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喧噪の中、蓋が開いた。
途端、表情に驚きを漲らせた澪と目が合った事で、律は心底から安堵した。
一応、人の話し声が騒がしく聞こえてきた段階で、安心しかけてはいた。
澪に対するプレゼントというアナウンスが朧ながら聞こえるに至り、
その傾向にも拍車が掛かった。
だが喧噪のせいか澪の声は聞こえなかった上、律は暗闇の中に居た。
澪の顔を見るまでは、心の内奥から自分の安全を確信する事はできなかったのだ。
律は恵達から、説明は何も受けていない。
ただ、これが澪に対するサプライズのプレゼントである事くらい、律とて予想できていた。
律と目があった時に、恵が思い立って実行へと移したのだろう。
澪に露見しないよう、懐刀だけを誘って。
果たしてその予想通りなのか、不安はあった。
だが今や、その不安は払拭されている。
ならばあとは、周囲から期待される役に徹するだけだった。
律は満面の笑みを作ると、澪を見上げた。
澪を喜ばせよう、それが自分に期待されている役割なんだ。
律はその思いを言葉に変えて表現する。
「みーお、誕生日おめでとう。私の事、貰ってくれる?」
予想に反して、澪の表情に喜色は訪れなかった。
それどころか表情は強張っており、握りしめられた拳が震えている。
自分を貰っても嬉しくないのだろうか、律は不安になった。
もしかしたら澪はまだ、昨日の蟠りを根に持っているのかもしれない。
いや、と律は思い直す。
だからと言って、今更悲観的になる必要はない。
もともと、澪に許してもらう事も目的だったはずだ。
律は内心で自分に叱咤を浴びせると、媚を声に載せて再び開口する。
「ねー、澪。私ね、澪の事、いーっぱい愛」
「何だこれはっ?こんな事して、私が喜ぶとでも思ったのかっ?」
律の声を遮って、澪の咆哮が轟いた。
反射的に律は身を縮ませたが、どうやら自分に怒っている訳ではないらしい。
澪の視線は律を捉えていなかった。
その険しい視線を辿ると、射竦められて縮んだ恵達の姿が映る。
「だ、だって、澪ちゃんって、りっちゃんの事が好きみたいだし」
恵の声は震えていた。澪の只ならぬ剣幕に気圧されているのだろう。
「ふざけるなっ。
律を怯えさせるような真似は、どんな理由があろうと、誰が相手であろうと許さない。
絶対に、絶対にだ」
澪は眦を決して、毅然と言った。
律は険しさの増した澪の顔を、頼もしげに見上げる。
律が怯えていた事を、澪は見抜いてくれたらしい。
そして今、澪は自分の為に怒ってくれているのだ。
それも、律が宿敵と目するファンクラブを相手にして、である。
律の視線に気付いたのか、澪は柔らかな表情に転じて目を合わせてきた。
そしてその口から、先程とは打って変わった優しい声が紡ぎ出される。
「ごめんな、暴走した奴が居たみたいで。怖かったよな?
でも、もう大丈夫だぞ。私が守ってやるからな」
律は弾かれたように、澪に抱き付いていた。
堰を切ったように、涙が溢れて止まらない。
「えぐっ、みぃおー、怖かったよぅ。
澪ー、みーおー、寒くて暗くて、寂しかったよう。
みーおー、みーおー」
「よしよし」
澪が抱き上げて胸に寄せ、髪を優しく撫でてくれた。
律は存分に甘えて、澪の柔らかい乳房に包まれて泣きじゃくる。
「曽我部先輩、どういう事なんですか?」
その間にも、主催者の和が恵を詰問していた。
「いや。さっきね、そこの窓に、りっちゃんの姿が見えたのよ。
で、澪ちゃんって、りっちゃんの事が好きみたいじゃない?
それで、サプライズのプレゼントにしようと思ったの」
「でも、澪の言葉を聞く限りだと、律は怯えてたみたいですよ?」
和は先輩に当たる恵を相手に、容赦せず追及していた。
このイベントの主催者であるという責任感が、彼女を駆り立てているのかもしれない。
澪にあやされている内に、律もそういった思考ができる程度には落ち着いてきていた。
「そこは私の思い違いよ。
りっちゃんも澪ちゃんの事が好きだろうから、りっちゃんも嬉しいんじゃないかって思って。
誤解があったみたいね」
「思い違いや誤解だと言うのなら、何故、律を強引な手段でこの余興に参加させたんだ?
律が喜ぶというのなら、普通に律に参加を頼めばいい」
恵の弁解に、澪が反駁を加えていた。
律が大分落ち着いてきた事を悟り、恵の糾弾に戻れると判断したのだろう。
「いや、強引じゃないわ。一応、協力してくれるかどうか、確認はしたわよ?
