最終版

新島の同志社設立までの歴史と思想から初期の同志社を考える。

天保14年1月14日(1843年2月12日)、江戸の神田にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれる。本名を七五三太(しめた)と言う。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説があります。 また七五三(しめ)飾がしてあったので、この名前になったという説もある。
元服後、安中藩士となるが、1864年、21歳のとき、国禁を犯してのアメリカ合衆国への渡航を計画する。江戸城にほど近い武家屋敷街で育ったがゆえに、ペリーの来航をきっかけに、転換期をむかえた時代の雰囲気も皮膚で感じるものがあった。
「欧米の科学・技術はすさまじい。日本の国家独立のために、外国に学んで、遅れをとりもどしたい」
 ペリーの軍艦に衝撃を受けた当時の新島は考えた。
 江戸湾に碇泊しているオランダ軍艦をみたときの衝撃が、密航へとむすびつくのだが、新島はすぐには決行しなかった。
 密航にいたる道のりは、あくまで慎重であった。まずオランダ語と英語を学ぶことからはじめ、幕府の海軍伝習所に入って航海術を修めている。さらに備中松山藩の機帆船にのりこんで航海実習も重ねている。密航を決意したときも函館までいった。アメリカ商船に乗船するときも、自分の志に共鳴する知人を通じて船長に同意をもとめている。日本脱出の地として幕吏の眼がとどきにくい函館をえらんだこと、民間商船に眼をつけたこと、きわめて計画的な行動だった。
渡航に向け函館に潜伏中、当時ロシア領事館の司祭だったニコライと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ新島に自分の弟子になるよう勧めたが、新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ新島の密航に協力した。
1864年7月17日、函館から米船ベルリン号で出国する。船中で船長テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」、「襄」と名乗った。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、1865年7月ボストン着。アメリカに渡った新島襄は、ボストンの実業家ハーディーの支援をうけて、アーモスト大学、アンドバー神学校で学ぶことができた。襄が眼のあたりにしたアメリカは南北戦争直後であった。奴隷解放を実現、さらにヨーロッパ文化圏からはなれて独自の路線を歩みはじめていたころである。とくにボストンを中心とするニューイングランドは、アメリカでも最も活気にあふれていた。なによりも自由・自主・自立・独立の気風にみちていた。

 先進国の科学・技術という表面的なものにあこがれていた襄は、『どうして、こんなすばらしい国ができたのだろうか』と考え、だんだんアメリカ文明の背景に眼をむけるようになっていった。
 アメリカという国を築いたのは、きっとデモクラシーの精神とピューリタニズムにちがいない。襄はそのように考えた。
 諸外国の侵略から日本を守るためには、欧米諸国の先端技術を導入するだけを考えていてはいけない。アメリカをつくった精神を日本の若者に伝えなければと、新島襄は考えたのである。 
1874年アンドーヴァー神学校を卒業する。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の約束を得る。11月横浜に帰着。旧主家の板倉氏が京都所司代を務めたこともある関係で、新島家は公家華族とも広く親交があった。1875年11月29日、親交の深かった公家華族の高松保実より屋敷(高松邸)の半部を借りれたので、校舎を確保することが出来、京都府知事や、当時、府顧問であった山本覚馬の賛同も得て、同志社英学校を開校し初代社長に就任する。開校時の教員は新島襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒は8人であった。同志社英学校の開学はアメリカン・ボードにとってみれば、日本で伝道に携わる日本人伝道者の養成機関の設立ならば、願ってもないことであった。しかし新島が山本覚馬と結社し、J.D.ディビスを雇うかたちを取って開学した同志社英学校は、「キリスト教主義大学」を構想していた。新島はこの学校を単なる伝道者養成機関ではなく、キリスト教に基づいた最高レベルの教育を与える学校にしたいと考えていたのである。

