「やあ、こんにちは」
 少女が帰宅すると、二部屋の小さな家には見知らぬ男がいた。その男はと
ても人懐こい笑顔で少女を招く。
 普段、少女が帰宅する時間には誰もいない。母子だけで暮らしているこの
家に、男がいるのはいささか不思議だ。けれども、男の表情があまりにも澄
んでいたため、最初は訝しんでいた少女も、次第に男の元へと近寄っていっ
た。

「ところで、おじさんだあれ?」
「おじさんかい? 死神だよ」
 愛想の良い笑顔を崩さずに、男は言った。
「シニガミ……って、なあに?」
「神様のことだよ」
「うそだあ」
 男は少女の頭を撫で、部屋に一つある窓を開けた。
「本当だよ。外を見てごらん」
 まるで少女を諭すように、男がそう言うと。
 世界が止まっていた。人も犬も雲も空気も、目に見えるものは全て止まっ
ていた。
「す、すごい! おじさん本当に神様なの!?」
 少女は、目の前に広がる光景にドキドキを隠せずにはしゃぐ。
「そうだよ。時間よ止まれ、って思うだけで止まるんだよ」
 男はまた少女の頭に手を添えた。そして「やってみてごらん」少女を誘う。
 それに従って、女の子はワクワクしながら願った。
「時間よ止まれ!」
 すると、男が言ったように、少女がそう願うだけで時間は止まった。少女
は、何度も何度も、熱心に世界を止めてみせた。
 その度に、色々な可能性や希望が少女の目には映り。それには不平等や
不自由などはまるで無かった。

 男は少女を見守るだけで、少女はそんな男にすっかり気を許した。
「ねえ、おじさん。どうしてこんな事をしてくれるの?」
 少女の瞳には、一層の輝きがうかんでいた。興味や好奇心や希望。目の前
には、それらがぎっしり詰まった存在がいて、少女は純粋な正直さをそれに
向けた。
 男はそれに、「キミに死んでもらうためだよ」と答えた。

 少しだけ沈黙が訪れる間に、少女の輝きはみるみる褪せていく。
 男が表情を変えずに言ったものだから、少女は最初、何を言われたのか
分からなかった。しかし、何度も反芻するうちに、褪せる輝きに変わり、重く
気味悪いものが体に纏わりついた。
 体がすっかりと冷えてしまって、こぼれる涙でさえも冷たい。澄んだままの
男の表情が、少女を見ていた。
「あ、ど、どうして?」
「シニガミだからだよ。人を死なせてまわるのが、おじさんの仕事なんだ。
で、その時生じた不幸を養分にしているわけなんだけれども。
 ただ単に死なせるだけじゃつまらないし、効率が悪いから゛時間を止める力゛
を貸す。すると、死ぬ人も最後に良い思いができて。反面死ぬ時の不幸が
大きくなる。するとおじさんも嬉しいわけで。……一石二鳥でしょ?」
 そう言われて、女の子は何も返せなくて、家の中声をあげて泣いた。
 男の言っている事なんて、突拍子も無い事だけれども。実際に、時間が止
まるなんて突拍子もない事が既に起きているわけなので。きっと、自分は死
ぬんだと少女は思い、泣いた。
 泣いても、誰も助けに来てはくれない。鍵っ子だから当然なのだけれども、
やっぱり悲しくて余計に泣いた。
 そして、無き果てて、知らず知らず寝入った。
「安心して。死ぬまでその力はキミに貸してあげるから」
 男は少女の頭を、そっと撫でた。

 少女が目を覚ますと、そこは病室だった。白くて小奇麗に整った部屋の真
ん中、真っ白なベッドの上に少女がいて。隅にはあの男がいた。
 腕には注射がささっていて、体が重い。部屋から出ようとしてベッドから
起き上がると、目が勝手にぐらついて、まるで視点が合わない。おまけに頭
がくらくらするものだから、少女は壁に寄り添いながら歩いた。
 その姿は、かなり人目についた。
 それを見た看護婦が「○○さーん!」と医者を呼びながら、事務所へと向
かった。
 少し遅れて駆けつけた医者達が、少女を病室に連れ戻した。

 病室では、質問や検査を繰り返し受けた。
「大丈夫。もうすぐ良くなるからね」
 最後に、看護婦が言ったが、少女はそれを真に受けない。男がまだ傍にい
るし、「時間よ止まれ」と願えば叶うのだ。
 しかし、時間を止めても状況が変わるわけでもない。腕に、鼻に通された
管。それに繋がる大仰な装置。少女を覗き込む、中年医師の堀が刻まれた
眉間。シニガミの男。それに伴って、無力感しかやって来ない。
 ベッドから窓を覗くと、曇った空が見えた。

