*
最近、わたしは海に憧れている。
そんなふうに思いはじめた原因は、この前の部室勉強会兼部活の時のムギちゃんの発言にあった。
その日もまた勉強を途中で打ち切ってお茶をしていて、
わたしはトンちゃんの水槽に当たる光がうねうね動くのが不思議で面白かったからそれを眺めていたのだけど、
りっちゃんの笑い声と澪ちゃんの悲鳴というか苦悩の叫びのようなものが聞こえてきたからそっちを向くと、
さわちゃんが澪ちゃんを捕まえて、耳元で何やら囁いている。
「どうしたの?」
「いやさ、さっきまで澪の海での恥ずかしい話してたんだけどさ、その流れでさわちゃんが澪を鍛えてやるってなってなー」
「えー。もったないちゃんと聞いてればよかったー」
「いや、聞かなくていいからっ……ひゃんっ」
「澪ちゃんわたしに任せなさいそうすればもうあんな醜態を晒すことはないわよー」
「いやだああいやだああ」
「醜態とか言っちゃいましたよこの人」
澪ちゃんとさわちゃんの取っ組み合いが終了したところで、ムギちゃんがぼそりと、
「海、行きたいねー」
と言って、わたしはその時また水槽で歪む光のうねうねを見ていたのだけど、
その揺らめく水面と光が海のイメージをより神秘的にしてしまったのもあるんだろうか、
その言葉が、というより海そのものがなんだかすごくわたしを惹きつけて、そうだ海に行きたい、行きたいって思った。
「そうだよ、海に行こうっ!」
「いきなりどうしたんだよー」
「海、行きたいよね、ムギちゃん」
「うん。そういえば今年は海言ってないなあと思ったから」
「今年はってもう冬だろ。海の季節じゃないよ」
「あ、それを澪さんが言いますかー」
「どういうことだ」
「ほら、2年生の冬に澪ちゃん一人で海行ったくせにー」
「よ、うみおんなっ!」
「うみおんなってなんだ」
「へえ。そんなことがあったの。でもなんでよりによってひとりで行ったのかしら?」
「さわちゃんなら日常茶飯事じゃないのー」
「あ?」
「いえ、なんでもないでーす」
「おほんっ……あれはいい歌詞が思い浮かぶかなあって思って」
「澪ちゃんはロマンチストねー」
「うっ……」
「だから、ね、海行こうよー海だよう海ビックオーシャンビュー」
「でも先輩たち受験生じゃないですか。そんな暇はないんじゃないですか」
「そんなこといえばあなたたちこうやってのんびりしてる暇だってないんだけどね」
「そんな生徒を野放しにする先生が悪いっ」
「そうだーそうだー」
「じゃあ、わたしがみっちり勉強教えてあげるわよ?」
「きゃー」
「ま、これでもあなたたちを信用してるのよ」
「でも、先生いっぱい信じても裏切られてるじゃないですかー」
「ですかー」
「あぁん?」
「きゃー」
「……まったく、もう。わたしは戻るからちゃんと勉強するのよ」
「はーい」
「あずにゃーん、数学教えてー」
「え」
「いや、梓に聞くのはおかしい」
「じゃあ後で、憂に聞こ」
「それもおかしいだろっ」
「でも先生がいなくなってから勉強し始めるってのも変だよな。きっとさわちゃんいなかったらわたし東大行けてたぜー」
「ふふっ」
「……り~っちゃん」
「わわっ! まだいたのかよ」
そんなわけで海に行く話はうやむやになってしまったのだけれど、
その後もわたしの海に対する憧れは消えないまま今も残っていて、
海へ行けたらいいんだけどなあなんてよく考えるようになった。
*
あずにゃんに秘密基地がバレてしまったのは、
それがわたしの誕生日のちょうど一週間前だったということもあって日にちまでよく覚えているのだけど、火曜日のことだった。
わたしたちはいつも5人そろって学校を後にするのだけれど、
まず澪ちゃんとりっちゃんが信号を7つ数えたところでいなくなり次にちょっと進んでムギちゃんとお別れし、
最後にわたしとあずにゃんの二人で道を行きながらコンビニのところの交差点でさよならし、
そこからはわたしひとりで帰っていくことになっていて、
