた。
[のりしろ]澪ちゃん、りっちゃん、わたし、ムギちゃん、澪ちゃん[のりしろ]みたいな感じ。ムギちゃんの輪っか飾りにいくつか混じってるメビウスの帯。
あずにゃんはわたしのひざの上でいまはおとなしい。文字通り身体を半分に折り畳んで、ぺたん。


りっちゃんが言う。

「乾杯のまえにムギから、一言どうぞ」

「えー……」

「ほら、なんでもいいから」

「えーと……えっとねぇ……じゃあ」

あずにゃんが言った。

「#▽√∀∀」

「ま、そういうことで……」

乾杯した。
舌の上がちょっぴり痛かった。わたしは炭酸が苦手だった。



「でもいいよなー、アメリカ」

「ばか、旅行に行くんじゃないんだぞ」

「でもさあ、スケールでかいもんなーアメリカは。天使もいないし、な?」

「あーだめだよ、またりっちゃん、あずにゃんにでこぴんとかするー! 大丈夫か、梓、よしよし」

「ピザとかもすげーでっかいじゃん、あーいうのいいよなー!」

「あ、それちょっとわかるかも」

「まず土地が広いもんな、広大」

「車も大きいな」

「人も大きいぜ」

「野球はメジャーだしね」

「映画もすごいよね、制作費とか!」

「野球見るの?ムギ」

「見ないよ」

「意味ないじゃん!」

「でもこれからは見るようになるかも!」

「ムギもアメリカナイズされちゃうね」

「髪の毛金髪にしちゃったりなー」

「もう金髪じゃないか」

「映画もすごくない?」

「ねえ、ムギって英語喋れるんだっけ?」

「あんまり!」

「どうすんの?」

「アイ・ドント・スピーク・イン・グリッシュ、って言う」

「あずにゃん、あずにゃん。アメリカの映画はね、すごいんだよー。制作費が何百億とかあるからね。国家予算だよね、国家予算だよあずにゃん。国家予算かな? あずにゃんが日本の映画だとすると、アメリカは澪ちゃんだよ」

「♯♪」

「何の話だ」

「あ、そうだ、澪ちゃんはさ、日本風のホラーとアメリカ風どっちが怖いのさ?」

「そりゃあ、日本だよ。アメリカのホラーはがさつなんだよな、あれってただ単に驚かしてるだけだからな。そういうの一度理解しちゃうと恐怖を感じたりできなくなるんだよ、悲しいことに」

