『ぼくらはそれぞれに違う時間を持っていて、その流れは誰にも止められないんだよ』


いつかドラマか映画で聞いた言葉。
もううろ覚えだけれど、原典が何なのかも分からないけれど、
私の胸にはその言葉が強く残っていて、頭の中にも強く強く刻まれています。

絶える事無く流れ続けるぼくら――、私達の時間。
その時間はどうやっても巻き戻せないし、流れを止める事も出来ません。
同じ時間を生きているみたいでも、そういう風に思えていても、
私と私じゃない誰かの見ている物はきっと違って、
聞こえている物もきっと違って、考えている事もきっと違って、
それは私の大好きなお姉ちゃんとでもきっと同じ事で……。

だから、私は子供の頃から大人になるのが怖くて仕方がありませんでした。
だって、私はお姉ちゃんと一緒に居たかったから。
大人になっても、お婆ちゃんになっても、ずっとずっと一緒に居たかったから。
だからこそ、ずっと怖かったんです。
お姉ちゃんが私より一足先に幼稚園を卒園した時も、
小学校を私より先に卒業しちゃった時も、ずっと怖かった……。
いつかお姉ちゃんと離れ離れになっちゃう事を実感させられるみたいだったから。
君達の関係は時間制限付きなんだよ、って誰かにそう言われてるみたいだったから……。

私はそうして膨らむ不安に押し潰されそうでした。
一人で枕を涙で濡らした事も何度もあったと思います。
いつかは遠くに行っちゃうお姉ちゃんの事を考えると、胸が締め付けられて痛みました。
涙が……、止められませんでした。
それこそ、小学校を卒業するまで、私は隠れて泣いてばかりいた気がします。
大好きなお姉ちゃんと離れたくなくて、お姉ちゃんの事ばかり考えて。

そのお姉ちゃんが今年の春、高校を卒業します。
大学受験の準備をして、新しい生活を送るための準備をしている最中です。
まだ完全に決まっているわけではありませんが、
お姉ちゃんは私達の家から出て、大学の寮で生活する事になる予定です。
遂にお姉ちゃんと私は、別々の家で別々の生活を送る事になってしまいます。
今まで以上に別々の時間を過ごす事になってしまうんです。

不安が無いと言ったら、勿論嘘になります。
お姉ちゃんと離れて、自分がどんな生活をする事になるかなんて、想像も出来ません。
未来の事を考えられる自信もありませんし、未来の事が分かるはずもありません。
それぞれの時間を生きていくようになるもうすぐ未来、私とお姉ちゃんはどうなっちゃうのかな……。

だけど、そう考えて不安を感じながらも、
私の胸と心が不思議と落ち着いているのも確かでした。
勿論、怖さと不安は消えていません。
この先、それが消える事なんて絶対無いと思います。
でも、その不安こそ私達の想いの――




「それじゃあ、お願いね、憂ー」


足袋を履き終わったお姉ちゃんが、いつもの幸せそうな笑顔を浮かべました。
ずっと見ていたくなるくらい大好きなお姉ちゃんの優しい笑顔。
私は自分の胸が温かくなるのを感じながら、笑顔で頷きます。


「うん、分かったよ、お姉ちゃん。
ちょっとくすぐったいかもしれないけど、この前みたいに動いちゃ駄目だよ?」


「分かってるってばー。
大丈夫、お姉ちゃんに任せなさい!」


ちょっと鼻息を荒くして、お姉ちゃんが自分の胸を軽く叩きます。
そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、
お姉ちゃんの事だし、やっぱりちょっと動いちゃうんじゃないかな?
その時のお姉ちゃんの様子を想像してしまって、私は苦笑してしまいました。

でも、仕方無いよね。
初めての服に袖を通すと、身体がくすぐったくなっちゃうのは私にも分かるもん。
特に晴れ着なんて着慣れない服だと一層だよね。
うん!
お姉ちゃんがくすぐったくならないように、私が頑張らなきゃ!


