気付いたときは、病院のベッドの上だった。
目を覚ましたジュンの顔を、目を泣きはらした、みつの顔が覗き込む。
彼女の後ろには、心配そうな金糸雀や、姉のりの泣き顔もあった。
金糸雀から連絡を受けて、二人とも取るものも取り敢えず駆けつけたのだろう。
みつに対しては店の経営が軌道に乗り始めていただけに、申し訳ない気持ちで胸が痛んだ。
(ごめんな……心配かけちゃって)
謝らなければいけない。
そして、仕事の方を優先してくれと、頼まなければならない。
今が大事な時だというのに、見舞いや看護で、店をなおざりにしては駄目だ。
しかし、ジュンは返事を出来なくて、愕然とした。まったく声を出せない。
ばかりか、身体を……指の一本も動かせなかった。
一体、何がどうなったというのか。
焦って全身を動かそうとするも、できるのは、せいぜい瞬きすることくらいだった。
脊椎や頭部強打による、神経伝達系の損傷……医者は、そう言った。
運動神経に障害があって、横紋筋の随意性が著しく疎外されているらしい。
内臓器は不随意筋である平滑筋のため、影響が出ていないが、
随意筋の方は、瞼など僅かな箇所が、辛うじて動かせる状況とのことだった。
みつはワナワナと震えながら医者に詰め寄り、治る見込みについて訊ねた。
だが、返答は鉄槌の如く、彼女の希望を砕く。
「あなた、医者でしょうっ?! なにか……なんとかしてよ!」
「みっちゃん、落ち着いて! お願いだから、冷静になるかしらっ!」
半狂乱になって喚く彼女の腕を、のりと金糸雀が両脇から抱え込んだ。
みつは、そんな二人を突き飛ばしかねない勢いで捲し立てる。
金糸雀は懸命にしがみつき、涙声を振り絞って、押し止めようとしていた。
その騒ぎを聞きつけ、病室の入り口に、看護士や入院患者たちが集まりだす。
(……止めてくれっ!)
心の中で、ジュンは叫ぶ。
苦痛に歪む、みつの顔を見るのが辛かった。
悲痛に打ち震える彼女の嗚咽を聞くのが、すごく苦しかった。
自分のせいで、親しい人たちの人生を狂わせてしまうことが、とても悲しかった。
(お願いだ! みんな…………もう止めてくれよっ!)
胸に渦巻く、やるせない想いを、声に出したい。
大声で叫んで、この喧噪を鎮めたい。
なのに、ジュンは唇を開くどころか、身体を起こす事すらできなかった。
涙さえ、溢れることはなかった。
それからの日々は――
ジュンにとって、絶望の連続だった。
――僕は、人形になってしまったんだ。
いや……人形ならば、まだマシだ。食事も、排泄の心配も、しないでいいのだから。
呼吸をする必要もなければ、眠らなくたっていい。
誰も居ない部屋で独り、日当たりの良い窓辺に座って過ごす日常。
移ろう季節を横目に、ぼんやりと主人の帰りを待っているだけが、生活の全て。
……ああ。
いっそ、そうなれたなら、どれ程か幸せだろう。
今の状態は、苦痛しか生み出さない。
生きる上で必要不可欠な食事ひとつとっても、そう。
内臓に問題が無いため、点滴だけに頼らず、流動食も摂らされるのだ。
自分の意志で顎を動かせないから、喉にチューブを押し込まれて、流し込まれる。
それは食事ではなく、餌付け。無理矢理に、エサを食べさせられているに等しい。
ジュンの心は屈辱にまみれ、自由にならない身体に憤った。
鬱積した黒くドロドロした感情は、彼の理性を、光の射さぬ深淵に引きずり込んでいく。
そして、彼の精神は闇の中で縮こまり、例えようのない深い哀しみに啜り泣くのだった。
そんな、ある日のこと。
茫乎とした眼差しを、秋晴れの空に彷徨わせていたジュンの耳に、
どこからか、女の人の澄んだ歌声が流れ込んできた。
筋肉は動かせずとも、鼓膜さえ震えれば音は聞こえる。
どうやら、開け放した窓の外から、届いてくるようだった。
(歌か……いいな。歌えるほど元気なら、もう退院が近いんだろう)
そう思った直後、不意に歌声は止み、程なく、言い争う声に変わった。
どうしたと言うのだろう?