「ふふ、アメリカはりっちゃんなのかしら」

「なんでなんだ、なんでアメリカが律なのよ……ひぃあっ」

「じゃじゃーん」

「そんなお面どこにあったのさ?」

「バリケードつくるとき見つけたから隠しておいた」

「そういえば、さわちゃんは? わたしさわちゃんに会いたいわ!」

「仕事してしるんじゃないかな、流石に。卒業間近で忙しいんだろうね、帰り職員室に行ってみる?」

「聖職者だからだよさわちゃんは聖職者だから」

「『あなたがたの教師はキリスト一人だけである』」



「あ、もういっこ思い出した! 澪ちゃんにお願いがあったの」

「え、なんだ」

「あのね」

「うん」

「最後にわたしのこと叩いてほしいの!」

「え、ああ……えー……」

「お願い!」

「澪ちゃん、叩いてあげなよ!」

「そうだーそうだー」

「わ、わかったよ……」

「力加減はいらないわ!思い切り来て」

「えいやっ」

「あっ、いったぁ……あーいた……いたい」

「ムギちゃんかわいそう」

「いつもわたし叩くときより全然強かったな」

「叩くっていうより殴るだね」

「だってムギが……わ、わたしが悪いのか」

「さいてーだー」「さいてー」

「なんかごめんな、ムギ……」

「ごめん、ちょっと今は話しかけないで。頭ががんがんするから」

「あ、うん……」

「さいてーだー」「さいてー」



そんな感じで宴もたけなわになりはじめた頃、立ち上がって、りっちゃんが言った。

「ごほん……今日はわたしたちムギのためにとっておきの音楽を準備してきました」

「ムギちゃんのためだけにつくった特別な曲です」

「では聞いてください、天使にふれたよ」

「使い回し反対!」

そのあと何度か冗談を飛ばしあってついにはムギちゃんもキーボードを前にした。
結局のところこの曲はあずにゃんのための曲だし、あずにゃんはいまここにいるんだからあずにゃんに向かって演奏するのが一番いいんだろう。
音楽が鳴った。
まず澪ちゃんが歌い出す。つぎにりっちゃんが。
この曲は、ひとりずつが順繰りにボーカルを担当するって構成になっている。

「ねー思い出ーのカケラに名前をつーけて保存するなら宝物がぴったりだね」

「そー心のーよーりょーがいっぱいになーるくらいに過ごたね ときめき色の毎日」

「なじんだせーふくとうわーばきー ホワイトボードのらくーがき」

「あしーたの入り口に置いてかなくちゃいけなーいのかなー」




こん。こん。こぉぉん。
どこから侵入したのだろう、音楽につられて天使たちがやってきた。
扉の向こうで押し合いへし合い、ドアノブをがちゃがちゃと回している。
バリケードがあるから押しても開かないのだ。引くドアだし。
低い角度から差し込んだやわらかい光の中を、ほこりがぷかぷかと漂っている。
もう夕暮れだった。
そんなふうにぼーっとしてると自分の歌う番を飛ばしそうになってしまう。

「でーもね、会えーたよ すてーきなてんーしに 卒業は終わりじゃない これからも仲間だから……」

こんこんこんこんこんこんこん。
扉の向こう側にはどうやらけっこうな数の天使がいるようだった。
建物のなかでこんなにたくさんの天使を見たのははじめてだった。誰かが玄関を開けっ放しにしたままだったのかもしれない。もしかしたらわたしたちのライブを見に来てくれたとか。あずにゃんが天国でいっぱいチケット配って。
なんたって最後のライブなんだもんね。
急に胸が締め付けられるような感じ。
そっか、おしまいなんだ。



そう思ったときふたつのことが同時に起きた。
二番の自分のパートを歌っていたムギちゃんの声が突然とまり、それからわっと泣き出した。
だけどわたしはそれを見つけなかった。別のものに気を取られていたのだ。
それはあずにゃんだった。
あずにゃんはいま扉の前、バリケードの上に這いのぼって、ムギちゃんが泣き出すのとほとんど同時に扉に手をかけて、そして押した。
ぎぃって音がした。
天使の羽が見えた。
りっちゃんはひたいに手をやって、ため息。
だいじょうぶかってムギちゃんに駆け寄った澪ちゃんがムギちゃんの肩を抱いて、それからふりむいてぽかんと口を開いた。

「あ」

ぐるん。
バリケードの一番上に積まれた椅子が滑り落ちるのと一緒に、あずにゃんが落下した。
なにかやわらかいものがつぶれる音。
わたしはあずにゃんをつかまえて引きずり戻す。
あたりどころが悪かったのだろうか、扉から一直線に白い血がのびる。
まるで天使たちを誘導するビーコン・サインみたいに。
食器棚のへりの先には青白い指。
ずるずると天使たちが這う音。
ムギちゃんはまだ泣いている。
澪ちゃんが叫んだ。

「わぁあああああ」

天使たちはバリケードを乗り越えてこようとする。一番高いところに指がかかったと思うとすぐにすべって落ちる。それが繰り返されるうちに、てっぺんに積まれたものがどんどん手前に崩れて降ってくる。
りっちゃんが言う。

