冬の海

 月のない夜のことだった。
砂浜と海と空の間にある境界は、星達が届かないところへ行ってしまっていた。
空は穏やかなのに、俺の部屋のすぐ下に広がる海は何故か荒れていた。
爺ちゃんはそんな波の様子を見ると、読みかけだった俺の漫画を仕舞い、黒電話の前から離れなくなった。
しばらくして、夕飯に呼んだ春樹が来れなくなったことを告げられた。
がなる黒い飛沫は、どろどろとして生臭そうだった。

 いよいよ轟々と打ち寄せる波に集中力をさらわれた俺は、宿題の手を休め、ついでにココアを取りに行こうと席を立った。
その腰を浮かせた一瞬、結露で濡れた窓の向こうに、荒波の中を沖に向かって進む人の姿が見えた。
「……春樹?」
 嫌な確信がよぎって、俺は混乱した。
闇の中に春樹だけが見えたことは、全く不思議に思わなかった。
 どうしてあんな危ない海に!春樹が死んじゃう!!
 気が付いたら、足が爺ちゃんの部屋に向かっていた。
「爺ちゃん!海に春樹が……っ」
 俺は言葉を失った。
勢いよく左右に開けた襖の奥から、幾つもの目がぐるりと向けられたからだ。
大して広くない座敷は、村の大人達でいっぱいだった。
その中心に爺ちゃんはいた。
爺ちゃんは、俺を見すえたまま何も言わなかった。
ほかの村人達も、それに従っていた。
じっとりとした沈黙を破ったのは、爺ちゃんの隣に座る父さんだった。
「和哉、部屋に戻りなさい」
「でも春樹が」
「戻るんだ」
 俺に足掻く余地はなかった。
春樹の父さんと母さんの目は、真っ赤に腫れていた。

 次の日の朝、馬鹿みたいに海は澄んでいた。
空っぽの胃が無性にむかついた。
あの夜から、春樹は姿を消した。
右隣の違和感が気にならなくなった頃、通学路に地蔵が一つ増えた。

 あれから七年経った今日、春樹の葬式が取り仕切られた。

春樹はとうとう見つからなかった。
大人達も、捜そうとしていなかった。
 爺ちゃんは二年前に死んだ。
「あの子は、魅入られてもうた。海に気をつけろ」
 そう呟いて目を閉じると、二度と起きてこなかった。
父さんと母さんは相変わらず何も教えてくれない。
 春樹を取り込んだ海はすっかり穏やかになった。
いつしか俺は、家をたびたび抜け出して夜の海に身を浸すことを覚えた。
海水の冷たさが馴染むと、春樹と手を繋いだ時の温かさを思い出して、全身に痺れが巡る。
俺はいま春樹のなかにいる。
この錯覚が唯一、親友を失った感傷を慰めてくれるのだった。


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最終更新:2012年03月04日 23:29