気になって耳を澄ましたジュンは、なんとか、幾つかの単語を拾う事ができた。
(めぐ……って名前なのか? 治らないとか……死ぬとか言ってたな)
病院とは、なんとも厭な空間だ。死が日常的すぎて、現実よりも身近に感じられる。
ジュンもまた、めぐという女性の言葉に感化され始めていた。
(このまま治らないなら…………いっそ、死にたいな)
生きていながら、死んでいるに等しい今の状態は、自分のみならず、
周囲の人々も不幸に陥れている。
心から愛している彼女――草笛みつを苦しめている。
自分が彼女の幸せな未来を遮る壁になっているのだと思うと、死んで詫びたくなる。
けれども、今のジュンは、自分の舌を噛み切ることすら出来ない、無力な人形。
みつは毎日、欠かすことなく病院を訪れては、ジュンの世話をしていく。
時に、汚物の付着したおむつさえも、彼女は厭な顔ひとつせずに変えてくれる。
その度に、嬉しさと同時に、自分の存在が足枷でしかない事実を思い知らされ、
ジュンは気が狂いそうになった。
――悔しかった。ただただ、口惜しかった。
死にたいとすら思うのに、麻痺した身体では、自殺も叶わない。
自力で彼女の元から離れていけない自分がもどかしくて、呪わしくて――
それなのに、ジュンの双眸から感情が溢れることはない。
相も変わらず、電池じかけの人形みたいに、瞬きと呼吸を繰り返すだけ。
口内に溜まる唾液すら自力で飲み込めず、機械で吸い出していなければ窒息する。
人間としての尊厳もない、この状況は、はたして生きていると言えるのだろうか。
(僕は、いつになったら……死ねるんだ。早く死なせてくれよ)
生気のない目を外の景色に向けていたジュンの耳に、めぐの歌声が飛び込んできた。
いつもながら綺麗な声だ。最近では、この歌を聴くのが心の慰めになっている。
死にたがりの女性が、気紛れで奏でる歌。
そこに癒しを求めるのは、同病相憐れむ、というやつかも知れない。
ジュンが瞼を閉じて聞き入っていると、不意に、歌声が止んだ。
だが、いつものような苛立ちの声は聞こえない。
代わりに、驚くほど優しい声が、誰かに話しかけていた。
「いらっしゃい、水銀燈。
ねえ……知ってる? この病院の10階に、眠り姫が居るんだって。
死んだら鳥になりたいと思っていたけど……ずぅっと眠り続けるのも素敵よね」
聞いて、ジュンは『本当に、そうなのか?』と思った。
楽しい夢を、終わることなく見続けていられるのなら、そんなに幸せなことはない。
だが……その夢が、耐え難い悪夢だったとしたら?
丁度、彼が置かれているような、酷い状況だったなら、同じ事が言えるだろうか。
ジュンは心の中で、声しか知らない女性に、話しかけた。
(傲慢だな、君は――
綺麗な声で歌うことが出来る。自由に動き回ることが出来る。
今みたいに、親しい誰かと言葉を交わして、笑い合うことも出来る。
その気になりさえすれば、僕の首を絞めて、殺してくれることだって出来るのに。
なのに! 君は『死にたい』だなんて言う! 傲慢すぎるよ!)
めぐに向けた憤りは、深い哀しみとなって彼自身に跳ね返ってくる。
そして、ジュンは誰にともなく祈った。
(お願いだ――せめて、涙を流させてくれ。行き場のない感情を、吐き出させてくれ)
中編②につづく