「はい、お姉ちゃん、まずは万歳してね」


「ほーい」


一人で静かに決心した私は、まずはお姉ちゃんに長襦袢に腕を通してもらいました。
さっきタンスの中から出したばかりの新しい晴れ着の長襦袢です。
お姉ちゃんがもうすぐ高校も卒業するからという事で、お父さんとお母さんが買って来てくれた物です。
これからは着る機会もどんどん増えるだろうから、って二人とも嬉しそうに笑っていました。
お父さんもお母さんもお姉ちゃんの成長を喜んでるんだよね。
……うん、勿論、私だって。

長襦袢をお姉ちゃんの身体に馴染ませながら、私も気付いてました。
お姉ちゃんの成長に。
実は晴れ着の着付けが出来るのは我が家では私だけです。
買って来てくれるのはいいんですけど、お父さんもお母さんも晴れ着の着付けは出来ません。
中学生の頃、お隣りのお婆ちゃんに教えてもらって以来、
お姉ちゃんの晴れ着を着付けるのは私の役割になっていました。
だから、久し振りにお姉ちゃんに長襦袢を着付けていて、気付いたんです。
お姉ちゃんの身体が前よりもずっと成長しているんだって。
身長と体重はあんまり変わってないみたいなんだけど、
胸や全身の曲線が凄く女の人っぽくなってるんだよね……。
去年よりずっと柔らかくなったお姉ちゃんの身体にびっくりしちゃう……。


「どうしたの、憂ー?」


何も言わない私の様子を不思議に思ったのか、お姉ちゃんが首を傾げました。
身体はずっと成長していても、私の様子の変化に敏感な所は子供の頃から変わりません。
そんなお姉ちゃんの姿を嬉しく思いながら、私は微笑みながら首を振りました。


「ううん、何でもないよ、お姉ちゃん。
久し振りだから、晴れ着の着付け方をちょっと思い出してただけなんだ」


「そうなの? 毎度毎度、世話掛けてごめんね、憂ー。
でも、本当に何かあったらすぐに言ってよね。
どれくらい役に立てるかは分かんないけど、その時はしっかり憂の力になっちゃうよー!」


「うん、ありがとう、お姉ちゃん。
その時はお姉ちゃんにお任せするね」


「うむ、任されたー!」


「あ、動かないで、お姉ちゃん。着付けが崩れちゃう」


「おっとっと……、ごめんごめん」


お姉ちゃんが舌をちょっと出して苦笑して、私もお姉ちゃんに笑顔を向けました。
顔を合わせて笑い合う私達……。
それは、子供の頃からまだ変わってない私達の姿。
それは、いつかは変わってしまうかもしれない私達の姿。
それぞれの時間を生きる私達の、今だけの、今だからこそ出来る姿でした。


「今日はありがとね、憂」


不意に苦笑を微笑みに変えて、お姉ちゃんが優しい言葉を私に届けてくれました。
私の事を心から想ってくれてる時のお姉ちゃんの声色。
その声色を聞けるのは嬉しかったけれど、
急にお姉ちゃんがその声色になった理由が私には分かりませんでした。
笑顔を浮かべたまま、私はお姉ちゃんに訊ねてみます。


「どうしたの、突然?」


「今日、私に付き合ってくれて、だよ、憂」


「付き合う、って?」


「憂にも予定があったんじゃないかな、って思ったんだ。
お正月から私と二人きりで初詣でも本当によかった?
純ちゃんやあずにゃん……、
色んなお友達と初詣に行きたかったんじゃないかな、って。
でも、憂は今日、私に付き合ってくれるでしょ?
だからね、今日はありがとう、憂」


そう言ったお姉ちゃんの笑顔は本当に嬉しそうでした。
私と二人のお正月を過ごせる事を、心の底から嬉しく思ってくれてるんだと思います。
嬉しいのは私も同じでした。
お姉ちゃんと二人でお正月を過ごせるなんて、思ってなかったから。
二人で初詣に行く機会なんてもう無いんじゃないかな、って思ってましたから。
だから、私は今日、お姉ちゃんと二人で初詣に行けるのが凄く嬉しいです。
胸がいっぱいになっちゃうくらいに……。

でも、それを言うなら、お姉ちゃんの方もでした。
お姉ちゃんだって、軽音部の皆さんと初詣に行きたくないわけではないはずです。
現に去年、一昨年とお姉ちゃんは軽音部の皆さんと初詣に行ってましたし、
昨日の大晦日にも皆さんが勉強会に集まられていたので、てっきりそのまま初詣に行くんだと思ってました。
だからこそ、私は今日の朝にびっくりしたんです。
『今日は二人で一緒に初詣に行こうよ!』ってお姉ちゃんに誘われて……。
私がそれを訊ねてみると、お姉ちゃんは少し照れたみたいに答えてくれました。