秘密基地はそのひとりになってからの道と家の間に位置しているので、
そこへ向かうためにいつもと違うところでみんなとお別れするなんていう手間は必要はなく、だから秘密基地のことは誰にも見つからないままだった。
だいたいわたしは最初の発見の際みんなに報告の電話をいれようと考えたくらいでその基地を秘密にするつもりもあまりなかったので、
誰かが後ろをついてきているかどうかなんてあまり注意もしておらず、
それはあずにゃんがわたしに気付かれず悠々とついてくることが十分にできたことの説明になっている。
だからといって、そのあずにゃんがストーカー行為をしていたというわけでも、
わたしの秘密をあばいてやろうとしていたわけでももちろんなく、
ただわたしが持っていてもらった傘を返しそびれていて、それを届けてくれようとしてのことだった。
あずにゃんは地下駐車場で猫と戯れるわたしを見て、なんとなくきまり悪そうに「あの、これ」と言いながら傘を手渡してくれる。
「おおっ、ありがとっ」
「ここはなんですか?」
「よくわかんないけど、猫がいるからねこうして毎日遊びにくるんだ」
「へえ、唯先輩がいきなり暗いところに入っていくから何かと思いましたよ」
「えへへ。なんとなく秘密基地みたいな感じがして好きなんだ」
「じゃあわたしが見つけちゃったのは悪かったですね」
「猫はノーカンだよ」
「……わたしは猫じゃないですけど」
と言うと、あずにゃんはわたしを真似て猫に手を差し出すのだけど、
やはりそれはなんていうか一種の通過儀式みたいなものなんだろう、
黒ぶちの猫にしゃああっと威嚇されてわわっと後ろに飛び退いた。
「あははっ。たしかに猫扱いされてないねっ」
「む」
「まあまあ、ほら、あずにゃんもスルメあげてみなよ」
「ああ、はい」
「あずにゃんにあげたんじゃないよっ?」
「し、知ってますよ」
「でも、あずにゃんにもあげる」
「どうも」
あずにゃんが目の前のぶち猫にスルメを差し出すと、
そのスルメはいつもわたしがあげてるものだからきっと猫も安心できたんだろう、
あるいは何か食べられるならなんでもよかったのかもしれないけど、それをくわえて口を動かした。
あずにゃんはその光景に見入っていて、
わたしは高いところから見守るような微笑ましい気持ちでそれを眺めていたんだけれど、
するとあのボス猫もそんな穏やかな気持ちでわたしのことを見ていたのかもしれないなと思えてきてそちらに目をやると、
ボス猫はあずにゃんの存在すらもまるで昔からそこに落ちていたえっちな本とかそんなものだって思っているかのように、
まったく気にならないようすで爪と皮膚の間を丹念に舐め続けている。
あずにゃんは猫が差し出したスルメを食べるのが嬉しかったんだろう、
いつもなら聞けないような妙に優しい声で何やら話しかけていて、
それがあのずんぐりの猫に比べてやけに小物めいて思えてしまったんだけれども、
あずにゃんに関していえば小さいのはみんないいことで、
すぐ怒ったり心配したりさみしくなったりしてしまうその小ささもかわいいところであるのだから、それはむしろあずにゃんらしくてわたしは安心してしまう。
「ねえねえ、あずにゃん」
「なんですか?」
「海に行きたいね、海」
「どうしたんですかいきなり」
「最近、ずっと海のことばっか考えてるんだよ」
「海ですか」
「海はいいよー広くて、青くて、でっかくて」
「そりゃいいんでしょうけど」
「でしょー。あずにゃんも海行きたいよね海」
「でも寒いですよ」
「寒いの苦手?」
「多少は」
「やっぱり猫だ」
「猫じゃないですよ」
「にゃーって言ってみてよ」
「ににゃー」
と、そこまで話したところでわたしたちはどちらとともなく立ち上がり、
地下駐車場を後に歩き出していて、きらきら光る川が見えるブロック敷の河川敷のとこまで来て、
「川もいいけど川じゃダメなんだよねー。なんでかな」
「きっとそれは唯先輩が恋してるからですよ」
「恋っ?」
