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  1947.4.20 払暁
  “兎の砦”

 
 
薔薇水晶に先導されて、薄暗く、入り組んだ壕内を進む。
天井に設けられた電球の間隔が広くて、隅々まで電灯が届かないのだ。
本当に、ウサギの巣穴みたい。歩きながら、真紅は思った。

 
 
「ここが……貴女の部屋」

 
前を行く薔薇水晶が足を止め、ロングブーツの踵を軸に、くるりと振り返る。
彼女が差し示す先には、物々しい鉄扉が、鈍色の輝きを放っていた。

 
「部屋数が少ないから……相部屋になる。それでも良い?」
「イヤとは言えないでしょう。寝泊まりできれば構わないわ」

 
キッパリと言い切ったところで、真紅は泣き腫らした瞼を細めた。

 
「……と言いたいところだけど、私も一応、女の子なのでね。
 同居人は、男? だとしたら、お断りよ。廊下で眠った方がマシなのだわ」
「潔癖……見かけどおりね。安心して……ここは女の子だけの居住区だから」

 
薔薇水晶は唇を吊り上げ「ごゆっくり」と、嘲りにも似た笑みを浮かべる。
この娘は会ったときから、真紅に対して良い感情を抱いていないらしい。
ちょっとの仕種の中に、露骨な忌避の念が垣間見えていた。

 
 
真紅は不快さを誤魔化すように踵を返すと、宛われた個室の扉を開けた。
キュルキュルと、蝶番が耳障りな音を立てる。
顔が赤くなるほどチカラを籠めているというのに、とにかく重たい。
 
どうにか薄く開いた扉の隙間から流れ出るのは、埃っぽい空気と、甘ったるい人いきれ。
女性の部屋にありがちな生活臭が、真紅の鼻を突いた。
換気されてはいるものの、地下ということもあって、空気の流れが悪いのだろう。
ちょっと吸い込んだだけで、真紅は息を詰まらせた。

 
「ちょっとの辛抱よ」

 
鼻先を手で覆いながら、喘ぐような小声で、自分に言い聞かせる。
「仮眠したら、すぐにあの子たちを追いかけないと」

 
真紅は、父が誕生日にプレゼントしてくれた、24金の懐中時計を取り出した。
時計の針は、夜明けまで、もう間もないことを告げている。
朝になったら、オートバイを借りて追いかけるつもりだった。
空襲に遭うかも知れないが、多少の危険は覚悟の上だ。

 
 
 
――∞――∞――∞――∞――

 
1947.4.20

 
槐さんには、もっともっと、詳しい話を聞きたい。
でも、その欲求を遙かに超えて、あの子たちのことが気懸かりで――
胸に蟠る不安に、私は押し潰されそうになる。

 
車長として経験の浅い蒼星石では、咄嗟の機転が働かないでしょう。
だけど、その一瞬が生死を分けることもある。
戦場という環境で、私たちは幾度となく、それを目の当たりにしてきた。

 
 
私が戻るまで、戦闘が始まらなければ良いのだけれど……
こちらの都合を考えてくれるほど、甘い敵ではないわよね。

 
――∞――∞――∞――∞――

 
 
 
真紅は薄暗い室内に踏み込んで、即座に固いベッドに横たわると、
日記代わりの手記をしたため、吐息した。

 
いつからだろう。着の身着のままで眠ることに、慣れてしまったのは。
『即座に行動できるように』という、一秒すら争う戦場では当然の配慮ながら、
最初は違和感を覚えて、なかなか寝付けなかったものだ。
それなのに、今は――衣服が汚れ、皺が寄ることにすら、無頓着になりつつある。

 
「こんなにも、だらしなくなった私を……
 あなたはどうお思いになりますか、お父様?」
 
 
  ブーツも脱がずベッドに寝転がる、ふしだらな娘と軽蔑する?
  それとも……たくましく成長したと、褒めてくれるのかしら?

 
 
いずれにせよ、皮肉以外の何物でもない。
貶す権利も、褒め称える資格も、今や戦争の首謀者となり果てた父には無いのだから。
もしも対面して、そんな戯言を並べようものなら、断固として反撥するだろう。

 
  『あなたなんかに――』

 
その一言を皮切りに、これまでの鬱憤が堰を切った様に、唇から迸る筈だ。
大好きな存在を罵倒しなければならない苦痛に苛まれながら、
それでも攻撃的な言葉を浴びせ続け、同時に、自分の心をも傷つけ続けるのだろう。

 
 
(……止めましょう。考えたところで、詮無いことだわ)

 
パン生地を思わせる枕に頭を載せると、ふにゃりと沈み、カビ臭さが立ち上る。
こんな状況で、本当に眠れるのだろうか?
眉を顰めた真紅は、額に腕を翳して、瞼を閉ざした。

