アットウィキロゴ

夕暮れ時の平等院は、黄金色の西日の中に、黒々とした影となって建っていた。
俺たち二人の前に広がる阿字池を、鴨の親子が泳いでいく。
サディクが眩しそうに目を細めて、帽子のひさしを深く引いた。
「ミヤビだ……」
そう呟く彼の横顔には夕日が差し、彫りの深い顔立ちが強調されていた。

サディクは中東の国からやってきた、俺の同期生だ。
言語学を専門にしていて、アラビア語、英語、フランス語、日本語を話す。
出会ったばかりの頃は彼の日本語がまだ初級レベルだったため、よく英語でコミュニケーションを取っていた。
しかしもともと勤勉な性格の彼は、1年後には古典文学にも手を出すようになった。
明治・大正の近代小説から遡り、江戸時代の戯作、竹取物語に源氏物語、果ては万葉集や古事記まで。
国文学科に在籍している俺は、彼のために現代語訳をしたり、文法の解説をしたりと、
自分の知識をフルに活用して世話を焼いてやった。
代わりにサディクからは、あのアラビアン・ナイトについて教えてもらった。
1001夜に渡って語られるこの物語を、アラブの血を引くサディクが語る。
なんて贅沢なんだろうと思い、胸が弾んだ。
そうやって俺らは互いに異国の文学を学びあい、それぞれの文化に触れていった。

ある日彼は日本文学史の年表を広げながら、ヘイアン時代が一番好きだと言った。
「マクラノ草子はとてもユニークなエッセイだし、
 コンジャク物語の背景にはアラビアン・ナイトに通じるものを感じるね。
 ゲンジ物語やイセ物語は、なんだかもう全てが美しいよ。実にミヤビな文学だ。」
彼は年表に書かれている作品名を指し、人差し指で線を引いた。
もう常用漢字は大体読めるらしい。語学センスがあるのだろう。
「雅か、今はあまり使わない言葉だ。サディクの語彙は本当に幅広いな」
俺が言うと、サディクは柔らかく微笑んだ。
「だってマサの漢字だろう」
マサカズのマサはミヤビ、カズは数字の1。
初めて会った時に、俺は自分の名をそう説明したのだった。
「だから“ミヤビ”は、僕が日本に来て一番に覚えたカンジなんだよ」
「ああ、それなら俺も同じさ。初めて知ったアラビア語だ、“サディク”」
もっとも今は、友達――サディク――以上の関係になってしまったのだけれど。

そして俺たちは、平安文学の世界を求めて京都へやって来た。
二人きりの卒業旅行だ。一週間後にサディクは母国へ帰る。
出発前に話し合って、感傷的にならずに最後まで楽しもうと決めた。
多くの寺院をめぐり、懐石料理を食べに行き、様々な話をした。
たわいない思い出話も、真剣な議論も、俺たちにとっては貴重な時間だった。
最後に平等院に行こう、と言い出したのはサディクだった。
美しい庭園や貴重な文化財を見ることができると思い、すぐに賛成したのだ。


ああ、本当に終わるんだ。
サディクの横顔を見た瞬間、そう思った。
この旅もこの恋も今日で最後なのだという実感が、夕日と共に押し寄せてきた。
彼が帽子を深くかぶったのも、たぶん似た理由からだろう。
今さら何を泣くことがある。わかりきっていたことだ。
俺たちは素晴らしい時間を分かち合った、それで充分じゃないか。
頭ではわかっているのに、感情が追いつかない。
それほど俺らを包む風景は美しかったのだ。

「雅だな、サディク」
「うん、一生忘れないよ」

彼の鼻声が耳に響いた。
ああ、俺だって一生忘れられないだろう。
彼の縮れ毛や、乾いた肌、優しいまなざし。絶対に忘れやしない。

「ありがとう、マサ」
「こちらこそ、サディク」

真っ赤に熟れて沈んでいく太陽を切り裂くように、一羽の鴨が飛んでいった。


タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2009年03月29日 14:55