◇-02


 梓がリビングに戻ってきた。
 戻るやいなや、何故か私を射竦めるような、
 強い視線を梓は送ってきている。


 「梓、長かったじゃん。まさか」

 「ねえ純」


 私の冗談を、梓は聞くまでもないといったように制した。


 「いくつか、聞きたいことがあるんだけど」


 梓の言葉はいやに落ち着いていて、
 私は思わず固唾を呑んだ。
 まさか、気付かれたのだろうか。

 そんなはず、無い。私の隠蔽工作は完璧だ。
 余計なこともせず、迅速に対応できていた。

 うん、大丈夫。大丈夫だ。


 「純はこのお菓子たちに手をつけなかったの?」


 梓は卓上の、憂が出した煎餅たちを指差した。
 なにを聞くかと思えば、訳も無い。
 梓の質問はどこへ向かおうとしているのか。



 「食べてない。見ればわかるでしょ。
  他のお菓子もなにもね」

 「そう。じゃあ次の質問。その麦茶、
  私が来たときには注がれていたけど、
  一体いつ注いだものなの?」

 「なにその質問。私が家に来た時。
  梓が来る前に紅茶を淹れちゃ、冷めるからね」

 「そっか。それは気を遣わせちゃったね。
  じゃあ、最後の質問。
  純、その麦茶には口をつけた?」


 全く梓の目指す方向がわからない。
 まさかドーナツ以外のことで、例えば麦茶のことで
 何か聞きたいことがあるのか。

 そう思い、自分のグラスに目をやる。


 (……っ!?)


 戦慄した。
 対して、梓が口角を僅かに上げたように見えた。
 まさかこんな簡単なミスをするなんて。

 “ドーナツにまぶされた粉が、麦茶の底に沈んでいる。”

 あのドーナツは白い紙に包まれている。
 それはその粉が、食べる者の手を汚さないための配慮だ。
 当然、私はそれを恐れた上で、
 手と皿、そして自分の口についた粉も拭き取った。

 しかし、我ながら小賢しいと思われた私は、
 それでも決定的なミスを犯していた。

 “口元を拭く前に麦茶を一度飲んでいるではないか!”


 どうする。梓が麦茶を確認してしまえば、
 全てが明らかになってしまう。
 まさか麦茶に砂糖等々のものを
 入れて飲む趣味はあるまいし、
 どれだけ探しても良い言い訳は見つからない。