「今年はね、憂と二人で初詣に行きたかったんだ。
今、憂も言ってたけど、去年と一昨年は二人で初詣に行かなかったでしょ?
ううん、今までの人生で、二人っきりで初詣に行った事なんて無いよね?
家族皆で行った事はあるけど、憂と二人で、って初詣は一度も無かったよね?
だからね、今年は憂と二人っきりで初詣に行きたかったんだ!」


「お、お姉ちゃん……!」


お姉ちゃんの言葉がすっごく嬉しくなって、私は声を詰まらせてしまいます。
お姉ちゃん、そんなに私の事を考えてくれてたんだ……!
すっごく嬉しいよう……!
そうして感極まった私の涙腺が緩んで涙がこぼれそうになった頃。
お姉ちゃんが表情を崩して、頭を軽く掻いて言いました。


「あははっ。実はこれ、りっちゃんの影響なんだけどねー」


「律……さんの……?」


「うん、そうなんだ。
りっちゃんに聡くんって弟が居るの、憂も知ってるよね?
りっちゃん、部室でね、この前、言ってたんだ。
「もう最後かもしれないし、来年くらいは聡と二人で初詣に行ってやりたいんだ」って。
それを聞いて、私も今回の初詣は憂と二人っきりで行きたいな、って思ったんだよね。
さっき偉そうな事言っちゃったけど、受け売りでごめんね、憂」


もう……、お姉ちゃんったら、それを言わなかったらカッコよかったのに……。
こぼれそうだった涙も何処かに行っちゃったよ、お姉ちゃん……。
でも……。
うん、それが私のお姉ちゃんなんだよね。
小さな頃からずっと大好きなお姉ちゃんの姿なんだもん。
カッコいいお姉ちゃんの姿もいいけど、私はこっちのお姉ちゃんの姿の方がずっと好きだよ……。

それにしても、律さんも弟さんの事を考えてたんだ……。
聡くんって子がどんな子なのか、私は知りません。
お姉さんとしての姿の律さんを見た事も今まで一度もありません。
お姉さんらしさを見せる律さんを見た事もありません。
それでも、やっぱり律さんはお姉さんで……、
弟さんの聡くんの事をちゃんと考えてる人だったんですよね。
だから今朝、軽音部の皆さんが帰られる時、
澪さんも紬さんも梓ちゃんも律さんを嬉しそうに見てたんだ……。
素敵なお姉さんの律さんが部長だから……。


「うちのりっちゃん部長、カッコいいでしょ?」


私の考えている事が分かったのか、お姉ちゃんが笑顔で私に訊ねます。
お姉ちゃんのその笑顔はとっても嬉しそうでした。
うん、カッコよくて素敵だよ、お姉ちゃん。
とっても素敵。
律さんも、律さんのお姉さんとしての姿を嬉しく思える軽音部の皆さんも。
嬉しそうに律さんを自慢してくれるお姉ちゃんも……。
とってもとっても……、素敵だよ……!
そんなお姉ちゃんだから、お姉ちゃん達だから、
私は怖さや不安よりも嬉しさを感じられるんだもん……!


「うん!
素敵な皆さんに囲まれて羨ましいよ、お姉ちゃん!」


私がその手を握ると、またお姉ちゃんは素敵な笑顔を見せてくれました。




少し集中してお姉ちゃんのおしゃれ着を着付けていきます。
着慣れない晴れ着なのに、お姉ちゃんは意外とくすぐったがりませんでした。
この前みたいに変に動いて着崩れる事も全然無くて、何だか拍子抜けしてしまいます。
でも、それは私の着付けが上手と言うよりも、
お姉ちゃんが着付けのくすぐったさに慣れているように見えました。
何処かで着物を何度も着付けられる機会でもあったのでしょうか?

……あ、さわ子先生の影響なのかも。
お姉ちゃんが高二の頃の学園祭のライブ前、
衣装として着る着物のドレスを見せてくれた事がありました。
さわ子先生が繕ったという可愛い着物のドレス。
そういう衣装を何度も着ている内に、着付けに慣れたのかもしれません。
それはいい事……だよね?

