わたしはダッシュで階段を駆け下りた。
7階6階5階4階3階……息が切れる、膝がガクガク、太ももはプルプル。
踏み外したら大ケガだ。それでもかまうもんかと一段飛ばし。
エントランスまで降りてきて、その勢いのまま正面玄関を飛び出す。
マンションの外に出るとすぐ、スマホを取り出す。
指が震える。ゆっくり…ゆっくり…慌てないで…よし。
プップップッとプッシュ音。電話がかかった。
コール音が響く。1回 2回 3回 4回 5回 ……。
出ない。
6回 7回 8回 9回 10回 ……。
出てよ。ねぇおねがいだから、出て。
11回 12回 13回 …。
今、りっちゃんの声が聞きたい。
14回 15回…。
今、りっちゃんに伝えたい。
16回…。
今じゃなきゃ、ダメなの!
17回目。
わたしは目をつむり、祈る気持ちでスマホを握りしめた。
お願い!!!
「……もしもし」
18回目のコールを終えて、りっちゃんの眠そうな声が耳に届いた。
「…出ると思わなかった」
「電話かけといてそれ? 唯こそこんな時間になにしてんの、つーか、なんか息荒くね?」
「…………眠れなくて」
「…そっか。わたしも」
「…何の用?」
「アホ。それはこっちのセリフ」
りっちゃんは呆れたような声を出して、笑った。
わたしも笑った。
情けない。膝がガクガクで、立っていられない。
アスファルトの上にペタンと座り込む。
心臓がバクバクと音を鳴らしてる。喉が渇く。声が震える。
わたし、こんなにヘタレだったっけ? 呆れるくらい臆病だ。
大きく息を吸って…吐く。
「聞きたいことがあるの」
「…なんだよ」
「どうして……」
「どうして?」
うだうだ考え続けたあげくにようやく電話をかけて、りっちゃんは出てくれたというのに、
電池残量は残りわずかだというのに、なにも言葉がでてこない。
薄紫色の空にかかる雲。ほとんど星なんて見えない。
あの日ふたり見た星空とは大違いだ。
しばらく黙ったまま、明けつつある空を見つめていた。
もうすぐ日が昇る。新しい一日がやってくる。
太陽は昇って、沈んで。月が昇って、沈んで。また太陽が昇って。
一日一日が重なったその先に、何があるだろう。わかってるのはりっちゃんが結婚してしまうこと。
そういえば“おめでとう”って言っていなかった。
今、それ、言っとく?
今、それ、言うべき?
言うべきだよねぇ。
友達なんだから。
澪ちゃんやあずにゃんのときはまっすぐに出てきた言葉がなぜだか今は出てこない。
どれだけ無言の時間が続いても、りっちゃんは電話を切らなかった。
そうだ。りっちゃんは、わたしを待っていてくれてた。いつだって待ってくれてた。
わたしが何かを伝えようとするのを。返事をするのを。
言わなきゃ。言わなきゃダメだ。今しかない。今、ちゃんと言葉にして伝えなきゃいけない。
理由なんて知らない。内容なんてわかんない。
うまいこと言おうなんて考えなくていい、かっこつけなくていい。今、思ったことをそのまま口に出すだけ。
誰も進むべきを道を教えてくれない。
手を引っ張っていってくれる人はいない。
夢にみたハクバノ王子サマなんて、現実にはいない。
いつか今の自分を裁くのが、未来の自分だったとしても、ソイツは今、ここにはいない。
いるのは、自分だ。選ぶのは、自分だ。今、この瞬間の、わたしだけだ。
わたしが選ぶ! わたしが決める!
け、けっ、けっこん……おめ、おめ、お、お、お………おめで…、、、
言えるかバカ!
「………りっちゃんのせいでわたし、婚期逃しそうなんだけど」
「は?」
出てきたのは思いもしない言葉だった。
「……この三年間一切男っ気ないし。もう来年30歳なのにどーしてくれんの。
とりあえず付き合うとかいうレベルでも男に興味なくなっちゃったんだけど。
ねぇ、どうしてかわかる? りっちゃんのせいだよ。りっちゃんがあんなことするからだよ。
そのくせりっちゃんが結婚するとか、なに? なんなの? ふざけてんの? バカにしてるでしょ」
次から次に言葉が溢れ出てくる。こうなったら後に引けない。もう、なるようになれ!
「ちょっと待て。意味わかんね。酔ってんのか?」
「酔ってない!」
「…彼氏作んないのも結婚しないのも、唯の勝手だろ。わたしを巻き込むなよ」
「バカ言わないでよ! 勝手なのはりっちゃんじゃん。そっちがわたしを巻き込んだくせに」
「……ちゃんとわかるように言え」
「どうしてキスなんかしたの」
沈黙。
受話器の向こうからりっちゃんの呼吸だけが聞こえて来る。
呼吸がだいぶ落ち着いてきた。
「…ごめん」
「あやまんなバカ! わっかんない! ほんっっっっとわっかんない!
いままでずーっと考えてたけど、わかんない!