 仮に、憂のお菓子にも手をつければ、
 何か別のものが云々とも言い訳できた。
 しかし梓が、その逃げ道を塞いだ。

 そのための質問だったのだ。
 梓は決して馬鹿ではない。
 安易に答えた私が馬鹿だった。


 「どうしたの、純。質問に答えてよ」


 勝者の笑みを浮かべる梓は、
 まるで私を見下すようにして答えを促す。
 実際、今の私は敗者だ。

 だが私も、ただの黙する敗者で終わりたくない。

 これは親友であり好敵手である、
 梓との真剣勝負だ。
 最後まで手を抜くつもりはないのだ。
 悪足掻きだって辞さない。


 「ああ、これはね……」


 と、わざとらしくグラスを軽くつかむ。
 そして、それを持ち上げる振りをして横に倒し、
 麦茶をテーブルにこぼした。



 「うわっ!」

 「あっ、ごめん! 本当ごめん!」


 憂が驚いて声を出し、梓が言葉を失っているうちに、
 私は自分のポケットからポケットティッシュを取り出す。


 「だ、大丈夫純ちゃん? 服、濡れてない?」


 憂は必死に卓上にこぼれた麦茶を拭く
 私を心配してくれていた。
 少し罪悪感が芽生え、心がちくちくする。

 しかし、これで全ての証拠は消された。
 私の完全勝利だ。梓は未だ言葉を発せていない。
 最後にテーブルを拭くのに使用したティッシュを、
 近くのゴミ箱に捨てる。


 「あれ、それ?」


 憂は私のすぐ横の辺りを指差した。
 私の身体に、再び戦慄が走る。
 私のすぐ横の床に落ちていたのは、
 “証拠隠滅に使用したティッシュたち”だった。


 これらは乱雑に入れていたために、
 今さっきポケットティッシュを取り出したとき、
 一緒に出てきたのだろう。

 私は焦ってそれを元の位置、
 つまり私のポケットの中に、
 取り出したポケットティッシュと一緒に入れる。

 ……不意に、嫌な視線を感じた。
 それは天敵に発見されたような、
 例えば獲物を探す猫に見つかったような感覚だった。

 正面に向き直ると、梓がにやりと笑っていた。
 少し猫のような笑い方だな、と思った。
 唯先輩ならこれを可愛いと評するのだろうが、
 今の私は猫を恐れる鼠だった。


 「ねえ純。そのティッシュ、ゴミ箱に捨てないの?」


 ティッシュ。ゴミ箱に捨てられたティッシュと、
 今ポケットに入れたティッシュを交互に見る。
 そして、私は気づいてしまった。


 「“どうしてゴミ箱に捨てなかったの?”」


 梓は質問を変えてきた。

 頭が燃えるように熱くなる。
 しかし、顔はさあっと青ざめていく。

 ……ダメだ。もう逃げられない。
 絶対に梓は気付いている。

 私がこのティッシュたちをゴミ箱でなく、
 ポケットに入れた理由を合理的に
 説明できなくては、私の負けだ。
 そんな理由は“隠蔽に使いました”ぐらいしかない。

 ここまで来て、負けを認めないのは
 さすがに見苦しい。


 「……参りました」

 「素直でよろしい」


 梓は得意げに鼻を鳴らした。
 一方の私は項垂れ、
 失敗したと溜め息を漏らしていた。



  ◆-02


 勝った。勝ったんだ。
 嬉しさのあまり笑みが零れる。
 予想通り、純の麦茶が入ったグラスには
 ドーナツの粉が浮かんでいた。

 私が見つけた自然な点、それは麦茶のグラスだ。
 麦茶がそこにあっても、ああ、私が来る前に出したんだな、
 としか思わない。特に気にもかけない。

 問題は、それが純にとっても同じであったということ。

 もし、純がそこにあっては不自然な点に固執し、
 それを隠すことに全力を尽くしてくれていたならば、
 そこにあっても当然な麦茶には
 無関心でいたはずなのだ。

 さて、その麦茶は私が来る、
 ある程度前に注がれたものならば。
 ついでに言うと、冷えているならば。
 その中にドーナツに関する証拠が、
 具体的にはドーナツにまぶされていた粉が
 残っていても、おかしくないのではないだろうか。
 以上が私の推測だった。


 まあ、今回はただ運が良かったともいえる。
 それでも結果的には、そこに目をつけた私の勝利。
 それは揺るがない。

 ただし、誤算が無かったわけではなかった。
 実は私が描いたシナリオでは、
 麦茶のソレを指摘するのみで事件が
 解決するはずだったのだ。
 だが、純は最後の悪足掻きとばかりに
 麦茶をテーブルの上にぶちまけ、
 その証拠を完全に隠滅してしまった。

 ……純にその隙を与えてしまった、私の負けだ。

 途中まで、本当にそう思っていた。
 だからこそ何も喋ることは出来なかったし、
 麦茶を拭く純の安堵した表情に対しても、
 嫌味の一つも言えなかった。

 しかし、純も焦っていたのだ。
 幸運は意図しないところから転がり込む。

 “私の目の前でティッシュをゴミ箱に捨てた。”

 もしそれを自分のポケットに入れてしまえば、
 いくらでも理由はつけられただろう。
 いや、これ単体では何の問題もなかった。

 一番の問題は次の行動との整合性にあるのだ。
 そう、純は次の段階で決定的なミスを犯した。

 “自分が落としたティッシュを、自分のポケットに入れた。”

