琴吹先輩といったっけ。
目の前に、その人がいた。

「なかのさん、待って」

軽音部に入部した。
秋山先輩がいたし、何よりあの人達と一緒に演奏してみたいと思ったから。
毎日切磋琢磨してお互いを高めていく日々――青春。
そういうのを期待して扉を叩いた。
でも、理想と現実は違うものだ。
口論の末、私は部室から飛び出してしまった。

「すこしだけでいいから、話を聞いてほしいの」

琴吹先輩は肩で息をしながら、無理に笑顔を作った。
その作り笑いに免じて、少しだけ話しを聞いてあげることにした。

「ごめんね、なかのさん。
 ティーセットを持ってきたの私なの」

「私物だったんですか?」

「ええ」

琴吹先輩は苦笑いした。

「それでね、中野さんが入部したからにはティーセットを持って帰ろうと思うわ。
 だから、ね。
 軽音部に戻ってきてくれないかしら」

「はぁ」

琴吹先輩は感情が顔にでるタイプみたいだ。
肌が白いせいか、顔色の変化だけで何を感じているのかよくわかってしまう。
ティーセット、持って帰りたくないんだろうな。

軽音部で練習できるようになるのは魅力的だ。
確かにそういう日々に憧れていたし。
だけど琴吹先輩を苦しめてまで入部する意義は見いだせなかった。
飛び出しておいて今更戻るという選択肢を、私のプライドが許さなかったというのもある。
ともかく、私は断ることにした。

「もう辞めるって決めたので」

「そう言わずに、ね」

「失礼します」

私は駈け出した。
さすがに今回は追ってこないと思ったけど、そんなことはなかった。
琴吹先輩はすぐに私に追いつき、手を握った。

「なかのさん、お願いだから」

「はぁ、どうして私にこだわるんですか?
 定員も足りてますよね」

「そうだけど」

「軽音部は人気ありますから、私が入らなくても新入部員は来ると思います」

「そうかもしれないけど」

「では、そういうことで」

私は琴吹先輩の手を振りほどこうとした。
だけどがっちり握られたその手を振りほどくことはできなかった。
無言で睨みつけると、先輩は怯んだ。
それでも、手の力は緩めてくれなかった。

「あずさちゃんは一緒にやりたいって思ってくれたんでしょ。
 私達と一緒に音楽をやりたいと思ってくれたんでしょう」

「確かにそう言いましたが」

「それなら軽音部で一緒に演奏したいと思うわ。
 だってもう仲間でしょ」

確かに入部届はもう出したけど、まだ仲間というほど縁があるわけではない。
琴吹先輩の言葉は安っぽくて、私の心にはまるで響かなかった。
すると急に、琴吹先輩まで安っぽく見えてきた。

「なかのさん」

祈るように琴吹先輩はつぶやいたけど、私は無視して歩き出した。
手は振りほどけてないけど、構わず歩き出した。
琴吹先輩は少しバランスを崩したけど、すぐに立て直して後をついてきた。

放課後になったばかりなので、それなりに人はいた。
傍から見れば私が手を引いているように見えるだろう。
琴吹先輩の髪は目立つ。
明日には噂になってしまうかもしれない。
それでも歩みを止めなかったのは、私が怒っていたからだ。

下駄箱に行き、靴を履き替えた。
そのまま校舎を出る。
琴吹先輩は上履きのままだったけど、それでも手を離してはくれなかった。
私は手を握られたまま歩きつづけた。

会話はひとつもなかった。
ただ黙々と歩き続けた。
やがて家に着いてしまった。

「ここが中野さんのお家?」

「はい」

「ふぅん」

「入りますか?」

「いいの?」

「今更です」

私は鍵を開けて家に入った。
琴吹先輩は申し訳なさそうな顔をしながら玄関をくぐった。
幸いなことに、家には誰もいなかった。

「そろそろ離してもらえませんか?」

「うん」

少し躊躇いながらも離してくれた。
さすがにもう逃げられる心配はないと思ってくれたのだろう。

私の手は少し湿っていた。
半分は琴吹先輩の汗で、もう半分は私の汗だと思う。
琴吹先輩の手があたたか過ぎるからいけないのだ。

「中野さんはどうして軽音部が嫌になったの?」

「やる気がみられないからです」

「なら、ティーセットをなくせば」

「根本的解決にはならないと思います」

「じゃあさ、私が練習するようにみんなに言うから」

「無理やりやらせてもきっと楽しくないです。
 そんな部活ならやらないほうがましだと思います」

もっともらしい理屈を並べるのは簡単だった。
琴吹先輩の青い瞳から少しずつ生気が消えて行くのがわかった。








やがて琴吹先輩は泣きだした。








嘘偽りない感情の暴走。
それが涙だと思う。
琴吹先輩は私を部活に入れたくて泣いている。
なんだか不思議な気持ちがした。

琴吹先輩にここまでする理由はないはずだ。
少なくとも、私の感覚ではありえない。
先輩は本当に私のことを仲間だと思っているのだろうか。
ただの説得のための言葉ではなく、本意からそう言ったのだろうか。