っていうふうにわたしは驚いてしまうのだけれど、あずにゃんとわたしの話がまともな恋愛話に進むわけもなく
「フラットに恋してるんですよきっと」
とあずにゃんが言った。
「フラット?」
わたしが尋ねると、
「川と違って海ってずっと平らじゃないですか。
ほら、タワーから見える街とかもそうですけど。
普段、生きてるといろんなことがあって遠近感が壊れちゃうんですよ。
だから、海とかそういうフラットなものを見て、みんな遠近感をリセットしたいって思うんだと思います」
ってあずにゃんは言って、言ってしまってから後ろめたそうにそっぽを向いて、
わたしはあずにゃんの言ったことについてちょっと考えてみたけどよくわからなくて、
でもフラットっていうのはなんか響きがいいなって思って、そうだ海はフラットだ、と口に出してみた。
「わたしの遠近もさ、壊れてるかな」
「それは知らないですけど」
「ふうん。あずにゃんも遠近がわかんなくなっちゃうことある?」
「たまには」
「あ、だからここにひとりで座ってたの?」
「そうかもしれないですね」
「よくそうなる?」
「あんまり」
「なんでそうなったの?」
「なんでですかね、よく、わかんないです」
「あ、ホントはあずにゃん2年生ひとりだから寂しいとか」
「そういうんじゃないですよ」
「じゃあ?」
「なんていうか別に理由とかないんですけど、ただ……」
「ただ?」
「なんとなく、いろんなことが起こるなあって」
「起こる」
「そうです」
「怒る?」
「もしそのまま抱きついてきたら」
「えいっ」
「む」
「あずにゃん怒った?」
「ちょっと」
「ちょっとなの?」
「じゃあ、すごく」
「あ、カラス」
「ですね」
「カラスが鳴いたらー?」
「カエリマショウ」
「だめだよ歌わなきゃ」
「いやです」
「あずにゃんはわがままだねえ。なでなで」
「やめてくださいよ」
「あ、怒ったー」
「別に、怒ってなんか……」
「そういえば、空もフラットだねフラット」
「フラットって言いたいだけでしょ」
「せーかい。あ、でもわたしフレットの方が好きかも」
「そんなこといえばわたしだってクレープの方がいいですけど……」
「そ、それはずるいよっ。ルール違反だ」
「はあ」
「クレープ食べたくなっちゃった」
「空から降ってくるといいですね」
「こないよ、あずにゃん」
「知ってます」
「あーあ、憂にクレープ作ってて言ったら作ってくれるかなあ?」
「たぶん、憂なら作れますよ」
「帰ろっか」
「もう暗いですしね」
「かわりにたい焼き買ってく?」
「いいですね」
「あったかいし」
「甘いですしね」
「茶色いしね」
「かりかりしてますし」
「安いし」
「そうですか? あそこのたい焼きけっこう高いですよ」
「でも、おいしいよね」
「そうですね、おいしいですしね」
「あーあ、お腹すいてきちゃったよー」
「たしかに」
「陸上選手みたいにはやく走れたらいいのにね」
「え。走るのは疲れるからやです」
「ほら、はやく行こっ、ね」
「えー……はいはい」
*
誕生日の前日、朝夢の中でわたしはすごい面白そうなプレステ2のゲームを立ち上げるんだけど、
面白いゲームを思いつけなくて結局パチって画面が光ったところで夢を終わりにした。
それに連想してあずにゃんと誕生日プレゼントのこと思い出して、
思い出したということは今まで忘れてたわけでつい先日までの熱狂ぶりは何だったんだろうと思いはしたのだけれども、
それを欲しかったものもすぐにどうでもよくなるなんていう哲学と結びつけることまではしなかったから、いい気分で朝を迎えることができた。
それとはあまり関係ないんだけどその日、わたしはあずにゃんに、もちろん澪ちゃんりっちゃんムギちゃんにも、誕生日を祝ってもらうことになった。
りっちゃんが言うには、
わたしの誕生日当日はきっと家族でいろいろあるだろうし誕生日プレゼントを用意するのも大変だから前日である今日に、