 
……が、懸念したとおり、待てど暮らせど睡魔は訪れない。
半身を起こすのも億劫なくらい、身体は疲れ切っているのに、だ。
気持ちを落ち着かせようと深呼吸すれば、澱んだ空気を吸い込んで、余計に胸が悪くなる。
悶々としていた彼女の耳が微かな歌声を捉えたのは、何度目かの寝返りをうった直後だった。

 
「換気口を伝わって聞こえるのね。この旋律は…………エーデルヴァイス」
 
英語の発音では、エーデルワイス。小さくて白い花は、スイスの国花でもある。
真紅はベッドを抜け出て、天井ちかくにある通気口の真下に寄り、耳をそばだてた。
か細いけれど、淀みなく、きりりと通る美しい声だ。

 
「素敵な歌声ね。なぜかしら……不思議と、魅了されるわ。
 どうせ眠れないのだし、出発まで歌を聴かせてもらうのも、一興というものね」

 
通気口を伝って聞こえるくらいだから、それほど遠くはあるまい。
この息が詰まる部屋に居るのも厭だったので、真紅は躊躇いなく、通路に出た。
しかし、右と左、どちらから聞こえてくるのだろう?
身動きを止め、澄ませた耳に届いたのは、歌声ではなく男の声だった。

 
「あれ? 真紅……」
「きゃっ?! ……あなたは、確か――」
「どうしたんだ、こんな所で。迷ったのか?」

 
真紅に声を掛けたのは、レジスタンスと行動を共にしていた少年だった。
埃にまみれた見窄らしい格好ではなく、白衣を纏って、どこぞの機関の研究員みたいだ。
改めて、ジェット技術を学びに、はるばる日本から来た技術者なのだと実感する。
けれど、真紅が目を見張った理由は、彼の変貌ぶりにではなく、彼の隣にあった。

 
「ジュン。そちらの人は、誰なの?」

 
不躾と承知しつつも、真紅はジュンの隣に立つ、黒髪の美しい娘を矯めつ眇めつした。
彼と同様、膝まである丈の長い白衣を、私服の上につっかけている。
 
真紅の視線を感じて、娘は恥ずかしげに身を捩ったものの、気後れすることなく、
ジュンに紹介される前に、自ら名乗った。

 
「こんばんわ……あ、この時間だと『おはよう』になるのかな?
 まあ、いいや。私は、柿崎めぐ。桜田くんと共に、日本から来たのよ。
 貴女が今でてきた部屋の先住人ってわけ」
「柿崎は、僕の同僚なんだ。元々、僕らは民間の航空機会社の技術見習いでね。
 将来を嘱望されて抜擢……と言うと聞こえがいいけど、実際には人材不足なのさ。
 僕ら以外は爺さんばっかりだから、長旅に耐えられないんだよな」
「たとえ冗談にしても、その見方はひねくれ過ぎよ、桜田くん」

 
軽口を叩いて肩を竦めるジュンを、めぐが溜息混じりに諫めた。

 
「結菱社長も、柴崎専務も言ってたじゃない。
 戦争はもうすぐ日本の敗北で終わるから、戦後の復興の為に、技能を磨いてこいって」
「う……まあな」

 
鈴の音を思わせるめぐの声に、ジュンは口ごもって、唇を尖らせる。
そんな彼の様子を、不甲斐なさげに眺めていた真紅は、ふと、歌声のことを思い出した。
もしかしたら、この、めぐという娘が声の主だったのかも……。

 
「ねえ、今さっき歌っていたのは、貴女なの?」
「? なんのこと」
「僕たちは、ずっと一緒に居たけど、柿崎は歌ったりしてないぞ」

 
怪訝そうに眉根を寄せた二人だったが、寸間を得ず、めぐは手を打ち鳴らした。
「桜田くん。ひょっとして、彼女のことじゃないかな」

ジュンも思い当たったらしく「ああ!」と歯を見せる。

 
「うん……きっと、そうだ! なんだよ真紅、彼女の歌が聴きたいのか?」
「え、ええ。寝付けないものだから」
「そっか。だったら付いて来いよ。すぐそこだから、案内してやるよ」

 
言って、先に出たジュンの腕に、めぐがするりと腕を絡めた。
「私も付いてこうっと。あの娘の歌は好きだから」
「うん、僕もだ。あいつの歌を聴くのも、久しぶりだな」

 
そうするのが当たり前であるかのように、二人は自然な態度で寄り添って歩く。
真紅の眼には、職場の同僚と言うより寧ろ、恋人同士に映った。

 
(私……もしかして、邪魔なのかしら?)