さわ子先生のおかげ(?)でくすぐったくない着付けをしなくてよくなったせいか、
私はお姉ちゃんにおしゃれ着を着付けながら、いつの間にか色んな事を考えてしまっていました。
考えるのはやっぱり私達の昔の事。
私が今よりずっと小さかった頃の事でした。

小さかった頃、私は大人になるのが凄く怖かった気がします。
小学生の頃、不意にクラスメイトの男の子に言われた言葉が耳から離れなくなったからです。
その日以来、私は自分達が大人になる事をずっと怯えていました。


『兄弟は大人になったら別々の家で過ごすんだよ』


何も意地悪のつもりでは無かったのだと思います。
その頃の私は何を話すにもお姉ちゃんの事ばかりでしたから、
そんな私の様子がその子にとっては少し面倒だったのかもしれません。
その子にとっては何の悪気も無い言葉。
でも、その言葉は私の耳から離れず、胸に不安ばかり湧き上がらせました。
その子に言われるまで、私は自分がお姉ちゃんと離れ離れになるなんて考えた事もありませんでした。
ずっとずっと一緒に居られるんだって根拠も無く信じていました。

もう少し歳を重ねて中学生に上がる頃、
私はその子の言った事が世間一般的に正しかったのだと思い知らされました。
中学生くらいになると自分の兄弟と仲の良い友達がどんどん少なくなって、
少し歳の離れた兄弟が居る子達は、あんなに話してくれていたお兄さんやお姉さんの話もしてくれなくなりました。
年齢を重ねると、大切に思っていたはずの兄弟の事を何とも思わなくなるのかな……。
私もいつかはお姉ちゃんの事を好きじゃなくなっちゃうのかな……。
いつか訪れてしまうかもしれないそんな未来が嫌で、
そう考えてしまう自分が嫌で、ひどく悩んでしまった事もありました。

でも、私は今も……。


「はい、着付け終わったよー、お姉ちゃん」


おしゃれ着の帯を締め終わると、私はお姉ちゃんにそう宣言しました。
私の着付けを完全に信じ切ってくれてるんでしょう。
姿見に視線を向けて晴れ着の着こなしを確認する事もせずに、
お姉ちゃんは私の手を取って幸せそうな笑顔を浮かべて言ってくれました。


「ありがとー、憂ー!
やっぱり憂の着付けの腕前は抜群だね!
グンバツだよ、グンバツ!」


「えへへ、どういたしまして」


お姉ちゃんに笑顔を向けながら、私はまた思います。
ああ……、やっぱり私はまだお姉ちゃんの事が大好きなんだ……、って。
そうなんですよね。
私はお姉ちゃんの事が大好きなんです。
大人の年齢が近付いて来た今になっても、小さな頃と変わらず……、
ううん、きっと小さな頃以上に、私はお姉ちゃんの事が大好きなんだと思います。
歳を重ねて不安を感じる事も胸が痛む事も増えはしましたが、
その分、お姉ちゃんの事をより一層に大切にしたい気持ちでいっぱいになったんです。

だから、私はいつの間にか、大人になるのが少しずつ怖くなくなりました。
大人になると、兄弟の関係は疎遠になってしまうものなのかもしれません。
いつかはこの想いも消えてしまうものなのかもしれません。
でも、私は今も小さな頃と変わらず、お姉ちゃんの事が大好きです。
不安で仕方が無かった大人が近付いても、こんなにもお姉ちゃんが大切なんです。
だったら、私の気持ち次第でどうにでも出来るのかも……。
いつしか私はそう思えるようになりました。
大人になっても、私次第でお姉ちゃんの事を好きで居られるはずなんだ、って。
私がお姉ちゃんの事を好きで居たかったら、
どんなに離れていても、お姉ちゃんの事を想い続けていればいいんだ、って。


「うん、さわちゃんより上手いよ、憂ー!
上手上手! 流石は自慢の妹だよー!」


お姉ちゃんが無邪気にはしゃいで、私はつい目を細めてしまいます。
偉そうな事を考えてるみたいですけど、でも、そう考えられるようになったのは、
私がお姉ちゃんをずっと好きで居られると思えたのは、他でもないお姉ちゃんのおかげなんです。
体格や考え方や好きな物やマイブーム……、
当然の事ですが、お姉ちゃんは色んな所が成長したり変わったりしてきました。

