◇ ◇ ◇

私の『さいはてのカフェ』での生活は唐突に終わりを告げました。
あの子が迎えに来たのです。

「お姉ちゃん!!」

お昼前、いつものようにお店に出て給仕していた時に突然菫が訪問してきたのでした。
他にもお客さんがいる前で菫が目にたっぷりの涙を浮かべながら私に抱きついてきたので、私は慌てて彼女を連れて店の外に出ました。

「もう、驚いたじゃない」

「お姉ちゃんのばかあ……」

よっぽど心配だったのでしょう。
と言っても、私はべつに菫と連絡を絶っていたわけではないのです。
基本的に毎日「今日はこんなことがありました」という日記のようなメールを送っていて、そんなやり取りをしている間は特に不安がるような気配なんて感じられなかったのに、どうやら私は自分で思っていた以上に菫の気遣いを無碍にしていたようなのでした。
そうして私が一向に帰ろうとしないのをとうとう我慢しきれなくなり、こうやって迎えに来たという事でした。
確かに私は少し長居しすぎたのかもしれません。

「叔父さんも会いたがってるよ。帰ろう、お姉ちゃん」

「うん……」

私はそんな曖昧な返事をしながらちらりとカフェの方を見やりました。
すると私と菫の一部始終を覗こうとして窓辺にたくさんのお客さんが押し合いへしあいしているのが見えて、その可笑しさと言ったらありませんでした。
菫もそれに気づくと恥ずかしそうに私の袖をぎゅっと握って背後に隠れてしまいました。
裏口から唯ちゃんが出てきて言いました。

「ムギちゃん、その子は……?」

私は私と菫の関係を簡単に説明しました。
この町に来ることになったきっかけも何もかも。

「つまり帰っちゃうってこと?」

私が返事をするよりも先に、窓から身を乗り出していた馴染みのお客さんたちが落胆のような悲鳴を上げました。
私は、私にすがりつくようにしている菫をそっと抱き寄せてこの心の痛みを堪えていました。
いつか帰らなければならないという事は分かりきっていたのです。
それに、この子も待っている。
喧嘩してしまったり心配をかけさせたりもしたけれど、こうして長い間離れ、そして再会した今、私の気持ちははっきりしていました。
私にはやっぱりこの子が必要なのです。

ふと唯ちゃんの背後、裏口からこっそりと私を見ている梓ちゃんの姿が映りました。
……何か胸を締め付けるような苦しさがありました。

「はいはい、見世物じゃないぞ~、戻った戻った」

りっちゃんが現れて野次馬を散らし、それから

「ま、今すぐって事もないだろ。菫ちゃんだっけ? ゆっくりしていきな」

そう言って私と菫を半ば強引にお店に引き連れていくのでした。

「まさか本当にメイドさんがいるなんてね~」
「金髪で目も蒼いし、外国の人?」
「あっ、何か食べたいものある? ほらメニュー表」
「こうやって見ると二人とも似てるよな……ほんとに姉妹みたい」

矢継ぎ早に質問されて菫も最初は困惑していましたが、歓迎されていると分かるとすぐにみんなと仲良くなりました。

「それにしても菫、どうやってこのお店が分かったの?」

「調べたらこの町のイタリアンカフェはここしか無かったから……」

推理するまでもない事でした。
菫とのメールで私は何度も「美味しいイタリアンのカフェ」と言っていたのですから。

唯ちゃんたちは菫のことを気に入ってしまったらしく仕事を忘れて可愛がる一方でした。
そして誰も運ぼうとしない料理をカウンターに乗せたまま梓ちゃんが私たちをじっとにらみつけているのが見えたので、私はこの場を唯ちゃんたちに任せて厨房へ料理を取りに行きました。

「…………」

梓ちゃんは不機嫌そうに、そして何かを言いたそうに私をちらちらと見やりながら顔はそっぽを向いているのでした。

私は何も言えませんでした。

常連のお客さんにも「居なくなっちゃうのかい」「さみしくなるねえ」なんて言われて、こんなにも私を好いてくれる人がいるのだと思うと余計に寂しさが募ります。

実際、今すぐに帰らなくてはならない理屈はないのです。
あともう少しだけここに残るという選択肢もありました。
しかし今までずっと待ってくれていた菫の事を思うと、やはり一刻も早く帰らなければならないと思うのでした。


