父の会社が潰れた。

今日から新学期、家族三人で暮らす鰻の寝床のように狭い、家賃二万円の借家の錆び付いたドアを開けて高校へ向かう。

うららかな陽気に桜の花が咲き乱れる通学路の堤防道路、突き抜けるように青い空。憂鬱な気持ちの時ほど、周りの景色って綺麗に見えるような気がする。

差し押さえを免れた愛用のキーボードが、どしりと肩に負荷をかける。学校へ向かう足取りは、どろどろしたヘドロがまとわりつくかのように重く、一歩一歩が辛く苦しい。

放課後のお菓子とお茶はもう出せないわ、そう伝えたらみんなはなんて反応するのだろう。

うわべでは心配したりするだろうけど、それは本心じゃないのかもしれない。

そもそも、よく考えれば軽音部に私の居場所はあっただろうか。唯ちゃんは梓ちゃんととても仲良しだし、律ちゃんと澪ちゃんは幼馴染で私なんか入り込む隙も無い。

私は軽音部の余りもの。

私はお菓子とお茶を出すだけのみんなの財布だったんだ。

お腹の中にビー玉くらいの鉛玉がぎゅうぎゅうに詰められたように苦しい。泣かないって決めたのに。ぽろぽろ涙がこぼれて止まらなかった。

涙は人に見せまいと、下を向いたまま歩いた。けれど校門の眼の前の交差点に差し掛かった時、堤防が決壊したかのように涙が溢れてきた。もう足が動かなかった。

道端で人目もはばからず、しゃがみこんで泣いた。涙でもう、なにも見えない。車道の騒音も、もう何も聞こえない。

私に価値なんてない。居場所も、何もかも。私なんて。

私なんて。

「むぎ、おはよう」

私をもとの世界に引き戻したのは、聞きなれた声だった。

「むぎちゃん。話は噂で聞いたよ。その、なんというか。大変だよね。でも、でも私にできることならなんでもやるよ。えと、あ。そうだ。じゃぁん。憂と一緒にクッキーを焼いてきました。まだ学校始まるまで時間があるからお茶にしようよ」

「むぎ、お節介かもしれないけど。ばあちゃんちからいっぱい駄菓子持って来たから一緒に食べようぜ」

「むぎ先輩、こっちこっち」

みんなに手を引かれて、桜が舞い散る校庭、クラス発表で盛り上がる生徒達、柔らかい日差しが差し込む階段を通り過ぎて、いつもの部室にたどり着いた。

不器用で、漫画や映画みたいなドラマチックな言葉はないけど、でもそこが温かくて。また涙がこぼれてしまった。

「むぎが部活に来れなかった春休みの間、プレゼントを作っていたんだ。みんな今日のためにおうちで猛特訓もしたんだぞ」

「それでは聞いてください、放課後ティータイムで”放課後ティータイム”です」

私はバカだった。

「信じていくよ みんなで重ね合ったハーモニー」

曲を作って練習するだなんて思い立って簡単にできるようなことではない。それなのに、こんなにも私の事を大切に思ってくれているのに、居場所がないだなんてひどいことを思ってしまった。

「ずっと放課後 いつまでもティータイム」

「響かせよう 世界で一つだけの 終わらない歌を」

演奏が終わると同時に、窓からさわやかな風が吹き込んだ。

瞳がうるんでみんなの顔がうまく見えない。

「私、実はね。すごく落ち込んで何も分からなくなっちゃった。私なんてダメだって自分を傷つけて、傷つけ続けて。もう何もかも信じられなくて。みんなの事も信じられなくなっていたの。」

「本当に、ありがとう。」

もっともっと、溢れる気持ちをみんなに伝えたいのに。でも言葉が出てこなくて。けれど、私のそんな気持ちはしっかり伝わっていたみたい。

「むぎちゃんはむぎちゃんだよ。お嬢様でもそうでなくても、むぎちゃんはむぎちゃんのままだから」

校舎に鳴り響くチャイムは、まるで私たちの再出発を祝福しているかのようだった。

持ち上げたキーボードはびっくりするほど軽かった。


「あれ、さっきのチャイムって予鈴だよな」

「うわっ、もうこんな時間。さ、さっきのは授業のチャイムだぞっ」

「そういえば、まだクラス分けすら見てないじゃないですか」

「あはは、新学期早々みんな遅刻だね」


私も、軽音部も、何も変わらない春。

大切なもの、もう二度となくさないよ。





最終更新:2020年02月08日 07:33