それでりっちゃん、協力してくれるって言うから……」
「律に何らの心理的圧迫も加えずに協力を頼んだのなら、律は怯えたりしなかったはずだ。
脅迫じみたやり方で、律を無理矢理協力させたんじゃないのか?」
「脅迫、した訳じゃないけど……」
澪の追及を受けた恵は、言葉を濁した。
視線も心なしか、斜め下へと向いている。
確かに、恵は脅迫まではしていない。
だが、不意に後方から律の口を塞いできたのだ。
それだけでも、人を畏怖させるには十分な行為となる。
繊細な律なら尚更だった。
箱の中に入った時など、不安で生きた心地がしなかった。
サプライズの余興だろうと予想していても、
相手は自分を敵視しているかもしれない
秋山澪ファンクラブの面々なのだ。
このまま人気のない場所に拉致されて、殺されてしまうのではないかと思った程である。
「後ろめたい事があるなら、今の内に隠さず話せ。
これ以上、私を怒らせるな」
澪は冷たい声で詰問を重ねた。
それでも恵は言い淀んでいる。余程、今の澪が怖いのだろう。
「もし話さないのなら、顛末は全て律から聞く事になる。
律の口からお前の罪を告発された私に、自制心など欠片でも残ると思うのか?」
「話すわっ」
恵は弾かれたように顔を上げた。
黙っていた方がより恐ろしいという事に、漸く気付いたらしい。
その判断は正解だと、律は思った。
「脅迫はしていないまでも、それに近い行為はしちゃったの。
りっちゃんに声を掛ける時も、後ろからそっと近づいて、口塞いじゃったし。
身体も、この子達に頼んで、抑えてもらったわ。
その状況下で、ちょっと、強めの口調でお願いしたから……」
恵の告白を受けて、澪が律へと視線を向けてきた。
正しい事を言っているのか確認したいのだと、律も即座に察して首肯で返す。
澪は頷くと、再び恵へと鋭い眼光を向けた。
「何故、普通に頼まなかった?」
「りっちゃんが、私達ファンクラブをライバル視してるんじゃないかって、思って。
それを感じさせる態度、何度か見てきたし。
今日だって、私と視線が合うと、すぐに逃げちゃったし。
だから、普通にお願いしても、断られるんじゃないかって思って」
恵の返答は恐らく本心だろう。
尤も、正直に告白したからといって、澪の怒りを免れる訳ではない。
実際に澪は眦を吊り上げて、今にも激昂せんばかりの表情を浮かべている。
だが澪が口を開く前に、和が割り込んできた。
「普通に頼んで駄目なら、諦めるべきよ。
畏怖させてまで、従わせるべきじゃないわ」
和は恵を窘めるように言う。
その先輩に対する敬意を抜いた物言いに、澪の怒りを代弁する意図が感じられた。
澪に難詰されて怯える恵の姿が、見るに堪えなかったのだろう。
「ええ、そうね。悪かったと、思ってるわ」
恵は和の態度に反発する事なく、素直に頷いていた。
後輩の優しさに、気付いているのかもしれない。
続いて和は、澪と律の居る方向へと顔を向けてきた。
「ごめんなさい、澪。こちらの落ち度よ。
二度とこんな事がないよう、再発の防止を誓うわ。
だから、今回に限って、許してくれないかしら?」
深々と、和の頭が下がる。
「その前に、律を怖がらせた事、当事者達から律に謝ってもらおうか」
澪の要求に応えて、計画に関わった恵達四人が首を揃えて前に出た。
「ごめんなさい、りっちゃん」
和に倣うように、深々と彼女達の頭が下がった。
律も今更、怒ってはいない。
その一様に慇懃な態度は、却って恐縮を感じる程である。
「そんな。私はいいよ。皆、澪の為にやった事なんだし。
でも今度から、こんな怖い事はしないでね?」
「ええ、分かってる。二度としないって、約束する」
一同を代表するように、恵が答えた。
律は満足すると、澪に向き直った。
「ね、みぃお。私はもういいから、許してあげて?
皆、澪の事を思ってやった事なんだよ」
「律がそう言うなら……分かったよ。
でも最後に一つ、これだけは言わせてくれ」
まだ、澪は怒りが治まらないのだろうか。
これ以上何を言うのかと、律は澪を見遣る。
「律をプレゼントにするなんて、そもそも有り得なかった。
だって」
澪は大きく息を吸い込むと、会場内に響き渡る声で宣した。
「律はとっくに私の物だっ」
「澪っ」
律は感極まって、澪の胸に顔を埋めた。
羞恥と嬉しさで弾けそうな身体を繋ぎとめられる場所は、ここしかない。
「和。イベントの途中で悪いが、今日の所は帰らせてもらうよ。
律は傷付きやすいからな。
今日受けた心理的負担を、付きっ切りでケアしてあげないといけないんだ」
「ええ、分かったわ。会場の片付けとかは、こちらでやっておくから」
「悪いな」
姿は見えないが、澪と和の話し声が聞こえてきた。
律は澪の胸に顔を埋めたまま、言葉を割り込ませる。
「澪ー、私はもう、大丈夫だよ?」
本心だった。もう律の心は完全に立ち直っている。
「無理するな」
澪は周囲に聞こえる声でそう言うと、
律にだけ聞こえる微かな声で耳打ちしてきた。
「私がお前と一緒に居たいんだ」
「うん」
律は小さく頷いた。
「それはそうと。この体勢じゃ、歩きづらいな。
律、ちょっと抱き方を変えるから、一旦下りてくれな」
帰宅が確定した事で、澪は律を持ち運びやすい体勢になりたいようだ。
ただ、流石に律も、抱かれたまま帰るつもりはない。
憧れはあるが、澪の負担が慮られた。
律は地へと足を付けると、澪を見上げて言う。
「自分で歩けるし」
「言ったろ?無理するなって」
澪の左手が、律の膝の裏に当たる。
「律。そのまま、しゃがんで?」
言われたままに屈むと、澪の右手が律の首の後ろへと添えられた。
そのまま、律の身体は持ち上げられる。
同時に、会場内に歓声が沸き上がった。
「みっ、澪っ。これって……」
律は顔の紅潮を隠せなかった。
所謂”お姫様抱っこ”として、律が度々憧れていた抱き方だ。
「お前、こういうの好きだったよな?
