我が生涯において、主はただ一人だけである。

母と兄弟を失い、独り雨の中で途方に暮れていた私を拾ってくれたのが、我が主だった。
自らが濡れるの厭わずに私を抱きかかえてくれたあの胸の温かさは、今でも覚えている。
幼い私が主の許にやって来たとき、彼にはすでに8人の弟子がいた。つまり、私は9番目の弟子というわけだ。
私の名が「クロ」であるのは、ただ毛の色が黒いからだけではなく「九郎」という意味も交えた主の洒落であるらしい。
「先生はクロだけには甘いんですよね。いつもニコニコ笑って撫でてばっかり」
「クロは叱る必要がないからな。賢いし、我慢強い。勤勉で同じ過ちは繰り返さない。どこかのシロ君にも見習ってほしいものだ」
「ああもう、だからその呼び方はやめてくださいよ!」
「いいじゃないか。クロにシロ、丁度よい組み合わせだ。なあクロ、お前もそう思うだろう?」
主が笑いながら私の頭を撫でたので、私は尻尾を振って応える。
それを見て士郎――15番目の末弟子で、私と共に住み込んでいる――は子供のように頬を膨らませた。
「そうやって二人して僕を馬鹿にして……いいですよもう。僕は夕飯の買い物に行って来ます!」
「ああ、だったらクロも一緒に……」
「いくら僕でも、買い物くらい一人で行けますよ」
低い声で言い返す士郎に、主は穏やかに微笑みかける。
「分かっているよ。買い物のついでに、散歩をしてきてくれないか」
今日は連れて行けそうにないのだ、そう言った主の顔を私は見上げた。

主は不思議な人だ。
私達の言葉は人間には通じない筈なのに、主は私の言葉を理解することが出来るらしいのだ。
言葉を発していないときですら、私の気持ちを察してくれることもある。

今も顔を上げた私にすぐ気付いて、私の目を真っ直ぐ見つめ「すまないな」と眉尻を下げている。
そしてまた士郎を見て「夕飯までまだ時間はあるから、構わないだろう?」と言った。
言われた士郎は不貞腐れた表情をすぐに引っ込めて、素直に「分かりました」と頷いた。
(こういった彼の切り替えの早さ、素直さは美点であると、主が密かに語ってくれたことがある)
「でも珍しいですね。先生がクロの散歩に行かないなんて」
部屋の箪笥から財布を取り出しながら、士郎は首を傾げている。

「ちょっと頼まれた急ぎの書き物があってな」
そう言ってから、再びこちらを見て「士郎と行っておいで」と私の頭と背を撫でる。
本音を言えば、散歩などに行くよりも主の傍に控えていたかった。
だが、そんな優しい表情で言われては、我侭が言えなくなる。

本当は「頼まれた急ぎの書き物」など無いと知っているのに。
ここ一月ほど、主の身体の調子があまり思わしくないことを知っているのに。
士郎と共に裏庭を出る間際に後ろを振り返ると、主は微笑みながらこちらに手を振っていた。
――主と共に在る時間は、あとどれくらい残されているのだろう。



我が生涯において、主はただ一人だけである。他の誰にも仕えるつもりはない。
主が新しい場所へ旅立ったのなら、それを追いかけていくのが道理であろう。
しかし、と私は思う。
今、私を抱き締めたまま声を殺して泣いている、この男を置いていくこともできない。
私は少し頭を動かし――士郎は私の身体をぎゅうぎゅうと抱き締めていたので
少し動くのにも骨が折れたが――、彼の頬を舐めてやる。
士郎は驚いたように私の顔を見つめて、また顔をくしゃくしゃに歪めた。
「情け無いなあ……僕よりクロの方がよっぽど強い」
私はお前の兄弟子なのだから当たり前だ――小さくそう吠えると、不思議なことに士郎は応えるかの如く微かに頷いた。
「そうだね、しっかりしないと……これじゃあ、先生に叱られる」
自らに言い聞かせるように呟きながら、手の甲で目元を拭っているが、涙はあとからあとから溢れてくるようだ。
やはり、このまま放ってはおけまい。
この男が一人前になるまでもう少しの間、私は彼の傍についていてやろうと決めた。
彼のことを誰よりも案じていたのは主であり、それを誰よりもよく知っているのが私なのだ。主の想いは私の望み。

我が主、貴方の元へ行くのはもう少し先になりそうです。
しばしの間、そちらでお待ちくださいますか。

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最終更新:2015年11月22日 02:40