 しばらくして、母親が病室に走りこんで来た。
 母親の涙で濡れながら、少女は力なく笑い泣いた。視界の端に男がいるの
が邪魔だった。
 その日は、そのまま母親と過ごした。母親を独占できるのは久しぶりだった。
それでも、高揚できないのは薬の副作用のせいだ。それとも、男が少女に
憑いているせいかもしれない。
 男が部屋の中を行ったり来たりしていた。しかし、母親も医者達もそれを気に
する様子はなかった。きっと見えていない。男は、憑かれている者にしか見えない
のだ。

 翌朝、母親は仕事に出かける。ベッドにくくりつけられた物を握り、少女に
挨拶をして、病室を出た。
 母親がいなくなると、男と一緒にいなければならない。少女はそれが憂鬱
だった。
「キミね。一週間も気を失っていたんだよ。それでも助かったんだから凄い
よね」
 ベッドにくくりつけられた物を確かめようとすると、男が話しかけてきた。
「ところでキミさ。時間は止めないの?」
「……だって、止めても一緒だもん」
「それなら仕方がないよね。うん、仕方がない。けど、もっと嘆いてもらわ
ないと。時間を止めたりして、ああ、あれって本当はこうなんだ。これって
こんなに良いものだったんだ、と気づいて。それなのに、せっかくなのに
自分は……、って。絶望してもらわないと。
 ……冷められると、おじさん嬉しくないなあ」
 母親がいない間、男は少女に話しかけてくる。それがわずらわしくて、少女
は首をぷいと、そっぽ向いた。

 夕方頃に母親が帰ってくると、朝と同じように゛物゛を握りしめた。
 少女が気になって訊ねると、それは御守りらしい。刺繍も無ければ、非常
にこぢんまりとしていて、少女が知っているお守りとは随分違う印象だった。
 それは少女が生まれた時に偉い人から貰った物で、「一生に一度」大変な
時に使うと効果があるとの事で。先日、少女が倒れた時も、母親はこの御守り
を一日中握りしめていたらしい。
「だとすれば、もうその御守りに力は無いんだよ」
 少女は思わず心の中で呟いた。それは今までに無かった卑屈さを持ってい
て、とても悲しかった。
 ふと、視界の端の男が嬉しそうに微笑った気がした。
 それがたまらなく嫌で、少女は弱気な自分を戒める事にした。
 暗い事を考えてはダメだ。こういう時こそ気丈になるのだ、と。



 御守りも虚しく、少女の容態は悪化していくばかりだった。

 医者達が頻繁に病室に来るようになった。部屋に置いてある機械類も、
少し大袈裟になった。
「もう、そろそろだね」と男が言う。「時間を止めないの? もっと希望とか
可能性とか考えたりしないのかな?」
「しないよ」
 擦れ声で少女は答えながら、体を動かそうとしてみた。首はまわる。指先も
動く。けれども、体は起こせない。それに喋るのも辛くて、なるほど、死期が
近いみたいだ。と幼いなりに体の変化をそう捉えた。
 母親も、外出帰宅の時間、少女への接し方は変わらないものの。雰囲気や
印象は少しづつ変わっていく。
 そんな風に変化していく周囲、もしくは自身は、死ぬ事への準備なのだ。
医者達の対応も、男の言葉も、母親の雰囲気も、少女の考え方も。

 三日後、少女は倒れた。平日の昼間だったため、母親はその場にいなかった。
男だけが、その様子を逐一見ていた。
「よくもった方だ」
 少し遅れて、医者達が病室に駆けつけると、少女を搬送用のベッドに移し
替えて、治療室へと向かった。看護婦達は治療の準備や、あるいは母親への
連絡に走り。いつかの御守りは、病室にぽつり、取り残された。
 母親は連絡を受けて、職場を抜け、病院へと向かった。

 雲が空を灰色に固めていた。薄暗く殺伐とした路を母親は急ぐ。嫌な予感を
払拭するように走った。
 平日の人気の無い町は、一層気味が悪かった。胸をかすめる嫌な予感が
強くなり、病院に差し掛かった辺りで、ぽつりと雨が降り始めた。
 病院に駆け込み、真っ直ぐ治療室へと階段を駆け上がる。冷えた空間に母親の
足音が鋭利に響く頃、雷が空を打ち破いた。

 治療室の扉を開くと、電子音が弱弱しく不規則に刻まれていた。降り注ぐ雨や
雷鳴が嘘みたいに、その場では脆弱な電子音が全てだった。
 医者達は、母親を一瞥した後、再び各々の作業に戻る。しかし、その動きに
鋭気は無く、電子音が途切れるのを待つばかりだった。一通りの処置を施しても
なお、少女の容態は変わらないのだ。
 予想できた事ではあるが、母親は半ば動転してしまい。苦し紛れに動くばかりの
医者達をかきわけて、少女の元に駆け寄った。
 そして、とにかく少女を抱きしめた。何をすればいいのか分からなかった。
 少女の静かで細い呼吸と、母親の荒く混乱した息が、歪に重なった。