教育者としては大隈重信とも親交があった。今日同志社大学と早稲田大学の間で学生交流制度があるのはそのためである。
1884年4月、2度目の海外渡航に出発する。1888年11月、『同志社大学設立の旨意』を全国の主要な雑誌・新聞に発表した。
1890年1月23日、募金運動中に前橋で倒れ、静養先の神奈川県大磯の旅館で、10か条の遺言を託して死去する。47歳であった。1月27日、チャペル前で葬儀が営まれ、東山若王子山頂に葬られた。
同志社教育の原点は「良心」といえます。創立者の新島襄は誰よりも「良心」を高く評価しました。新島は9年間におよんだ欧米での生活を通して、キリスト教、とくにプロテスタントが文化や国民に与えた精神的感化がいかに巨大であるかを体得して帰国しました。そのひとつが「良心」で、これは「人間の目」ではなく、「神の目」を意識して初めて芽生えるものといえます。
つまり宗教をベースにした教育によってもっとも有効に触発されると考えられます。
新島から見て、日本の教育は智育に力を入れる半面、「心育」、今の言葉では「こころの教育」が疎かにされているといえます。
新島には、人は宗教的教育により「良心」を植えつけられてようやく「人間」となる、との信念がありました。
同志社大学から「精神なき専門家」(マックス・ウェーバー)や、「良心なき逸材」を生むつもりはありませんでした。「同志社大学設立趣意書」で、「一国の良心」を育成したい、と謳ったのもそのためといえます。新島は一学生への手紙の中で「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の起り来(きた)らん事を」、つまり良心が全身に充満した青年が現れることを望んでやまない、と書いています。
この一節は、新島が期待する生徒像を鮮明にあらわしています。この言葉は「良心碑」に彫られ、同志社大学正門近くを始め、日米に6基存在しています。
「良心教育」は同志社がめざす教育理念です。
新島襄の目指した「一国の良心」を目指す教育は、精神と品行を陶冶する活力を身につけ、知識の修得だけでなく、良心の芽生えを促す キリスト教主義、自ら行動する力を育み、一人ひとりに自分の可能性を気づかせる自由主義、外国語を話せるだけでなく、異なる価値観を受け入れ、そこから「何か」を見出せる人を育む国際主義の三つから成り立っています。

創立者新島襄は、周りに流されるのではなく、自分なりに正しい考え方を持ち、変革を自ら実行する人物を育成しようと考えました。そして、このような「一国の良心」となる人物は「キリスト教主義」によってはぐくまれると信じ、キリスト教主義に基づく教育を同志社の基本的な方針として実践してきました。
新島襄は、アメリカでの自らの経験に基づき、キリスト教を徳育の基本においたキリスト教主義教育の必要性を痛感し、同志社英学校を設立しました。その時新島が蒔いた小さな種は、 130年以上を経た今も同志社全体の中に受け継がれ、同志社小学校にも生き続けています。同志社はキリスト教主義に基づく学園であり、キリスト教徒を育成するいわゆるミッションスクールではありません。
毎朝の礼拝、そして全学年で行う宗教の授業のみならず、他のあらゆる教育の場面を通じて、キリスト教主義精神を実践していくことが大切だと考えているのです。そこには、新島が掲げた「良心教育」、また「人ひとりを大切にすること」が具体的に表現されてます。
また、同志社に受け継がれる、 適儻不羈(てきとうふき)という言葉は、才気がすぐれ、独立心が旺盛で、条規では律しがたいことを意味します。同志社では一方的に指導するというスタンスではなく、生徒の可能性を信じて、個性を大切にし、一人ひとりが自発的に行動して自分の力を発揮できるよう努めてきました。真に自由な人とは、他人から言われて行動するのではなく、時代の雰囲気に流されず、自らの責任と自らの良心にしたがって振る舞うことのできる、しなやかな心をもった人のことを指します。けっして自分勝手に振る舞う人のことではありません。これが同志社の考える「自由主義」であり、キリスト教の考え方をもとに新島が大切にしていた「自治自立」の精神です。
新島襄はアメリカでの勉学や視察を通して教育の重要性に目覚め、同志社を設立しました。そのような歴史を持つ同志社では世界に目を向けて学ぶ姿勢を重視、単にコミュニケーションの道具としての外国語を学ぶだけでなく、世界の文化にふれ、世界を学び、世界のさまざまな国の人々や文化と自然な形でふれ合うことにより、自国の暮らしや文化、あるいは自己をしっかりと見つめなおすことのできる幅広い視野、そして「人ひとりの大切さ」を基盤として、自分とは異なる意見や、集団に属さない少数意見に耳を傾け、互いに違うことを認め合える、真の国際人を養い、お互いの違いを認め合う学びを実践したのです。
最終更新:2008年01月19日 10:53
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。