「な、なあ、どうするんだよ」

そして思い出が決壊した。
バリケードの中央が崩れ落ちる。そこから天使が這いだしてくる。机が跳ねた。着ぐるみが踏みつぶされる。食器棚が倒れる。陶器の破片が飛び散る。天使たちはかまわずなだれ込む。白い血が吹き出す。ギターのコードが抜けた。音、きゅいいいいいん。
なにもかもが揺れて見えた。
震えてるんだ、わたし。
そんなつもりなかったのに。
みんなもどうしていいかわからなくてただ右往左往するばかり。
わたしたちはパニクっている。
地上の天使たちがほとんど無害に近いことも、何度も天使たちに囲まれたことがあることも、天使たちがわたしたちのこと食べたりしないことも、忘れちゃってる。押し殺してた不安や恐怖が一気にあふれ出てきて、いままでちゃんとわかってたつもりのことまでわからなくなってしまう。
バリケードが壊れちゃって天使が降ってくる!助けて!



澪ちゃんは耳をふさいで座り込んでいた。
りっちゃんは壁に背中をくっつけたまま目を閉じていた。
ムギちゃんはまだ泣いている。
わたしも、わっと叫びそうになるのを、ぐっと飲み込んだ。
そして、あずにゃんは手を開く。そこにはたったひとつだけわたしがあげたピックが。
その手をわたしは強く握った。
冷たい。
死んだ手。
あずにゃんが言った。

「∝♪※#▽∝」

ふいに震動がとまった。
あずにゃんの手の冷たさが、握った手のひらの中で刺さるピックの異物感が、沸騰したわたしの脳みそに落ちて黒い焦げをつくる瞬間、頭の中のその部分だけが正しい信号を発する。いまも煮え立つ深海の暗闇の中で得体の知れない生物に怯えているのに、自分のほんのちっぽけな一部分だけが幽体離脱するみたいに空に浮かんでいる。
その場所で、流れ込む天使たちの様子をわたしは眺めている。侵攻する天使たちに踏みにじられていく思い出たちを。
りっちゃんがいつも座っていた椅子。通学鞄の置き場になってた青いソファーから飛びしてあたりを舞う綿。けどソファー右端の背中の穴だけはわたしがあけたやつ。新入生勧誘に使ったにわとりの着ぐるみ。あずにゃん専用のピンクのマグカップが割れた。さわちゃんが作った服たちが、着たことあるのも結局着ないで終わってしまったものも、みんな白い血で染まる。
握った手を通して接続されたあずにゃんの凍結された記憶をわたしの熱狂が溶かす、わたしは昨日までのこと全部思い出す。
だけどいったいずっと昔に死んでしまった過去からどんな教訓が得られるんだろう?
天使たちはもうそこまで迫っていた。



わたしはまだ逆巻いてる。
スポットライトがステージの上のわたしたちを照らす、蒸し暑い夏の夜の喧噪遠い音楽、りっちゃんがくだらない冗談を言って澪ちゃんが怒ってムギちゃんが笑う、あずにゃんが言う「わたし、もう一度唯先輩のギターを聞きたいです!」、わたしが言う「あんまりうまくないですね!」、中学校の卒業式に泣かなかったのはなんでだったろう、もっと過去、若い母親と父親の姿、憂が泣いているわたしは割れた首の取れた人形をつかんでいる、さらに幼い憂は笑ってる、わたしは小さい、四つん這いになって後ろ向きに高速で進む、声がした、黒い影、誰かが言う「まるで天使みたい」、だけどわたしは大声で泣きはらし、暗い暗い穴の中に吸い込まれ、そして再び死んで天使になるーーそのとき、天啓が降ってきた。
落ちた天使に誰かが頭をぶつけたっていう新しい意味じゃなくて、アイデアがひらめいた!っていう昔からの。
それはこういうこと。
あずにゃんにとってこのピックってそんなに大切なものじゃない。
あずにゃんは本当にそのピックを返したかっただけなのかもしれない。あずにゃんはわたしが修学旅行のおみやげにピックなんか買ってきたことをほんとに怒っていてこんな物いらないですよって感じにわたしに押し返してきたのかも。
人間だったときは口に出せなかったけど。
その気持ちは分かる。あずにゃんも優しいのだ。わたしみたいに。
わたしは笑った。