一日わたしたちのおごりで唯の好きなところに行って遊ぼうということで、
これはまあ受験勉強の息抜き的な意味もあるのかどうかは知らないけど、
みんなで遊べばやっぱりみんな楽しいのでりっちゃんらしい素晴らしい考えだと思いわたしはそれを称賛した。
それでどこに行くかと聞かれると特に思いつくことができず、逆にわたしがみんなにどっか行きたいとこあるかと聞くと、りっちゃんが
「じゃあ見たい映画があるんだ」
と主張するから澪ちゃんが
「お前の誕生日じゃないんだぞっ」
とげんこつをくらわせる。
こうなってくるともういつものペースで、
じゃあまあてきとうに行けば行きたいところが出てくるだろうとか街を歩いてるだけも楽しいよねえとかそのほうが安上がりだしなとかじゃあ律は置いていこうとか、
とにかく今日の勉強会は中止になったということだけははっきり言えることだった。
街にはいろんな人がいて、それはまあ当たり前のことなんだけどわたしは毎回その多様さにびっくりさせられるのだけど、
実際こんなたくさんの人がいてみんな違う服を着ているのはすごい。
わたしなんか服を買うのは好きだけど、着るのは苦手で、
もちろん裸族という意味ではなく単に服を選ぶのが面倒くさくていつも同じ服を着てしまうという意味なんだけど、
とりあえず今日は制服だからその心配はない。
街を歩いているうちに澪ちゃんが雑貨屋を見つけて、澪ちゃんとムギちゃんは雑貨屋みたいな場所がとても好きで、
それで何かわたしへのプレゼントも買えるかもしれないということもあって、そこに立ち寄った。
入ってそうそうりっちゃんとムギちゃんはネタ商品のあるコーナーに向かって行ってわいわい騒ぎはじめて、
あずにゃんはふらふらとおしゃれそうな雑貨を眺めつつ歩いていて、わたしと澪ちゃんは海外の風景の写真が飾られた額縁がたくさん並んでる棚の前にいた。
わたしが真っ白な町並みを指さして
「これってどこかな」
と尋ねると
「ギリシャじゃないか」
と、すぐに答えられる澪ちゃんの博識ぶりに驚いてしまい実際に口にも出してみたんだけど、
「そのくらいは一般常識だよ」
という謙遜とも事実とも取りかねない答えがかえってきた。
そこから少し行くと小さなトイカメラが並んでいて、
そういえば昔澪ちゃんはよく写真を撮っていたけど最近はまるっきり見なくなったなとふと思ったので、
それを聞いてみるとそれはもうやめたんだという返事がかえってきて、
「なんで?」
ってさらに問聞くと、
「わたし昔から写真とか見るのも撮るのも好きで、
中学生の頃はママのおさがりのカメラでいろいろ撮ってたんだけどね、
高校受かったときにママが好きなもの買ってくれるっていうから自分のデジカメ買ってもらったんだ……」
と話はじめたのだけど、わたしはその話の内容より別の些細な部分が気になってしまい、それは悪いことだとはわかっててても話の腰をおらざるを得なかった。
「あ、ママって2回言った」
「お母さん、お母さんっ……」
というふうに澪ちゃんはあわてて2回分修正し、話を続ける。
「まあそれで、最初は文芸部入ろうとしたくらいで別に軽音部入るとか思ってなかったしあんまり撮るもののなかったんだけど、
軽音部に慣れてきて、思い出をさ、思い出をみんな写真でとっておければいいなって思うようになったんだ。
だけど、思い出ってあんまりうまくないっていうか、なんていうのかな、欠陥?……そんなんだらけで」
と、そこで澪ちゃんはトイカメラを手にして一度ぐるりと手のひらの上で回してからまた、
「ほら、写真見れば楽しかったこととか緊張したこととか思い出せるんだけど、それって特別なことじゃない?」
と言って、わたしは「ふむふむ」と、同意と言うよりは催促のために首を振った。
「ほら写真とか思い出って全部とっておけるわけじゃなくて枠があって、
外からこんなことがありましたって切り取って、切り取ったものってなんか特別になっちゃうだろ。