でも、一つだけずっと変わらないで居てくれる所があったんです。
それは勿論、私の事を大切に思ってくれる優しさでした。
私が困ったり辛かったり悲しかったりする時、
お姉ちゃんは私には思いも寄らない方法で私を助けてくれます。
今日だって二人っきりで初詣に行く事で、私を勇気付けようとしてくれてるんだと思います。
離れていても大丈夫だよ、って、私に伝えてくれるために。
だから、私は自信を持ってお姉ちゃんを好きで居られるんです。
これからも、ずっと……。

だからこそ、今日はこの嬉しさと一緒に初詣に行きたいと思います。
二人で初詣に行って、色んな話がしたいです。
今までの事やこれからの事、話したかった事、話そうと思ってた事の全部を……。

だけど、そのためにはまず私も晴れ着を着ないといけません。
お姉ちゃんだけが晴れ着だなんて、何かカッコ付きませんよね。
幸い、晴れ着は私が中学生の頃から着ている物がありますし、
私は自分で自分に晴れ着の着付けをする事が出来るので、二人で晴れ着で初詣に行けそうです。
お姉ちゃんを待たせないように早く着付けよう。
あ、でも、やっぱり着付けには少し時間が掛かるから、
お姉ちゃんにはコタツで待っててもらった方がいいかな?
私がそう思っていると、不意にお姉ちゃんが上目遣いに私を見つめました。


「ねえ、憂?」


「ど、どうしたの、お姉ちゃん?」


びっくりして、私は上擦った声で訊ねてしまいます。
だって、お姉ちゃんが私の前でこんな上目遣いをする事なんて、ほとんどありませんから。
頬を少し赤く染めて、今までに無かった事態に私は動揺を隠せません。
お姉ちゃんもそれは自覚しているのか、とても照れた表情で小さく続けました。


「憂の晴れ着の着付け……。
私にやらせてほしいなー……、って思ってるんだけど……、駄目?」


「晴れ着の着付け……?」


「うん、着付けは私がやりたいんだ、憂」


「出来るの……?」


「出来るよ! ……多分。
実はね、晴れ着の着付け方、学校でさわちゃんに教えてもらってたんだよね。
りっちゃんが聡くんと二人で初詣に行くって話を聞いてからね、そうしたいなって思ってたんだ。
あんまり上手く出来ないかもしれないけど、頑張って覚えたんだよ。
りっちゃんと二人で着せ合いっこしたりしてね。
りっちゃん、憂と体格が同じくらいだから、練習させてもらってたんだよね。
まあ……、おっぱいは憂の方が大きいけどね」


それは律さんに失礼な発言の様な気がしたけど、私は何も言いませんでした。
お姉ちゃんの視線と言葉が凄く真剣だったから。
お姉ちゃんが私のために何かしたいって気持ちが凄く伝わってきたから。
だから、私は律さんには心の中だけで謝ってから、
着ていたパジャマを脱いでお姉ちゃんにお願いしたんだ。


「うん、なら着付けをお願いするね、お姉ちゃん!」


「……ありがと、憂ー!
私、晴れ着の着付け、一生懸命頑張るよー!
さわちゃん仕込みの着付けを見せちゃうよー!」


「あははっ、お礼を言うのは私の方だよ、お姉ちゃん」


「あ、そっかー。
じゃあ、どういたしまして、憂ー!」


「それも変だよ、お姉ちゃーん」


名前を呼び合いながら、私は足袋を履いて肌着を身に着けました。
腕を上げて、お姉ちゃんが用意してくれている長襦袢に腕を通します。
それから身体に長襦袢を馴染ませて……。
あ、本当だ……。
お姉ちゃん、苦戦してるみたいだけどしっかり着付けの基本を守ってる……。
細かい作業はギター以外苦手なのに、私のためにこんなに頑張ってくれてる……!
私のためにどれだけ着付けの勉強をしてくれたんだろう……。
そう思うだけで私は涙腺が涙が溢れ出てしまいそうでした。

だけど、私は泣きません。
私は泣くために、泣き顔を見せるために、
お姉ちゃんの事を好きで居るんじゃありません。
私は笑顔を見せるために、幸せになってもらうために、
お姉ちゃんの事をこれからもずっと好きで居るんですから。
だから、私はお姉ちゃんに、胸の奥底から溢れ出て来る笑顔を向けます。
私が今お姉ちゃんに出来るのは笑顔を向ける事だけだと思いますから。