決意が揺らがないうちに決めてしまおう。


お昼が過ぎてお客さんが少なくなり、店内も落ち着いてきた頃、私はみんなにお別れを言いました。

「今日!? それはちょっと急なんじゃ……」と唯ちゃん。

「このまま菫を一人で帰らせるわけにはいかないわ」

「明日じゃダメなのか? 菫ちゃんも一緒に泊まってさ……」

「私はともかく、菫まで一日帰ってこないとなると叔父さまが心配するから……」

澪ちゃんは何も言いませんでしたが、その眼差しには明らかに私を引きとめようという意志がありました。

「ごめんね、みんな……私、少し長く居すぎたみたい」

その言葉でりっちゃんも唯ちゃんも「そっか……」と諦めたように肩を落とすのでした。


そんなわけで私は今、ホテルの部屋を片付けている最中でした。

「素敵なところだね。お姉ちゃんが言ってた通り」

菫は壁に寄りかかりながら私が荷物をまとめているのを眺めていました。
と言っても大した量ではありません。
荷造りはすぐに終わりました。

「……もういいの?」

「ええ……行きましょう」

私は荷物を持ってホテルから出ました。
ふと振り返って見上げてみると、最初にここへ来た時の景観のひどさを思い出して一人で笑ってしまいました。
みんなで掃除をして綺麗にはしたけれど、建物全体のどうしようもない古さは何も変わっていません。
しかし今はこのかび臭いホテルをどこか愛おしく感じるのでした。

「きゃっ!?」

「そこ足元危ないから気をつけて……って言おうとしたのに」

転びそうになる菫の手を取り、なめらかな下りの道を二人で歩いて行きます。
向こうに鮮やかな青の海が見えました。

……ここで暮らし、ここで働いてきた日々は私にとってかけがえの無い経験になりました。
友達と呼べるような人も出来ました。
けれど、私には帰る場所がある。
お互いに手を取り、支え合って生きていきたいと思える大切な人がいる。
だから私はこの『さいはてのカフェ』をひとかけらの思い出にして胸の奥に仕舞っておくことにしたのです。

これは決して悲しい別れではありません。
むしろ素敵な事なのだと私は気付かされました。
しかしその事に気が付かず、傷ついたままの人がここにはまだ居る。
私はどうしてもその人に自分の思いを伝えなくてはいけないと思いました。

「菫、先に行っててくれる?」

「どうかしたの? 忘れもの?」

「まあ、そんなところ」

カフェの前にはきっと唯ちゃんたちが待っていて、私たちを見送ろうとしているに違いありません。
けれど、おそらくそこに梓ちゃんは居ないでしょう。
不思議とそんな確信がありました。