「そっか、そうなんだよ!」

急にわたしが笑い出したから、周りのみんなは驚いた。
ぽかんとしてわたしのほうを見てる。
笑い声が澪ちゃんを自分だけの世界から引きずりだす。ムギちゃんはいつの間にか泣きやんで頭の上にはてなマークを浮かべてる。りっちゃんと顔見合わせて首を傾げた。



え、待って、待ってよ、じゃあもしかしたら、あずにゃんが天使になったのもわたしたちとはぜんぜん関係ない理由からなのかもしれない。好きな人が別の学校にいてふられたとか、単に気まぐれとか。
わたしたちが思ってるほどあずにゃんはわたしたちのこと気にしてない。ありうる。天使たちは思ってるより人類に興味がない。これもありうる。大学はちょーハッピーは場所かもしんない。かもね。ムギちゃんはどこにいてもわりと楽しそう。まあね。澪ちゃんは単にホラー映画が好きなだけ。うん。りっちゃんはお父さんが死んでもぜんぜん気にしてない。これはおそらくない。お父さんとお母さんはあんな喧嘩しょっちゅうしてる。ふたりがわたしたち姉妹のこと全然わかってないみたいにわたしたちだってふたりのことなんか知らないのだ。
そうだよ、天使たちはすっごいいやなやつで人間たちがあわてふためく様子を見て天上でげらげら笑ってる。ゆえにあずにゃんは単に嫌みっぽくてやなやつだ。たしかに。
だけどなんで気がつかなかったの?
ゾンビ映画のせいに決まってる。もちろん。
天使は人を裁かない。
ううん、それはちゃんとわかってたつもりだし、わかってる。あずにゃんが天使になったのがわたしのせいだと思ってるからあずにゃんに毎日会いに行ったわけじゃない。あずにゃんは大事な後輩で、死者が降りはじめるそのずっと前から天使だった。
ってことは、わたしはあずにゃんをどう思ってるってことなんだろう?



ま、いいや。とりあえずこのピックはもらっておこう。どうせあずにゃんだってわたしがあずにゃんのこれをもらったりしないときにちょっとなんかそれっぽいことを言ったりするのを聞いてはにやにやしてるんだろうし。それが天使風のやり方で、あずにゃんはずっと天使だったんだから。
わたしは言った。

「いろいろ言いたいことはあるけど、一番いいたいのはこの状況ってすごい笑えるよ、ってこと」

あの偉大な映画たちの登場人物たちは必ずと言っていいほど、だめだってわかってるのに一番やっちゃいけないことをする。昔からなんども似たような失敗を繰り返してるのに懲りずにまたおんなじことをする。わたしたち、いままさにその瞬間にいる。無知と恐怖、澪ちゃん的迷妄にとらわれていて、ものすごいばかなことをする。
それってすっごくあほだし、笑える。

「わ、わ、笑えるわけないだろ……ばかぁっ」

と、震えながら澪ちゃん。

「突然笑い出した唯が?」

りっちゃんはにやにやしながら言う。

「ねえねえ、おもしろいことってなに?なに?」

ムギちゃんはそれがわからないことがもどかしそう。



天使たちはもうわたしたちのすぐそば触れるとこまでやってきてていっせいに手を開く。
がらくた。
そして、あずにゃんは飛び上がった。
りっちゃんがとっさに宙に浮いたあずにゃんの腕をつかむ。あわててムギちゃんもそうする。澪ちゃんはムギちゃんにくっついてる。
わたしも遅れてあずにゃんに向かってジャンプする。のばした左手が天使に触れーー触れらんないーーそして重力が消えた。
あずにゃんたちはビニールの青空を突き抜けた。切れ間から夕暮れ色した光線が降り注ぐ。
わたしを照らす。
死者を照らす。
あずにゃんたちがどんどん遠ざかっていく。
天使たちが、天使たちのがらくたが、遠ざかっていく。
わたしは浮かんでる。
空に向かってぐんぐんのびている。
わたしは飛んでいた。
背中に羽が生えていた。
小さな羽。
天使の羽。
落ちるって思う。
ぐって背中に力を込めて、飛び上がる。あずにゃんたちのところまで宙をジャンプした。
あずにゃんの肩をつかんだ。
冷たいのがなんだか懐かしくて安心した。
あずにゃんは4人の人間の重さをまったく意に介さず軽々と翼を羽ばたかせている。
りっちゃんが言った。