「うー……。
えーっと、ここがこうなってこれがあーなって……」


お姉ちゃんが何度も首を傾げながらも、私の晴れ着を着付けてくれます。
何度かアドバイスをしそうになりましたが、私はじっと唇を閉じ続けました。
これはお姉ちゃんの私への想い。
私はそのお姉ちゃんの想いをそのまま受け止めたいです。
それがお姉ちゃんの想いなら、着付けがどんな出来になっても構いません。
それに、私はお姉ちゃんを信じています。
何度ハラハラする状況になっても、お姉ちゃんはちゃんと自分の力で乗り越えたんだもん。
私よりずっとしっかりしてるお姉ちゃんなんだもん……!

それから、二十分くらい経ったでしょうか。
晴れ着の伊達〆を巻いて前板を付け終わったお姉ちゃんが、
軽い汗を拭いながら少し不安そうな表情を浮かべて私に訊ねました。


「これで完成だよ、憂。
ねえ、どう……かな……?
上手く出来てる……なんてとても言えないけど、きつ過ぎたり緩過ぎたりしない?
頑張ったんだけど、私ってやっぱり結構不器用みたいで……」


「ううん、ばっちりだよ、お姉ちゃん!」


「……ホントに?
気を遣わなくてもいいんだよ、憂?」


「気なんか遣ってないよ、お姉ちゃん!
ホントのホントにばっちりな着付けだよ!」


私は力強く主張します。
勿論、その私の言葉に嘘はありませんでした。
最近、さわ子先生に教えてもらったばかりのお姉ちゃんの着付けですから、
晴れ着の所々に皺が寄っていたり、少しきつかったり緩かったりする部分もありました。
でも、私には十分過ぎるくらい十分でした。
それくらい着付けをしたら当たり前に起こり得る事ですし、普通に動く分には何の問題も無い着付けです。
それ以上に、私はお姉ちゃんが着付けてくれた事自体が嬉しくて、
一生懸命着付けてくれた事に胸がいっぱいになって、これ以上の着付けなんて想像も出来ませんでした。
今の私にこれ以上の晴れ着の着付けは考えられないくらいです。
だから、これが今の私にとって、ばっちり最高の着付けなんです。

私はお姉ちゃんの手を取って笑顔を向けます。
私の表情を見ると、お姉ちゃんは不安そうな表情からまた笑顔になってくれました。
いつまでも見ていたい幸せそうな笑顔に。


「よかったー……!」


「ありがとう、お姉ちゃん!
まさかお姉ちゃんに着付けてもらえるなんて思ってなかったから、すっごく嬉しいよ!」


「えへへ、憂にそう言われると照れるよー……」


「これで二人で晴れ着で初詣に行けるね、お姉ちゃん」


「うん、でもね、憂……」


「でも……?」


「私ね、ホントの事を言うとね、
初詣じゃなくても、もっと憂と一緒に外に遊びに行けばよかった、って思ってるんだ。
こういうお正月でもないと、憂の大切さを思い出せない悪いお姉ちゃんでごめんね、憂」


「ううん、気にしないで、お姉ちゃん。
二人で初詣に行けるなんて、私、すっごく嬉しいよ!」


「ありがと、憂。
でも、私ね、着付けの練習をしてて思ったんだ。
お正月は大切な日なんだけど、本当は何も変わってないんだよね、って」


「何も変わってない……、って?」


「うん、私もお正月は一年の始まりって大切な日なんだって事は分かるよ?
でもね、憂の事を考えてて、思ったんだ。
私は憂に晴れ着を着付けしてあげて、一緒に初詣に行きたいし、
一緒に行けたら嬉しいけど、初詣でだけ憂を大切にしても意味無いなあ、って。
だって、私はいつも憂を大切にしたいんだもん。

それで気付いたんだよね。
お正月はおめでたい日だけど、他の日とそんなに差があるわけじゃないんだよ。
一月一日も一年三百六十五日の内の一日なんだよ。
そのたった一日の事だけを考えるより、毎日憂の事を考える方がずっと大事な事だよね?」


珍しいお姉ちゃんの熱弁に、私は思わず舌を巻いてしまっていました。
お姉ちゃんは……。
お姉ちゃんはやっぱり凄いなあ……。
私の悩みを全部解決してくれる考え方が出来てるんだ……。
私なんかよりずっとしっかりしてるよ、お姉ちゃん……。