この人に少しだけ興味が湧いた。
先輩の真意を確かめてみたいと思えた。



どれくらい時間が過ぎただろうか
琴吹先輩はやっと泣き止んでくれた。

「やっぱり部活続けてあげてもいいです」

「ぇ?」

「部活、続けてもいいと言ったんです」

「ほんとう?」

「嘘は言いません」

「でも、どうして」

「なんとなくです」

それから琴吹先輩を家まで送ってあげることにした。
道中、先輩は馴れ馴れしく色々話しかけてきた。

「じゃあ、あずさちゃんって呼んでもいいかな?」

「はい」

「私のことはムギって呼んでくれていいから」

「いやです」

「あ、うん」

あからさまに琴吹先輩が落ち込む。
本当に感情を隠すのが苦手なようだ。

「つむぎ先輩でどうですか?」

「うん」

少し、不満そうな顔をしている。
さっきまで頼んでばかりだったのに、この人は。
まぁ、これから長い付き合いになるのだから、恐縮されたままでも困るのだけれど。

電車に使って、それからしばらく歩いて、やっと琴吹先輩の家についた。

「これが琴吹先輩のお家ですか?」

琴吹先輩と呼ばれ、少し不満気な顔をしたまま先輩は頷いた。
金髪のお嬢様なんて漫画にしか出てこない存在だと思っていたから、軽く驚いた。
驚いただけだけど。

「お嬢様だったんですね」

「うん」

「では、私はこれで帰ります」

私が踵を返そうとすると、琴吹先輩が何か言いたそうにしていた。
両方の手でグーを作り、ぎゅっと握りしめて、何かを決意するように言った。

「あがっていかない!」

もったいをつけておいてこの言葉だったから、私は少し笑ってしまった。
琴吹先輩は顔を真っ赤にして俯いた。
それが面白かったので、私はまた少し笑った。

「いいですよ」

こう答えてしまったのは、私の機嫌が良かったからだ。
これから一緒に活動する先輩と仲直りしておこうという下心ではない。

屋敷に入ると沢山のメイドと執事が挨拶をしてくれた。
先輩は執事の人に私のことを軽く話しているようだった。

メイドや執事に見られていることを意識した私は、すぐに姿勢を正した。
この時になって気づいたのだが、琴吹先輩はとても姿勢がいい。
背筋はぴんと伸びているし、歩き方もさまになっている。
本当にお嬢様なのだなと思った。
思っただけだけど。

琴吹先輩は自室に私を連れていった。
部屋に入る直前、琴吹先輩はメイドから何か受け取ったようだった。

「それは?」

「ティーセット」

「ティーセットですか」

「あずさちゃんにお茶をいれてあげようと思って」

屋敷に帰ってからの琴吹先輩は別人のように活き活きとしていた。
先輩の好意を無碍にすることもないと思い、お茶を頼んだ。

琴吹先輩は慣れた手付きで紅茶をいれはじめた。
お嬢様の基本スキルなのだろうか。
正直、私にはわからない。
ただ、紅茶をいれているときの琴吹先輩が、とても優しい目をしていたことだけは確かだった。

「どうぞ」

「いただきます」

紅茶からは知らない匂いがした。
私が稀に飲むペットボトルの紅茶とは茶葉からして違うのだろう。
少しだけ啜ると口の中にほんのりとした優しい甘さが広がった。
この味は砂糖じゃない。

「少しだけ蜂蜜をいれてみたんだけど」

「美味しいです」

正直に言った。
すると琴吹先輩は微笑んだ。
作り笑いじゃない、本当の優しい笑顔。
気恥ずかしくなってしまったので、私は紅茶と向き合った。

お茶を飲みながら、私たちは雑談した。
音楽のこと、学校生活のこと。
あたりさわりのないことばかり話したと思う。
琴吹先輩は意外と聞き上手で、話していて悪い心地はしなかった。
それから琴吹先輩が切り出した。

「御夕飯も食べていかない?」

「それはいやです」

少しだけ興味があったけど、私は断った。
このままここにいたら琴吹先輩に懐柔されてしまう気がしたのだ。
琴吹先輩は残念そうな顔をした後、それなら家の者に送らせると言ってくれた。
もう夜も遅かったので、その提案に従った。

「あずさちゃん。ひとつだけ聞いてもいいかしら」

「ひとつだけならいいです」

「なんで軽音部を続けてくれる気になったの?」

「それは」

「もしかしなくても、私が泣いてしまったからから?」

その通りだった。
でも私がここで頷けば、きっと違った意味で伝わってしまう。
同情で決意したと思われてしまう。
それはつまらないと思う。
だから、私はこう言ったのだ。




「つむぎ先輩の手があたたか過ぎたからです」





家に着いてから今日のことを振り返ってみた。
色々あったと思う。
でも、結果だけ見ると悪くなかったかもしれない。

飛び出したことについて、他の先輩たちに謝らなければならないと考えると少し憂鬱だ。
それでも、楽しみのほうが多いような気がする。
青春という二文字が、私の中で蘇った。

ふと、思いついた。
先輩にティーセットを撤去しなくてもいいと言ってあげよう。
そうすれば、あの人はまた笑ってくれるはずだ。




つむぎ先輩の笑顔を思い浮かべながら、私は眠りについた。





終劇ッ!!



最終更新:2013年01月08日 01:43