オディールさんは、揺れる瞳で、僕を見つめていた。
情けない話だけれど、その目に射竦められて、僕は声も出せなくなっていた。
彼女が、掠れた声を絞り出すまでは――
「どうして……二年なの?」
「――実は、僕の受け持つクラスに、素晴らしい才能を持った生徒が居るんだけどね……
ある時、彼のココロを、深く傷つけてしまったんだ。僕の軽挙妄動によって。
良かれと思ってたんだ。こんなにも優秀な才能は、もっと広く評価されるべきだ、と」
「……けれど、彼は注目され、批評されることを望んでいなかった?」
「そうだね。彼は同年代の子たちより、感受性が研ぎ澄まされ過ぎてたんだと思う。
誰よりも純粋に物事を捉え、誰よりも繊細な方法で表現できた――
だからこそ、彼の造る物はどこか儚げで、それゆえにピュアな輝きを放っていたんだ」
「純粋にして繊細……針の上に置かれたコインみたいに、絶妙のバランスですわね」
「うん。衆目がもたらす風に揺らされたのは、コインか、針か。それは分からない。
どっちにしても、彼の鋭敏な感覚は、堪えきれなかった。
ココロを閉ざして、不登校になって……昨日も、君と会う前、彼を訪ねてたんだよ。
これはね、僕なりのケジメなんだ。ただの独善かもしれないけど、それでも――
彼に立ち直って欲しいし、立派に卒業してゆく姿を、ちゃんと見送ってあげたいんだ」
「そのための、二年でしたのね」
「待っててくれるかい?」
ひとつ頷いて、彼女は鼻を啜りながら、はらはらと涙を流した。
「ホント、バカみたいだわ、私。早とちりして、勝手に怒って……あなたのこと、バカ、だなんて」
「実際、バカだからね。もっと早く返事してあげられなくて――本当に、ごめん」
「いいんです。あなたは、こうして……ちゃんと来てくれたから。
でも、そうね。二年も待たされるんですもの。この場で、契約してもらわなくっちゃ」
そう言うが早いか、彼女は泣き顔のまま、僕のネクタイを掴んで、グッと引っ張った。
思わず前のめりになった僕の唇に、柔らかな感触が吸い付く。
とても情熱的で支配的ながら、どこか、献身的ないじらしさを感じさせるキス。
その瞬間、僕の胸に、江ノ島で鳴らした『龍恋の鐘』の音が、鮮やかに甦った。
「ふふ……もらっちゃった。契約の証」
「――まいったな。こんな所で、こんなこと……心臓が破裂しそうだ」
「私も。すごく、ドキドキしてます」
周りの人の目が気になって、正直、死にそうなほど恥ずかしい。
だけど、涙も拭かずにはにかむオディールさんを見ていると、幸せな気持ちが募って……
このまま帰したくない。そんなワガママが、喉まで出かかっている。
僕は、それを言う代わりに、彼女の肩をしっかりと抱き締めて、もう一度キスをした。
完全な不意打ち。オディールさんは、僕の腕の中で固まっていた。
「契約は、相互信頼の元に結ばれるものだよ。だから、これでカンペキだね」
「…………もぅ……バカぁ」
彼女は、顔ばかりか肌まで朱色に染めて、また、啜り泣いた。
僕を見上げる潤んだ瞳。形のいい鼻梁。キスしたばかりの唇は、ひときわ紅く濡れている。
更に、その下――すらりと尖った顎のライン越しに見えた奇妙な色合いが、僕の目を惹いた。
オディールさんの喉に、三日月状の痣が浮いていた。気道の左右に一本ずつ、向かい合うように並んで。
どうやら肌が上気したときだけ現れる古傷みたいだけど……なんだろう? 歯形……みたいな?
僕の視線の先に気づいたらしく、彼女はさりげなく襟元を手で覆って、顔を伏せた。
「あ、あの……私、そろそろ行かないと」
「タイムリミットか。じゃあ、仕方ないな」
「ねえ。毎日とは言いませんけど……四日に一度くらいは、連絡してくれる?」
「二日に一度、電話するよ」
僕は言って、オディールさんの手に、お土産の夫婦饅頭を渡した。
彼女は、本当に嬉しそうに笑って、その包みを胸に抱いた。
「約束ですよ。ずっと、ずっと、夢でも現でも、いつでも待っていますわ。
もしも私を裏切ったりしたら……黒い天使さんが、お仕置きに行っちゃいますからね」
「おいおい……。笑顔で、さらっと恐いこと言わないでくれよ」
「このくらいは契約の内でしょう? うふふ……今から、とっても楽しみです。
あなたは、私に――どんな色を着けてくださるのかしら」
どういう喩えだろう? ボディペイント? それとも、あなた色に染めて――って意味なのか。
うーん。いまいち、女の子の気持ちって解らないなぁ。
だけど、そんなコト言われて、悪い気はしない。むしろ、嬉しかった。
僕らは、置きっぱなしになってる彼女の荷物を取りに戻った。
キャスター付きのスーツケースと、機内持ち込み用と思しい黒い鞄。
彼女は黒い鞄の方に、夫婦饅頭をしまい込んだ。
その際、チラッと――鞄の中に人形みたいな影が見えた……気がしたけど、目の錯覚かな。
オディールさんの搭乗手続きも終わり、僕らも、いよいよ別れなければならない。
なのに、こんな時に限って、僕の頭は巧く働かない。
気の利いた台詞のひとつも思い浮かばず、かと言って、さよならだけじゃ物足りなくて――
せめてもの時間稼ぎとばかりに、僕は彼女に問いかけていた。
「結局のところ、ローザミスティカって、なんだったんだろう。君は、どう思う?」
なんともまあ、色気も何も、あったもんじゃない。
もっと、この場に相応しい話題が、ありそうなものなのに。
でも、彼女は、呆れたり、嫌な顔もしないで、答えてくれた。
「古い写真を収めたアルバムみたいなもの――では、ないでしょうか?
現代風に言うと、デジタルカメラのメモリカードに、近いかもしれませんね。
そこに収められていたのは、実の父に対して偏執とも言うべき愛情を抱いてしまった娘の、断片的な記憶で……
ある種のパスワードに反応して、目覚めてしまったんじゃないかしら」
「ローザミスティカを呑んだ雪華綺晶は、それによって狂わされた、と?」
「……さぁ? ただの推測です。今となっては、確かめようもありませんし」
「まあ、そうだよね」
あれこれ気を回したところで、過去を書き換えることなど、誰にもできはしない。
大切なのは、今を生きて、これからを切り開いてゆくことだ。
肝心なところで思慮の足らない僕のことだから、この先も、いろいろと失敗するだろう。
誰かを傷つけてしまうことも、あると思う。
だけど、それを怖れて立ち竦みたくはない。それが、僕の生き様だから。
失敗したら、次は成功するように、努力すればいい。傷つけたなら、ケアすればいい。
挫折と克服。人生なんて、その繰り返し。その程度のことでしかないと、思っているから。