「天使になるなんてやっぱりお前は、ばかだよ」

知性だ、知性の欠如だって嬉しそうに笑う。
下を見た。
ミニチュアみたいな町が見えた。
高校、河川敷、スーパーマーケット(駐車場あんなに大きいんだ!)、中学校、わたしの家、和ちゃんの家、あずにゃんの家、りっちゃんの家、澪ちゃんの家、もうじきムギちゃんの家も見えるだろう。芝生のサッカーグラウンド、レンタルビデオ店、工場の煙、カラフルな車の川、街灯。町いっぱいの、黒っぽいアスファルト、白い天使の血。そのすべてが古めかしい夕光のなかに溶け込んで、影になった。
そして景色はだんだんと名前を失っている。
上昇気流が、わたしたちをどこか遠い場所へと運んでいく。
澪ちゃんがわたしの足をぎゅっと握ってて爪が食い込んだ場所が、痛い。
わたしはまだ痛覚を信頼している。
それが嬉しい。



「ずいぶん遠いとこまで来ちゃったねー」

「戻れるかな?」

「戻れないっ!」

「ねえー海見える?」

「見えないな」

「あれって湖かしら?」

「わかんない……」

「澪だったらわかるんじゃね」

「澪ちゃん! どうなの?」

「みえないきこえない」

「目開けてよ!」

「こわ、こわい」

「へーきだよ!」

「もうおしまいなんだよ!わたしたちは!」

「大丈夫だよ!みんなちゃんと下降してるから!」

「ほんとに?」

「信じてよ!」

「唯は信用できない」

「重力を! ね?」

「……うん」

澪ちゃんは目を開けた。
ねえあれ湖わかんないよえーつかえなーおっこちちゃえよーじゃあみずうみじゃなかったらなんなのかな川?川はない川じゃないだろじゃあ海?海でもないなあやっぱ湖じゃん?えーなになんかほかに水あった?沼泉貯水池……あ、水たまりだよ!ばかだなあえーだれのことさ。えーとね、じゃあ、ムギ。え、あ、うんごめんね、謝るなよアメリカじゃ謝ったら負けなんだぜなんたって英語には謝る表現がないくらいだからな……じゃあsorryはどんな意味なんだ……。




雲の切れ間から夕日が無数の光線になって、差し込んでいた。
天国の階段。
たしかそう言うんだっけ。
ケーキにナイフを立てるみたいに、オレンジ色に染まった遠い空が白色の光で切りわけられている。
そして、見た。
天使たちが飛んでいた。
最初はまるで点々と、夕焼け色のキャンパスに落ちた白い絵の具のように。それから高度が上がるにつれてもっとたくさんの白い綿毛が空を覆いはじめた。
まるでそれは群れをつくる鳥たちの集団飛行みたいだった。
夕日を反射して赤く染まり、天国の階段をどこまでものぼっていく。白い大きな翼をはためかせ直線を描いてはやいスピードで、天国のなか、翼が雲を切り裂いて、高く、見えなくなってしまう。
この高度からだとそれがよくわかる。
だけど地を這うわたしは知らなかったのだ。
町に降ってきた天使たちはいつか天国にもどらなければならず、だから降る天使と同じだけの天使が空に帰るんだってこと。
わたしは天使が”飛ぶ”ってこと、知らなかったんだ!