 私はそれを見逃さなかった。
 それを追及すると、純は自分のミスに気付き、
 ついに自分から白状した。チェックメイト。


 私は勝利の祝杯代わりに、紅茶を口に運んだ。
 うん、やっぱり軽音部のものだ。


 「……えっと、二人とも、なにをしてたの?」


 一人取り残された憂が首を傾げている。
 ぜひ憂には、唯先輩と同じように
 いつまでも純粋でいてもらいたい。純とは違って。


 「くっそー、梓に負けたー!」

 「えっ、えっ、勝負してたの?
  一体なにを勝負してたの?」


 私と純を交互に見る憂を尻目に、
 私は純と目を合わせ、お互いに目をぱちくりさせる。

 そして、憂の当然でありながら
 どこか場違いのような様子が可笑しくて、
 私たちは笑い声をあげた。

 憂は訳がわからないようで、
 相変わらずきょとんとしていた。


  *  *  *


 純は全てを白状し、憂に謝った。
 ちゃんと怒ってくれるか疑っていたが、
 案の定、憂に怒った様子はなかった。


 「大丈夫だよ、純ちゃん。
  まだドーナツは二つあるんだから」


 純の分はないと言っているような気がした。
 一応、自分の分のドーナツを箱から取り出し、
 自分の皿に乗せる。


 「……まあ、仕方ないか。私も食べたわけだし」


 純は顔を正面にいる私に向けた。
 見るからに不愉快そうな顔だ。


 「それにしても梓、あんたのあの笑みは最悪。
  すっごい腹黒だよ」

 「そっちこそ、腹に一物抱えてるくせに」

 「うっ。これはドーナツだもん」


 ドーナツなら腹の中にあっていいのか。



 「もう。純ちゃん、金輪際こんなことしちゃダメだよ?」

 「はーい……」


 そして、本当に反省した様子の純を見た憂が、
 何を思ったのか信じられない行動に出た。

 なんと憂は、自分の分のドーナツを二つにちぎったのだ。


 「はい、純ちゃんのぶん。
  半分だけだけど、我慢してね?」


 私は言葉を失った。
 恐らく私以上に、純がきょとんとしていた。

 しばらくして正気に戻った純は、
 身体の前で慌しく両手を振り、辞退の意を示した。


 「い、いやいやいや! 別にいいよ!
  これは憂のぶんだし、憂が食べてよ」


 しかし憂は優しく純の手を掴み、微笑んだ。


 「ううん、いいの。きっと本当の犯人は、
  “食欲の秋”さんなんだから。純ちゃんは悪くないよ」

 「そんな、まさか……」

 「私は純ちゃんに食べてほしいな~」


 憂は更に満面の笑みを、純に向けた。
 まともにその笑顔を受けた純は
 参ったというように、首をがくりと項垂れさせた。



 「……わかったよ。降参。ありがとうね、憂」

 「えへへ、どういたしまして!」


 本当に嬉しそうな声だった。
 さっと自分の皿に乗っているドーナツに視線を移す。
 途端、私一人だけ丸々一個のドーナツを
 食べるのが申し訳なく思えてきた。


 「……あのさ。私のぶんも合わせて、
  三人で分けない?」

 「えっ」

 「憂が分けてるのに、申し訳ないよ。
  それに私だって黙ってたし……、
  結果的に憂に嘘をついたことになるし」


 私は黙ってドーナツの乗った自分の皿を
 テーブルの真ん中まで押した。
 それを見た憂と純は目を丸くしている。


 「私の気が変わる前に早く!」


 私の叫ぶような声に驚いた憂は、
 急いで自分の方へと皿を寄せる。
 合計二つのドーナツが憂の手によって、
 平等に三等分される。


 「本当にいいの、梓?」

 「……いいの!」


 結果的に純の一人勝ちのような
 気がするのは、確かに少し癪に触る。
 しかし試合には勝っている。
 試合に勝って、勝負に負けるとはこのことか。

 ……それでも。

 不思議と、嫌な気分はなかった。
 むしろ清々しく、私の心は晴れていた。


  *  *  *


 「はい、どうぞ」


 そう言って私の前に運ばれた皿には、
 綺麗に等分されたドーナツが横たわっている。
 他の二人の皿も同様だ。


 「それじゃ、いただきます!」

 「いただきます!」

 「いただきます」


 憂の掛け声に続いた二人の声が重なる。
 早速、純が夢中となった例の期間限定ドーナツを
 両手で持ち、口に運んだ。

 ……あまいなあ。

 少しだけ、私の手は汚れてしまった。
 それでも口の中に広がる甘さは確かで、
 非常に心地良いものだった。


 「うわ、すごい美味しいね」

 「本当、美味しいね……。純ちゃん、ありがとう!」

 「へっへっへ。どういたしましてー」

 「全く、調子良いんだから」



 その心地良さはいつの間にか、
 私たちの間に染み渡る。
 まるで綿菓子に包まれているような
 ふわふわとした浮遊感と充足感の中で、
 笑顔にならない者はいない。

 外では秋風が荒び、がたがたと窓を揺らした。

 たった窓一枚を隔てた外の世界は、
 こことはまるで違う国みたいなんだろうな。
 そう思うと、なんだか可笑しくて、
 ついくすっと笑ってしまった。


 「なーに笑ってるの」

 「いや。……なんでもないのだー」

 「あ、パクられた!」

 「仕返しだよ、仕返し」



 私の冗談に、三人ともがくすっと笑う。
 ああ、なんて平和な日常なんだろう。

 小賢しい悪戯も、それを暴くことも。
 別段、大したことじゃないのに面白い。

 どうやら私たちのすぐ隣には、
 そんな程度のコトでも面白いコトに
 勝手に変換してしまう“何か”があるようだ。
 そしてそれはきっと、私たちが高校生の間にしか
 手にすることのできない代物なのだろう。

 それは大人になったら忘れてしまう。
 ……甘い甘い、期間限定の魔法のようなモノ。

 だからこそ、ここに私は宣言しよう。
 このドーナツだけは、誰にも譲れないのだと。


 ‐ お し ま い ‐

最終更新:2012年12月21日 00:07