お姉ちゃんは毎日私の事を大切にしたいと言ってくれました。
特別な日だからじゃなくて、特別な何かがあるからじゃなくて、
一年の始まりだからとかじゃなくて、一日一日私を大切にしたいって。
お正月って言っても、結局は昨日から今日になっただけなんだから。
そうだったんだ……。
そうだったんだよね……。
私が大人になるのが怖かった理由が分かったよ、お姉ちゃん……。
怖かったのは、大人って未来がずっと遠い先の事だったからなんだよね。
遠い未来過ぎて、自分がどうなってるか想像も出来なかったからなんだ……。

でも、そうじゃないんだよね、お姉ちゃん……。
一日先でも、十年先でも、未来は未来。
同じ私が一日一日を生きて辿り着く未来……。
十年先の未来の事と急に言われちゃうと想像も出来ないけど、
お姉ちゃんの事が好きな自分の一日を、ずっと続けていくだけだって考えたら怖くない。
そうやって辿り着くのが十年後なら……、私はもう怖くないよ、お姉ちゃん……。
ずっと……、お姉ちゃんを好きで居られると思うよ……。
今でもずっとお姉ちゃんを好きな気持ちは膨らんでるんだもん……。

止まらないぼくらの時間。
――私達の時間。
私もお姉ちゃんも純ちゃんも梓ちゃんも軽音部の皆さんも、それぞれの時間を持っていて……。
その時間を誰かと共有する事は決して出来ないけど、それでも、誰かを大切に思う事は出来る……。
誰かと一緒に、誰かの事を考えて一日一日を大切に生きていけるんだ……。


「私もお姉ちゃんの事……、毎日大切に思ってるよ。
ずっとずっと……、小さな頃からずっとね……」


「うん、知ってるよ、憂。
私だってそうだもん!」


ちょっと決心した言葉を伝えたつもりだったけど、お姉ちゃんには簡単に返されてしまいました。
もう……、お姉ちゃんったら……。
うん……、お姉ちゃんだなあ……。
そのまま、いつまでも私の大好きなお姉ちゃんでいてね……。

そう思いながら、私はまたお姉ちゃんの手のひらを強く握りました。
お姉ちゃんも私の手のひらを温かく包んでくれます。
多分、もうすぐ別々に暮らす事になる私達だけど、
それぞれの時間を歩いていく事になる私達だけど、きっと大丈夫。
私はお姉ちゃんの事をずっと大好きで居るから。
お姉ちゃんもきっと私の事を大切に思い続けてくれるから。
そうして、一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。
それが私達の時間を大切に生きるって事なんだよね……。


「ねえ、お姉ちゃん」


「どうしたの、憂?」


「今日は単に一年の初めなだけの普通の日だけど、初詣には行くよね?」


「うん、勿論だよ、憂。
今日は特別じゃない普通の日だけど、だからって粗末にしたいわけじゃないもん。
毎日を大切にするだけだもんね。
だから、今日は憂と初詣に行くんだよ。
いいよね、憂?」


「うん、行こう、お姉ちゃん!
初詣、私、思い切り楽しみたいな!」


「うん、めいっぱい楽しんじゃおう!」


「あ、一つだけお姉ちゃんにお願いがあるんだけど、いいかな?」


「何でも言って!
あ、でも、お年玉ちょうだいってのは無理だよ、憂……」


「ううん、そうじゃないよ、お姉ちゃん。
今日はね、ずっとお姉ちゃんと手を繋いで初詣に行きたいな。
……どうかな?」


「えへへ、憂は甘えん坊さんだね。
うん、でも、お安い御用だよ、憂ー!
二人で手を繋いで、一緒に神社を回ろうね!」


「うんっ!」


私達は頷き合って、手を繋いで部屋から出ます。
二人で歩いて初詣に向かいます。
これが私達の新年の始まり。
だけど、特別でない大切にしたいいつもの日の始まり。
こうして一日一日を重ねて、その先の未来に辿り着けるなら、大人になる事も怖くありません。
私はずっとお姉ちゃんと一緒に、それぞれの違う時間を生きていけると思います。

だから、今年も……、ううん、
これからも毎日よろしくね、お姉ちゃん!


終わりです。



最終更新:2013年01月06日 02:14