 そこで少女は目を覚ました。

 触れた事のある安らぎを感じた。――しかし、小さくはない違和感に戸惑い
さえ覚え、少女が目を覚ますと。母親が自分を抱いていた。
「あ、……おかあさん」
 少女が呟くと、母親は少しだけ涙を溜めた。
 急に周りの医者達は騒がしくなり、偉そうな医者がそこら中に指示を飛ばし
始めた。
 しかし、母も少女も、逃れられない死を感じていたために、周りの事など
目に入らなかった。
 自分を抱く母親の手が、見守る表情が、かつてよりも疲れていた。こけた
頬に、増えた白髪。この幾日かの変化に、少女は今更気づいた。過労と
心労で、体が痛んでいる。相当な無理をしているに違いなかった。
 だとすれば、自分がいなくなることで、母親は楽になれる。金銭面でも
体力面でも精神面でも、随分な余裕が得られる。自由になれるはずだ。
それなら、少女は死ぬ事に、もう悔いは残らなかった。
 少女の四肢はもう動かない。それでも、口元は少し動く。やっとのことで、
自分の考えを母親にかいつまみ伝えると、母親は涙を流した。
 少女はふと時間停止の事を思い出して、最後にもう少しだけ母親を見て
おきたい、と考えた。時間を止めたところで、所詮ただの独りよがりなのだけ
れども。
「時間よ止まれ」と強く願った。
 そして、母親に近づこうとした。――母親の流す涙が、床にぽつんと落ちた。
 周りの大人たちの騒々しさが消えない。時間が止まっていない。

 気がつくと四肢が軽くなっていた。動かそうと思えば、かろうじて動く。
 いつの間にか、母親の手にはあの御守りが握られていて、
「ご利益……あったね」
 少女はそれを見て少し笑った。すると、心までも軽くなったような気がした。
 もうすでに少女の目には、男の姿は無かった。男が言っていた事を思い出す。
「――おじさんはカミサマだよ」
 ひょっとすると、男は本当に神様で。自分に、辛い事や悲しい事を乗り越
えるための試練を与えてくれたのかもしれない。
 そんな事を考えて、温もりに包まれながら、少女は眠りについた。
 少女は死なずに済んだ。

 ――その時の事。治療室に入るなり、母親は少女の死を悟った。治療室の
重苦しい雰囲気、今にも途切れそうな電子音。そして、何よりも死のにおいが
鼻をついたのだ。思考を固めてしまうくらい強烈に。
 それでも、母親はやってくる死を認められず、少女の体を抱え、その名前を
何度も呼んだ。
 すると、悲哀に充ちたその呼びかけに、少女は応じた。そして、治療室は
再び、少女の救命へと走り出したのだった。
 しかし相変わらず、死のにおいは充満しており、少女に先が無い事は変わり
なかった。しかし、諦めなどつかず、抱きしめる腕に力がこもった。
 すると、少女は腕の中で、遺言に似た台詞を放った。悲しみや嘆きのまるで
無い、澄き通った声だった。
 屈託の無い少女の決意に、ついに母親は折れて、少女の死を受け入れる事を
決心し。涙が床に落ちた。
 ゛不幸などまるで無い゛死。のはずだった。

 そこで、時間が止まった。

 医者や看護婦や、少女さえも動かない世界で。少女を抱く母親だけが時間を
持っていた。
 あらゆるものがありのままの世界。全く動じず、毅然とした世界で、母親は
思わず自分を恥じた。
 娘の考え――自身よりも、母親の事を優先する考えを、心から受け入れて
しまったのだ。
 母親としてあるまじき事だった。止まった時間の中で、全てが露になる事で、
ようやくそれに気づいた自分が恨めしかった。
 母親は、少女を寝台に戻した。
 我が娘におんぶに抱っこだった自分を、戒める必要がある。
「何故、時間が止まっているのか?」そんな事は二の次だ。今、自分が出来る
事をするのだ。

 母親は病室を出た。所詮、悪あがきかもしれないが、母親は少女のために
走った。
 病室のベッドにくくりつけたままの御守りを、持ってくるのだ。
 時間がどれくらいの間止まるのか、なんて知る由も無いが。治療室と病室を
往復する間、母親は「時間よ止まれ」と願い続けた。そして、それに応じて
時間は止まっていた。

 治療室へ戻り、しばらくすると時間が動き出した。
 御守りをぐっ、と少女に向けると、今まで脆弱だった電子音が力強さを取り
戻した。
「ご利益……あったね」
 少女は安らかな表情でそう言い、静かに寝入った。少女は死なずに済んだ
のだ。
 後は医者が何とかしてくれるだろう。御守りを握りしめながら、母親は少女の
無事を祈った。

 もう大丈夫なのである。少女が助かるは間違いない事なのだ。それでもなお
止まない不安に、母親は胸をひきつらせていた。
 引っかかる事がある。
 一向に死のにおいが消えない事。
「時間よ止まれ」で時間を止められるようになった事。
 それと――――。

 母親の視界の端で、男が微笑った。

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最終更新:2007年11月15日 17:09