わたしの頭ん中ぐっちゃぐちゃにしたまま遠くに逃げて、思わせぶりな態度取り続けて、ずっとほうっておいたくせに結婚?? イミわかんない! ふざけんなだよ!!」
「…気持ちに決着、つけたかったんだ。
わたしが結婚すれば、唯のことも、ムギのことも、全部うまくまとまる気がしたんだ」
「この偽善者!」
「……わるい」
「……もういい。わたし、帰る」
「……唯、ムギんちにいるんだよな? わたし、今ホテル出た。始発の新幹線に乗って帰るから。急いでそっち行く。とにかく会って話そう」
「もういいってば! 話すことなんて何もないよっ、結婚でもなんでも勝手にすればっ!」
「ゼッタイ行くから。待ってろ!」
「……電池切れるから」
すぅ、と雲が流れた。
その瞬間、わたしは見た。
明け方の空、雲と雲の、わずかな隙間を縫うようにして星が走るのを。
また言えなかった。
今なら、叶えてほしい願い、あったのに。
ひどいよ、いきなりなんだもん。ムリだよ。ズルいよ。
「…唯、いま見た?」
「…なにを」
「わたし、外にいるから見えたんだけど、流れ星がさ……」
「見てない」
「わたしはちゃんと三回、願いごとしたぜー」
「こんなときに自慢? 無意味だよ。迷信じゃん。あんなの」
「そうかもな。でも勇気を出すときの景気付けくらいにはなるよ。あのときだって」
「……切るよ」
「わかった。じゃあ最後に聞いて。わたし、結婚しない。今決めた。もともと返事、まだだったから」
「…知らないよそんなの。わたしが聞いてるのと別のことじゃんか」
「そうだったな。言うよ。あのさ、わたしがあのときあんなことしたのは…」
「…」
「唯のことが、好きだからだよ」
沈黙。
オレンジ色の空、ビルとビルの間から太陽が顔を出した。
みるみるうちに空が白んでいく。
一瞬ごとに空の色を変えながら、夜は朝へ変わっていく。鮮やかな光が、世界を包んでいく。
新しい一日が、はじまる。
世界が変わる。
「唯、聞こえてた?」
「…聞こえた」
「そりゃなによりだ」
「ねぇ、りっちゃん。わたし、いつもりっちゃんに返事できてなかったね」
「いいよ、もう」
「いいわけないよ。ちゃんと今、返事するから聞いててね」
「おう」
「わたしも、りっちゃんのことが好き」
沈黙。
ねぇ、りっちゃん。
さっきからわたし達、黙ってる時間長くない?
LINEにしときゃよかったのに、なんでこんなときに限って電話なんだろ、しかもわたしの方から。
あ~あ、バッカみたいバッカみたい。
ほんっとバカみたい。
わかんなかったなら、こうやってさっさと聞けばよかったんだ。
自分から聞けば、よかったんだ。そんなこともわからなかった自分は、なんて愚かだったんだろう。
ごめんね、りっちゃん。バカでごめん。
でもね、りっちゃんだっておなじだよ。ちゃんとわかるように伝えてくれなきゃ、わかんないよ。
もっとちゃんと、わかりやすく、教えてよ。バカ。
「今から電車乗る。新幹線に乗るから、東京駅で待ってて」
受話器の向こうでりっちゃんが言った。
「ムリ。だって電池切れるし。東京駅広いし、迷うし。ゼッタイ会えないよ」
「大丈夫だ。見つける。どこにいたって、唯のこと必ず見つける。だから大丈夫」
「やだ。もう待つの疲れた」
「それはお互いさま。今までのことを思えば二時間三時間くらい、知れてるだろ」
「……他人ごとみたいに言わないでよ」
「……ごめん。でも会いたい。とにかく唯に会いたい。いますぐ会いたい。会いたいんだ」
「……バカ」
わたし達って、ほんとバカだね。笑っちゃうくらい。
瞳に溢れた涙が流れ出さないように、わたしは顔を上げた。
「わたしが行くよ、わたしがそっちに行くから。りっちゃんは大阪駅で待ってて」
「え……でも」
「そっちの方が土地勘あるし、合流しやすいでしょ。だから待ってて、もうちょっとだけ」
「……わかった。待ってる。ゼッタイ来てくれよ」
「行くよ。ゼッタイに行く。わたしもね、みつけるよ。どこにいたって、りっちゃんのこと必ずみつける、それから……」
電池が切れた。
でも、そんなことどうでもいい。
だってこれから会いに行くんだもん。会って直接、りっちゃんに伝えるだもん。
これまで言えなかったことも、これから言おうとしたことも、全部全部、伝えるんだ。
これからわたしが選ぼうとしている道が、正解なのか、不正解なのか、今のわたしにはわからない。
十年後のわたしが、激怒する選択なのかもしれない。
そんなことしったこっちゃない。
もしからしたら、とんでもなくバカなことをしようとしてるのかもしれない。
許しておくれ、未来のわたし。
わたしにとってのわたしは、今、この瞬間のわたしだけだから。
太陽の光に消えて行く星を見ながら、りっちゃんと一緒に、また星を見たいな。そう思った。
おしまい。
最終更新:2016年11月28日 18:41