でも、そうじゃなくてさ続いてるわけだから、そういうの外から撮ってるだけじゃわからないし。切り取れないし」
澪ちゃんの話は難しくてよくわからないところもあったんだけど、でもなんだかおもしろくもあったからわたしはただ黙って話の続きを待っていた。
「特別なことがなくても、ほら歌詞がない瞬間も音楽は続いてて、
むしろその時間の方が多いくらいで……なんていうか……そういう何もない間の地続きの空気感みたいなものがそっくりそのままあって
……いろんなことが起こるんだけどそれは大事じゃなくて、写真それと同じで、
でもそういうのじゃないんだよ、わかるかな?」
「な、なんとなくはわかるよっ」
「だから、まあ、その中に外じゃなくて、中に。わたしもいたいって思ったんだ……って、うわあっ!」
澪ちゃんが驚いてたのは、インディアンのお面をつけた女の子がいきなり目の前に現れたからで、それはムギちゃんだったんだけど、ムギちゃんは両手を突き出して
「ばあっ!」
ってお化けの真似をして、インディアンなのにお化けというのは少し変にも思えるけど、どうやら後ろでげらげら笑ってるりっちゃんが発案者らしい。
とうの澪ちゃんは十分驚いてムギちゃんに文句を言おうとしているんだけど、
ムギちゃんがすごく楽しそうにしているから呆れ顔で「こんなのどこにあったんだ」って笑った。
そんなふうにしているうちにあずにゃんが戻ってきて、
「これよくないですか」と言いながらわたしに見せたのは、
大きな貝殻が傘代わりになっている室内灯で、「あ、かわいいっ」ってわたしはつい口にして、だから帰る時にみんながそれを買ってプレゼントしてくれた。
まだ解散するまでには時間があって、
どうしようかという話になりちょうど通りにカラオケボックスがあったので、それじゃあカラオケでも行こうってことになって、
「誕生日なのにカラオケでいいのか」
なんて澪ちゃんは言うんだけど、
でもやっぱりそれはポーズというか別にわたしたちってそんなに自分の言ったことに根拠とか信念とかないから、
いつの間にかお互い懐柔しあって、結局いつもそれがなんであれしたことがしたかったことになってしまうのだ。
というわけでカラオケに行く事になった。
「じゃあ、最初は澪からどうぞ~」
「なんでだよっ」
「だってボーカルだろ?」
「それなら唯だって……」
「えーわたし澪ちゃんの歌聴きたいー」
「む、ムギはどう」
「しゃららら。タンバリンは任せて澪ちゃんっ」
「梓っ」
「わ、わたしは……ほら、先輩だから先輩からどうぞ」
「ほらーはやくー曲いれろー」
「わ、わかったよ。みんなも歌うんだよな」
「当たり前だよー」
「じ、じゃあ……」
「よし、ドリンクバー持ってこよーぜっ」
「おいっ!」
「いっつ」
「律も一緒歌おう」
「え−」
そんなふうにして、はやりのポップソングとかそれぞれの好きな歌なんかを歌って、ちょうど歌い終わったわたしはマイクをあずにゃんに渡した。
「あ、わたしはいいですよドリンクバー行ってくるところなんで」
「なんだよー。梓まだ一曲も歌ってないぞー」
「だって……」
「梓ちゃん歌うの苦手なの?」
「まあ……それに聞いてる方が楽しいですし」
「いいからいいから。じゃあわたしとなんか歌おーぜ。梓どんな曲が好きなんだっけ?」
「えと……あ」
「あずにゃんはきっとさだまさしとか好きだよ」
「いや知りませんって」
「どうするんだこれ」
「まあ、いいじゃん。てきとーに歌えば、ほら梓立て」
「知りませんよわたし」
「わたしも知らないから大丈夫」
「それなら、まあ」
「え、いいな、わたしもあずにゃんと歌いたいっ!」
「じゃあ、次な」
「はーい、わたしも梓ちゃんと歌いたいでーす」
「ちょっと勝手に決めないでくださいよ」
「わ、わたしも歌いたいっ!」
「澪先輩まで……」
そんなわけで最終的にあずにゃんはがらがら声になるまで歌を歌い、
がらがら声になったのは他のみんなも一緒だったけど、