「ねぇ、わたしね、わたしさ、わたし、ねえ、知らなかったなあ……こんなにもたくさんの天使がね、空さぁ……飛んでるなんて、一度も考えたこともなかったんだよ」

「唯ってばかだから」

「なんで、何で、りっちゃんはわかってたのさ?」

「あたりまえだろー、だって落ちるためには飛ぶしかないんだから!」

あるいは飛ぶために。
わたしは笑った。




「なんかこういうのって冒険みたいだよね」

「わたし門限までに帰らないとお母様に怒られちゃう!」

「電話しとけよなー」

「圏外だもん、ここ!」

「わ、わ、わ、地面が、地面が近づいてる。わたしたち落ちる!落ちちゃうよ!」

「大丈夫だよ!澪ちゃん!天使だっていつも着地成功してるじゃん!」

「あれ痛そう……」

「ばーか、痛みなんか感じないうちに死んじゃうよ」

「死なないからな、わたしは死なないから、律だけが死ねばいい……」

でも、わたしたち急降下してはない。あずにゃんは翼をひろげたまま。ゆっくり落ちていく。



りっちゃんが笑いながら言った。

「だけど、ホラー博士の澪ちゃんが言うには、わたしたちのうち生き残ることができるのはひとりだけだぜ」

たしかにそうだ。
わたしは今でさえ超危機的状況にあって。
あずにゃんは天使になっちゃってて、わたしもそうなりかけてる、ムギちゃんは海外に行っちゃうし、りっちゃんは両親を失いかけて、澪ちゃんはえーと……特にないからいまのとこオッズ一番。
そしてその澪ちゃんが、またはっとするようなことを言った。

「じゃあさ、誰が一番生き残れるか勝負だな」

わたしは驚いた。
そうだ、勝負なんだ!
わたしたちは仲間なんかじゃなくて、仲間だけど敵同士で、生き残れるのはひとりだけなんだ。
これは大発見だぞって思ったんだけど、よく考えたら澪ちゃんはいまのとこ一番有利なんだからそれを言うのはあたりまえで、だからわたしは負けたくないって思った。



「わたしとあずにゃんはもうふたりとも負けそうだから、タッグを組むよ」

ってわたしが言うと、ムギちゃんは

「それはだめよ」

って言った。

「なんで?」

ムギちゃんが答えた。

「だってそしたら結局わたしがひとりあまっちゃうじゃん」

ものすごく悲しそうな顔だった。
あわててりっちゃんが、

「わたしは澪なんかじゃなくてムギと組むからな」

って言ったけど、やっぱりムギちゃんはあのいつもの申し訳なさそうな表情で黙っていた。それでなんかもうすごく気まずい感じになっちゃったあとに、ムギちゃんが嬉しそうな顔で、

「じょーだんに決まってるじゃん。ばぁか」

って言ったから、わっ裏をかかれちゃったって、みんなはげらげら笑ってしまった。
あんまり笑ってしまったので、一番下にいた澪ちゃんは落っこちそうになっていて、とりあえず一番生き残りそうな澪ちゃんをやっつけようってみんなでちょっかいをかけてたら、澪ちゃんが怒ったふりをした。みんなはまた笑った。



というわけで、今のところ、わたしたちは誰もかけずに5人そろっていて、まだ生きている。
そしてもちろん、そのなかで生き残るのはひとりだけで、そうなるのは他の誰かじゃなくてきっとわたしに決まってて、どんな卑怯な手を使ってもそうなってやるんだって思ったし、そしてその他のみんなもーーあずにゃんも含めてーーそれぞれにそう思っていた。
あずにゃんとわたしたちは風に流されて知らない場所まで飛んでいく。もうだいぶ遠くまでやってきてしまっている。知らない町の知らないアスファルトの上。
帰り道もわからない。
視線は低くなり、地面がぐいっと近づき、そして白昼夢的にやわらかい接地!――天使が今、再び地上に舞い降りる。
ポケットいっぱいの祝福。
てのひら零れ落ちる天啓。
物語がこれからはじまるんだ。



最終更新:2016年04月24日 22:18