 
二人の背中を、ぼんやりと眺めながら、真紅は少し遅れて足を踏み出した。

 

 
 
 
とある一室の前で、二人の足が止まる。彼女が宛われた部屋から20mほど離れた場所だ。
閉ざされた鉄扉の隙間から、幽かに、くぐもった歌声が滲みだしてくる。
ジュンが呼びかけつつドアを叩くと、内側から元気のいい返事があった。

 
「はいなのー。いますぐ開けますなのよ」

鉄扉が内側へと引き込まれ、愛くるしい笑みを湛えた娘が、ぴょこんと顔を覗かせた。
真紅の幼なじみの、雛苺だ。
午前四時を過ぎた頃であるのに、この娘は疲労の色ひとつ見せていない。
雛苺が背にした薄暗い室内からは、依然としてエーデルワイスの歌が漏れ聞こえてくる。

 
「こんな時間まで起きてたのか、雛苺。あんまり感心しないな」
「ぶー。ジュンとめぐだって、夜更かししてるクセにっ」
「あのな、僕たちは遊んでるワケじゃないんだぞ。アレを完成させるために――」
「ヒナだって、遊んでるんじゃないのよー」

 
子供の口喧嘩みたいな応酬が始まると、めぐが「まあまあ」と、間に割って入った。
そして、室内を親指でさしながら、めぐは雛苺に笑みを向けた。
 
「今日は、彼女……調子よさそうね。歌を聴かせて欲しいんだけど、いい?」
「雛苺。私からも、お願いするわ」

 
ジュンの後ろから進み出た真紅を一瞥すると、雛苺は瞬く間に表情を曇らせた。

 
「みんなで聴いてくれた方が、あの子も喜ぶから大歓迎なのよ。
 だけど……真紅の服は……」
「あ、そっか。あいつ、軍服を見ると怖がるんだっけ」

 
雛苺に相槌を打ったジュンは、やおら自分の白衣を脱いで、真紅の肩にふわりと掛けた。

 
「これ、羽織っておけよ。ボタンを掛けておけば、服も目立たないだろ」
「あ…………ありがとう」

控えめに礼を言うと、真紅は戦車兵の黒い軍服を恥じるように、白衣の端を掻き寄せた。
俯いた彼女の頬が、うっすら色付いて見えたのは、光の加減だろうか。
それとも、服越しにとは言え、肩に触れた異性の手の温もりを意識したのか。

 
「さっさと入れよ、真紅。元々は、お前が歌を聴きに来たんだからな」

 
対して、ジュンはいつもと変わらず、不躾な口調で促す。
馴れ馴れしく“お前”呼ばわりされて、真紅は咎めるように彼を睨んだ。
……が、文句を言うことはなく、ぷいっと顔を背け、室内へと姿を消した。


めぐは、辛うじてジュンにだけ届くような小声で、そっ……と囁いた。
「優しくするのは、私だけにして欲しいなぁ」
「え? なんだって?」
「……ううん、なんでもなーい。さっ、私たちも行こう♪」

 
ジュンは釈然としない顔のまま、めぐに手を引かれて、雛苺の部屋に踏み込んだ。

 
 
室内は、真紅の部屋と同様、澱んだ空気に満ちていた。お世辞にも、清潔とは呼べない。
けれども、部屋の奥に置かれたベッドに腰掛け、美声を奏でる娘は、目を見張るほど美しく――
例えるなら、エーデルワイスの花のような、白くて可愛らしい女性だった。
『掃き溜めに鶴』とは、正しく彼女のような存在を言うのだろう。
真紅は、まるで人魚の歌に魅入られた船乗りのように、白い娘の元に引き寄せられていった。

 
徐に、歌が止む。娘は、どこか虚ろな眼差しを、真紅に向けていた。

 
 
「――貴女は……だぁれ?」

 
訊ねる彼女の右眼は、血に塗れた包帯で覆われていた。
 
 
  ~   ~   ~
 
 
――同時刻 スターリングラード某所

 
煌々と照明の点された室内には、異様な雰囲気が漂う。
薬品の匂いと、饐えた臭い。ガラス管を渡ってゆく気泡が、こぽこぽと笑う。
ある場所では、しゅうしゅうと立ち昇った蒸気が、室内に溶けていく。
別の箇所では、ぽん! ぽん! と、何かが吹き出る音が響いていた。
立ち並ぶ巨大な七つの円筒水槽は、見る者に水族館を彷彿させるだろう。
けれど、水槽の中には、生物の影など全くない。
ただ、薄気味悪い液体が満たされているだけ……。

 
 
その部屋の一角。
純白の診察台の上に、息を呑むほど美しい娘が、全裸で横たわっていた。
瞼は閉ざされているものの、胸の双丘は、規則正しく緩やかに上下している。
健やかな寝息を立てる娘の様子を、診察台の脇に立ち、見下ろす人影が――ふたつ。
どちらも白衣を纏い、口元にはマスクを着用していた。

 
「いよいよですね、フォッセー博士」

 
メガネを掛けた黒髪の人物が、たどたどしいフランス語で、対面する人物に話しかける。
博士と呼ばれた若い女性、コリンヌ=フォッセーは、こくりと頷いて、返事をした。
 
「あなたの協力には、本当に感謝しているわ。
 いよいよ…………あの人の理想である『アリス』の時代が、幕を開けるのよ」

 
二人の会話を、夢の終わりを告げるヒバリの声と聞いたのか――
娘の瞼が、す……っと見開かれた。
 
 

最終更新:2007年10月14日 01:50