楽しかったなまたいこうねそうだねえーわたしは遠慮しておきます一番楽しんでたくせにーってがらがら声で笑った。
*
誕生日の当日、わたしは家を出ていた。
というのも家ではパーティーの準備をするそうで、でももう知っているから意味ないと思うんだけど、お母さんは
「でも、なんかちょっとそっちのほうが面白そうだから」って笑っているのだからしょうがない。
部活が終わった後和ちゃんの家で勉強を教えてもらっていて、
そこを出たのが6時で、パーティーは8時からの予定だったから猫たちのようすでも見に行こうと考え、
地下駐車場に向かうと、あずにゃんがいた。
あずにゃんは茶トラ猫に自前のスルメを与えていて、
わたしを見ると驚いた表情を浮かべて、「あ、こんちは」って言った。
話を聞くとあずにゃんもこの場所が気に入ったらしくあれからときどきやってくることがあるそうで、
今日は唯先輩が来ないと思ったから来たんですと説明した。
そこであずにゃんがわたしの誕生日について何か言及するかなって思っていたら、
「あ、そういえば唯先輩」まで言って、
その後おめでとうございますとでも言いたかったんだろうかなぜかごにょごにょと濁してしまったのだけど、
そういうあずにゃんのわざとらしい意固地な反発心や強がりのようなものが逆にわたしとあずにゃんの間にあるあのプディング的な空気を感じさせるからわたしはなんだか嬉しくなった。
「わたしはそろそろ帰るんですけど唯先輩はどうします」って聞くから、
もう帰ってもいいかなという気分になり、「じゃあ一緒に帰ろう」と答えた。
クラゲ型の幽霊に似た雲が空の月を隠そうと必死に動いていて、
秋は夜になるのが早いなと考えていたら、
あずにゃんも同じ事を思っていたのか、「暗くなるのがはやいですよね」と言った。
あずにゃんと同じ事を思っていたというのがなぜか無性に嬉しくて勝手に手を握って、
誰にというわけでもなくただそのへんの空気なんか向けて「ありがと」って言った。
「なにがですか?」
「ううん。そう言いたい気分なんだよ、気分」
「はあ、どうもです」
「あずにゃんはかわいいねー」
「なでなでしないでくださいよ」
「あずにゃんってさ」
「なんですか」
「なんであずにゃんなのかな」
「知らないですよ」
「もしあずにゃんがもしくらげだったとしてもそれはあずにゃんだから、あずにゃんだよね」
「そうですね」
「じゃあ、あずにゃんはくらげだね」
「そうかもしれないですね」
「えっちだね」
「なんですか」
「だって、ほら、透明だし」
「想像力ありすぎですよ」
「あずにゃんがくらげでもあずにゃんは困らないけど、きっとわたしは困るよ」
「そうですか?」
「抱きついたらぬるぬるするし起こらせるたび針刺されちゃうし痛い痛い」
「案外唯先輩だったらうまくやるかもしれませんよ」
「そうかな」
「はい」
「でも、あずにゃんがあずにゃんでよかったよ」
「それはどうも」
「でも、そう考えてると人ってさ……」
「ぷっ」
「なんで笑ったのさ」
「いや、唯先輩が人について語るなんてなんだかおかしくて」
「ひどい」
「唯先輩はひどいことされるとお返しに抱きつくからだめなんですよ」
「だめじゃないよ」
「それで」
「人って、ね、その人はどうでもよくてさ、きっと周りが、周りがどうなってるのかっていうのがその人なんだろうね」
「はい?」
「だからね、あずにゃんがくらげでもあずにゃんはあずにゃんで、でもわたしはわたしじゃなくなっちゃうんだよ」
「はぁ」
「帰ろっかそろそろパーティーの時間になっちゃうし」
「あ、唯先輩誕生日でしたっけ」
「そうだよ」
「へえ」
「うん」
「あ、街の灯りが綺麗ですよ」
「おー」
「ふと思うんですけど、イルミネーションっていっぱいあるのもすごく綺麗ですけど、ちょっとのも綺麗ですよね。なんかがんばってる気がして」
「あずにゃんは光だったら何色が好き?」
「そうですね……オレンジ、家のオレンジが一番いいかもしれないですね。なんだかあったかそうです」