……梓ちゃんは厨房にいました。
なにやら忙しそうにシンクを洗ったりレジの帳簿を確認したりしています。
私が裏口から入って来たのも気が付いていないようでした。

「梓ちゃん」

声をかけるとびっくりしたように振り返って、それからまたいつものように顔をしかめてふいと視線を逸らすのでした。

「まだ帰ってなかったんですか」

「うん……梓ちゃんにきちんとお別れ言ってなかったから」

「そんなのいらないです。客が帰るのをいちいち気にしてたら仕事になりませんから」

「じゃあどうしてそんなに寂しい顔をしているの?」

梓ちゃんはふと作業していた手を止めて私の方を振り向きました。

「……あなたがこの店に来たせいで」

苦々しく、それでいて切ないような瞳をまっすぐに私に向けて、小さく呟きました。

「あなたが来て店を掃除したせいで、汚しちゃいけないって余計な気を使う羽目になりました。おかげで居心地が悪いったらないです」

「……うん」

「ホテルまで綺麗にして、誰がそれを維持しなくちゃいけないと思ってるんですか」

「…………」

「こんなしょぼい店で紅茶なんて、身の丈に合わない事をしたせいで大勢お客が来て迷惑なんですよ。無駄に忙しくなっただけじゃないですか」

「…………」

「そのくせ律先輩も澪先輩も自分のやりたい事を見つけたとか言って全然手伝わなくなったし」

「…………」

「挙句の果てにはあなたまで居なくなって、そしたら誰が紅茶を店に出すんですか? お客さんが減ったらどう責任取るんですか?」

「…………」

「みんなそうやって私の元から離れていく……あなたも、憂も、みんな」

「それは違うわ」

「何も違くないです」

「梓ちゃんは気づいてないだけなの。自分のせいだって思いつめて、後悔して、殻に閉じこもってる」

「…………」

「梓ちゃんは変われるのよ。前に進もうと思えば出来るはずなの。りっちゃんや澪ちゃんが変わる事ができたように。そして、唯ちゃんも憂ちゃんもずっとそれを待ってる」

「…………」

「私にとっての菫が帰るべき場所であるように、憂ちゃんもきっと梓ちゃんの元に戻ってくるわ」

「……でも」

梓ちゃんが反論しようとするのを遮って、私は言いました。

「約束しましょう。私はいつか必ずここに戻ってきます」

「その代わり梓ちゃんも音楽を続けて欲しいの。きっとみんな喜んでくれるわ」

「……そんなの……誰も私の音楽なんて……」

梓ちゃんは急に弱弱しくなり今にも泣き出しそうな声で呟きました。

「私は梓ちゃんの音楽をもっと聴きたい。誰のためでなくてもいい、ただ私のために続けて欲しいの……だって私は梓ちゃんのファンだから」

「………」

それだけ言い終わると、私はじっと彼女の返事を待ちました。
そして不意に梓ちゃんが呆れたような笑みを口元に浮かべて、

「どこまでお人好しでお節介焼きなんですか、あなたは」

「…………」

「一方的に約束を突きつけられて、ハイそうですかと納得できるわけないじゃないですか」

「…………」

「……条件があります」

「条件?」

彼女の表情は吹っ切れたように晴れやかでした。

「約束は守ります。だから、あなたが戻ってきたら私に紅茶の淹れ方を教えてください」

私は満面の笑みで「うんっ!」と頷きました。


それから私と梓ちゃんはお互いに別れを告げ、唯ちゃんたちに見送られながら『さいはてのカフェ』をあとにするのでした。……


…………。

……――潮風が心地良い沿岸を駅に向かって歩いていました。

まるで夢の世界の出口のように、行く手に紫陽花たちが群がっています。

ふと、もしかしたら本当に夢だったのかも、なんて考えて来た道を振り返ってみると『さいはてのカフェ』はもうすっかり遠くになって見えなくなっているのでした。

「どうしたの?」

突然立ち止まった私を見て菫が尋ねました。

「……ううん、なんでもない」

菫の手を握って、私は歩き出す。
あの日ひとりぼっちで歩いた道を、今は二人で歩いている。
それなのにこの泣きたくなるような胸のざわめきは何故でしょう。

思い返せば、あっという間の日々でした。

長いようで短かった旅。

しかし私の出会いの物語はまだ終わりではありません。

今は別れの時かもしれないけれど、いつかきっと私はここへ戻ってくる。

この海の見える町で、もう一度あの演奏を聴くために。

私の、もうひとつの帰る場所のために。

だから私は、この切ない気持ちだけは思い出にしないでおこうと心に決めて、歩き続けるのでした。


 ~ Fin.

――――――
――――
――

私は読み終えた本をパタンと閉じて、窓の外の夜をぼうっと見上げました。

……澪ちゃんったら、まるで梓ちゃんがその曲を作ったみたいじゃない。
確かに梓ちゃんは私に曲を弾いてくれはしたけれど、それは元々ある映画の劇伴で……なんて、どうして私が言い訳みたいな事を考えているのかしら。
私は懐かしさと一緒に思わず「ふふふ」と笑いを洩らすのでした。

小説と一緒に送られてきた手紙によると、売れ行きはまあまあのようです。
私としてはちょっと恥ずかしい気持ちもあるけれど、これで澪ちゃんも一端の小説家として活躍できるなら気分も良いというものです。
それから、りっちゃんも無事就職できたとの事でした。
就職祝いに騒ぎすぎて梓ちゃんに怒られた、なんてエピソードも手紙に書いてありました。
澪ちゃんの呆れて突き放したような文章が妙に面白くて、そこだけ何度も読み返したりしました。

そして、手紙の最後のこんな一言が、私の心をざわざわと駆り立てるのでした。


『追伸:憂ちゃんが戻ってきました』


澪ちゃんも意地悪です。
こんな風に書かれたら、否が応でもその顛末を知りたくなってしまうではありませんか。

私はカレンダーを見て、次の休暇があと何日後になるか数えました。
しかしどう見積もっても数週間は先になりそうです。
それだけ私のこちらでの生活は多忙でした。
せわしない社交界の暮らしも嫌いではないけれど、この本と手紙を読んでしまうと、あの奇妙に楽しい日々のことが思い出されて居ても立ってもいられなくなります。
そうして何度も手紙を読み返しているうちに私はとうとう我慢できなくなり、

「菫! 菫はどこ?」

「どうかなさいましたか、お嬢様」

「あっ、居た居た。あのね、明日なんだけど……」

私はこそこそと辺りを憚るように相談します。
菫は私の無茶な要求を黙って聞いてくれました。

「……分かりました。なんとかしてみます」

「本当? 大丈夫?」

提案した私が言うのもなんですが、丸二日スケジュールを空けられるほどの余裕なんて無いはずなのです。
しかし菫はやけに自信満々といった様子でした。

「もしダメだったら、その時は二人でこっそり抜け出せばいいんです。……もちろん怒られる時はお姉ちゃんも一緒だからね」

そう言っていたずらに舌をペロっと出すのでした。
なんて大胆な計画。
でも、なんだか楽しそう。

私はそれから菫と一緒に明日の計画を練りました。

唯ちゃんは元気にしてるかな。
憂ちゃんってどんな子なんだろう。
りっちゃんはお仕事で忙しかったりするのかな。
澪ちゃんの書斎に遊びに行くのもいいかも。
梓ちゃん、音楽をちゃんと続けてくれてるよね。

それから、カフェへ行ったらあの美味しいカルボナーラを菫にも食べさせてあげなきゃ。
そしてみんなで期間限定メニューを注文しよう。
梓ちゃんと一緒に淹れた紅茶を、みんなで。

おわり




最終更新:2016年07月04日 19:19