そうだ、悪いけど、ベース持っててくれるか?」
澪の言葉に反応したファンクラブの一人から、ベースが手渡される。
受け取った律は、大事に抱え込んだ。
「ん?律も荷物持ってるみたいだな」
律が持っている小箱に、今気づいたらしく澪が言った。
「これ、澪へのプレゼントだよ。ケーキ、作ってみたの。
後で、食べてくれる?」
もう律の胸から、あのタワー状の大きなケーキに対する劣等感はなくなっていた。
自分が作った、それだけで優越できる。その確信が律にはあった。
「ああ、有り難く頂くよ。
律はお菓子作りが上手いからな、楽しみだ」
澪の顔に、嬉しそうな笑みが浮かんだ。
律はその顔が、見たかった。
「それでね、昨日の事、許してくれる?
拗ねて澪を困らせて、ごめんなさい。もう我儘、言ったりしないね」
律は今が機とばかり、神妙に頭を下げる。
今日はこの言葉を伝えたかった。
思わぬ収穫があったとはいえ、本分も忘れてはいない。
ただ、その収穫のお蔭で、律は本心から謝る事ができた。
今後、澪が特別な日をファンクラブに充てたとしても、もう嫉妬はしないだろう。
本妻としての実感を、取り戻せたのだから。
「いいよ、気にするな。私の事で拗ねちゃう律、可愛かったぞ?
うん、惚れた女の我儘は可愛いよ」
余裕を見せる澪の姿が凛々しく映り、律は惚けてしまった。
こうして抱かれていると、自然と甘えてしまう。
幾ら律が軽いとはいえ、ベースの重さも加わっているのだ。
それを持ち上げて家まで運ぶとなると、相当な筋力と体力が必要になる。
例え鍛え上げている男であっても、負担は相当なものになるだろう。
にも関わらず易々と実行できる澪が、律には頼もしく見えた。
自分の為にここまで強くなってくれたのだと思うと、尚更である。
「じゃあな、和。今日は、有難うな」
「いえ、不手際があって、申し訳ないわ。
会員の教育は、きちんとしておくから。じゃあね、澪」
「ああ、またな」
律は夢見心地で、澪と和のやり取りを聞いていた。
そして気付くと、澪は出口へと向かって歩み出していた。
我に返った律はそっと、澪に耳打ちする。
「ファンクラブの事も、大事にしなきゃ駄目だよ?」
こう言えるのも、澪のお蔭である。
澪は頷くと、首を和に振り向けた。
「そうだ、和。次の土曜日なんだけど、
今日のイベントをフォローするライブを開かせてくれ。
恵先輩達に失礼な口をきいてしまったし、そのフォローもしたいんだ。
中途半端に終わらせてしまって、皆にも申し訳ないしな」
和や恵のみならず、ファンクラブの面々の表情に安堵と喜色が浮かぶ。
その反応を見て、律も安堵していた。
澪の猛々しい姿を見ても、この人達はファンで居てくれるのだ、と。
「ええ。皆、喜ぶわ」
「それに応えないとな」
和の承諾を確認した澪は、今度こそ音楽室から出ていた。
「ね。みぃおっ。今日のみぃお、カッコ良かったよ」
帰路、澪の腕に揺られながら、律は甘える声音で言った。
律の為にとった毅然たる澪の姿は、鮮明に思い出す事ができる。
「そうか?ありがとな」
嬉しそうな笑みを浮かべる澪に、律は問い掛ける。
発端となった、澪の決然とした麗姿を思い浮かべながら。
「ねぇ、みぃお。どうして、私が怯えていたって、分かったの?」
現実的に考えてしまえば、律の瞳が潤んでいたか、涙の跡が残っていたか。
或いは、律の表情が転ずる直前の不安を見取っていたのかもしれない。
だが、律が聞きたい言葉は、そんなものではない。
「律の事なら、何でも分かるよ」
「みぃおー」
百点満点。澪に笑みを向けながら、胸中で呟いた。
<FIN>
最終更新:2013年01月16日 02:18