「あずにゃん今寒い?」
「ちょっと」
「手、握っていい?」
「唯先輩っておかしい人ですよね。もうずっと握ってるじゃないですか」
「あれれ、忘れてた」
「ばかですか」
「あ、猫が歩いてる」
「どこに行くんでしょう?」
「あの猫たちと仲良くなった?」
「どうでしょう、たぶんまだまだです」
「そっかあ」
「名前とかつけてないんですか? いろんなものにつけてるのに」
「つけてないんだ。きっと猫ちゃんには猫ちゃんの名前があるから平気だよっ」
「そですか」
「ね、今日は雪降るって言ってたのに降んないね」
「そうですねー」
「もし降ってたら、どうなったかな?」
「もう少し寒いでしょうね」
「じゃあ、よかったね」
「ですね、寒いとつらいですもんね」
「だよねー。冬はきついよ」
「夏は暑い暑い言ってるくせに」
「やっぱ秋だね」
「秋はいいですよねえ」
「まず」
「食べ物、ですか?」
「む、そんなことないよっ」
「へえ。じゃあ秋といえば?」
「ざ、こーよー」
「ああ、もうこの辺のは落ちちゃいましたね」
「だねー」
「はい」
「……ねえ」
「はい」
「……あのさ」
「ん」
「……空ってきっと、あれだよね、すごいよ」
「喋りたいことないなら意味ないこと喋んなくてもいいんですよ」
「そしたらなんにも言えなくなっちゃうよー」
「ただでさえ唯先輩はうるさいんですから」
「でも喋ってると安心するよねー」
「あ、ケンタッキーフライドチキン食べたいです」
「わたしはWiiの新しいのが欲しいっ」
「あれ、もうでたんでしたっけ?」
「さあ。あ、ここ曲がると近道なんだよ」
「へええ。自販機ありますね」
「喉乾いた?」
「別にそういうわけじゃないですけど、自販機あるとつい見ちゃうんですよね。自分の好きなジュースとか売ってたら嬉しいですし」
「ああ、あるよねー、あんまりおいてないのとか、安かったりすると」
「まあ、買わないんですけど」
「あずにゃん家まで送ってこうか?」
「いいですよ。唯先輩はパーティーに遅れちゃまずいですよ」
「そっかあ」
「唯先輩の家って三階建てですよね」
「うん、そだよー。一階は狭いけど」
「どんな感じですか?」
「というと?」
「いや、三階建ての家に住むのってどんな感じかなあって気になって」
「んとー、わかんないよー。二階建てや一階建てに住んだことないし……」
「そうですよね」
「でも高いよっ」
「ああ、それはいいかもです」
「高いから落ちると痛い」
「落ちたら痛いどころじゃないじゃないですか」
「えへへ」
「まったく……」
「あ、そういえばあずにゃんに聞きたいことあったんだけど」
「なんですか」
「あずにゃんってその靴どこで買ったの?」
「あれですよ、なんとかって店です」
「えー、それ桜が丘にあるの?」
「はい、案外このへんですよ」
「どこどこ?」
「あ、ここでお別れですね。その話はまた今度ってことで」
「あ、うん。そうだ、今度、海に行こうね」
ってわたしは言った。
それは別になんの比喩でも、あずにゃんとデートしたいなんて下心もなく、
単に海に行きたいって思ったから、だから別にあずにゃんとじゃなくてもよくて、
それはまああずにゃんの方がいいに決まってるけど、ただ海を見たい、海に行きたい、行きたいねって思ったのだ。
あずにゃんは下を向いて少し考えるようなふりをしたあと、言うことは最初から決まってたよ絶対、「2回行けますね、みんなで、ふたりで」って笑った。
じゃあねと手を振った時にはすでにあずにゃんは後ろを向いて背中を丸めながら歩き出していて、突然口笛を吹いた。
耳を澄ますと、玄関の向こう側の家族の楽しそうな話し声が聞こえてきて外は寒いなって思いながら玄関に手をかけて、
あずにゃんの下手くそな口笛が遠ざかっていくのを最後まで聞いてから、
ドアを引いて、
「ただいま、ただいま」って言った。
おわりです
最終更新:2012年12月21日 00:21