まだ本当の意味での外に出た事の無い、小さな勇者である、子供のころ。
前日に、彼女に微笑みを投げかけるような色彩豊かな自家の庭の前で、雨にも挫けずに丹念に剣の素振りを行っていた少女は、心挫けずとも体が挫け、自室で寝込んでいた。
普段、時計の針が半周するほどの長い時間を布団で過ごした事の無かった少女は、
外に出られないもどかしさを切に感じ、自らの弱さについて切に省み、そのせいあってか彼女はなかなか睡魔とは無縁の関係が程暫く続いていた。
ごろんごろんと、冷たさを失った布団の中で、何度も何度も寝返りをうち、やがて心地よい眠りが彼女を包み始めた時、少女は何の気なしに状態を仰向けに戻した。
すると、どうだろうか。今までは気付きもしなかった、天井に得体の知れない物がいることに少女は突如気がついた。そこには少女の目から見たら、可笑しな顔をした“異形の者たち”がいた。
それは、誰の目からも動いていないように見えながらも、自分を襲わんばかりに今や今やと天井の中で蠢いているように少女には感じられた。
少女は独り、慄いた。
顔の形をした魔物が、果たして天井のシミや模様によって見える錯覚だと、当時の少女は気付くことはなかった。
彼女は一瞬でも怯えた気持ちを追い払い、たくさんの顔が蠢いている“異形の者たち”に言葉を語らずして、
自分の寝床に、そして万が一にでも自家に舞い降りて襲ってこないよう、目で彼等を牽制した。
数刻の後、少女は人知れず、高揚感に似たものを感じた。
剣の師から褒詞を賜ること、同年代の異性を自らの実力で負かした事、頭の中で瞬間的に感じたそれは、少女にとってそれらと似た気持ちを抱かせた。
自らの勇敢さに半ば満足した少女は、最も充足感を得ることができる眠りの動作に入った。天井に嫌が追うにも意識を集中させたのだ。
幼い少女がある物事に意識を長時間保たせることなど、苦に近い行いであった。
だが、彼女の研ぎ澄まされた神経は眠っても尚休むことをしらない。少なくとも、少女はそう自負していた。
瞼を閉じていても、“異形の者たち”が襲いかかってきて構わないように意識を天井に集中させていた。ふと、少女は休憩の意味を込めて、意識を手放した。
幼いながらも、自らの限界を、この少女は十二分に理解していたのである。
自然と肩にかかっていた力が、霧のように霞んでいく。彼女の瞳の中には、一面の緑が広がっていた。
今までに、数える程しか来た事がないドレス、いつか大切な人にこの姿を見せる日は来るのだろうか、
それを見につけた少女はそのような思いを頭の中に霞めながらも、緑の中を走る。
終わらない緑、
いつまでも、いつまでも。
長いような、短いような時間。
次に重い瞼を自らの意思で開けた時、視界には穏やかな笑顔を浮かべた母と、この世で最も幸福感を得ることができる母からの抱擁が待っていた。顔いっぱいに広がる母の大海原から、天井を垣間見ることはできなかったが、少女はそれを行おうとはしなかった。なぜか。
少女は母の胸の中で確信したのだ。
私は勝ったのだ。
一歩も動かずとも、敵を打ち破ることが私には可能なのだ。
風邪、という単語を聞くと、騎士アグリアスは幼少期の体験として以上のことを、言わずとも思い出すのである。
――――― Antipyretic ―――――
巨蟹の月の2日目。その日は、騎士アグリアスの生誕日の翌日にあたる。
前日までの貿易都市ドーター周辺の特有のカラッとした天候は鳴りを潜め、
その日は、どす黒い雨雲からまるで異星人の襲来とばかりに放たれる強烈な雨の雫が、ラムザ一行の宿泊する宿の窓に容赦なくうちつけていた。
ムスタディオを始めとする男性陣からの贈り物、祝辞、苦楽をともにした仲間からのお祝いの花束などをもらい、人生で一番の幸せな瞬間を噛みしめていたアグリアスだが、
日を跨ぐに従って、アグリアスの体調と機嫌は次第に雨模様となっていったのであった。
そして、まるでアグリアスが雨雲を、焼き酒に付き合わせるために呼び寄せたかのようにドーター市街に悲しみの雨がシトシトと、
そして突然怒りにかわったかのように盆をかえしたような降りになって今にいたるのであった。
そして、幼い頃寝込んでいた時と同じように、アグリアスは額に濡れ布巾を乗せながら、今、天井を迷いなき目で見つめていたのであった。
アグリアスは布団の裾を顔に近づかせた。
天井に潜んでいるこやつらは私が何度追い払おうとも、私が寝込んでいる隙を見つけてはすぐにその姿を現す。
襲ってはこないものの、いつでも気を張りつめておかないといけない。
顔の半分を布団に隠しながらも、三つ編みを下ろしたブロンドの髪の間から覗いている二つの瞳だけは天井にしっかりと向けたまま、アグリアスはそのように思った。
アグリアスの寝床での宿敵が今日も天井に顔を覗かせていた。彼女はその存在に気づくや否や、すぐさま自分が寝込んでいる部屋の天井全てを見まわした。
その数はおよそ60。
天井に張り付いている顔の数のことである。
騎士は常人が驚くほどの速さで、すぐさま敵の数を確認するに至った。
敵を知らないことには戦略を立てることなど不可能であるのだ。騎士は風邪にうなされながらも、自らの騎士としての仕事を見事に全うした。
アグリアスは、枕元に立て掛けてある愛剣に手を伸ばすような事はしなかったが、あくる日の再現のように、目で“異形の者たち”の牽制を続けた。
アグリアスの両の目の先には、60もの敵の中でひと際顔の形が大きく、“ひょっとこ”のように左右に顔がくしゃりと曲がった、ひと際目につく下賤な顔を持った異形の者の姿があった。
彼女は寝床の上から、それを数ある敵集団の中の親玉と推測した。たとえ風邪で寝込んでいようとも、騎士は冷静にそして瞬時に敵の内状を見極めなくてはならないのだ。
アカデミー時代に教官から教わった訓示が実践されている瞬間であった。
辺りからの音が一瞬途絶えたようにアグリアスは思えた。
時が静止したようであった。
そんな事態にも、アグリアスは目をカッと開いて天井を見続けた。傍から見れば十分に危険な行為ではあった。しかし、たとえアグリアスの傍に第二者が立っていたとしても、彼女を止める事は出来なかったに違いない。
それほど、彼女は余すことなく、戦士特有の気を放っていた。
その後、それを打ち破るように響いてきた音は、窓に叩きつけるように降っている雨音だった。
自然の摂理からすれば、雨音が聞こえるのは当然のことであるが、アグリアスはその音に心を揺らされたかのように酷く驚いた。
もしかすると、自然の摂理ではなく、アグリアスの尋常ではない様子に、心配をして雨音で窓を叩いたのかもしれない。
万物の自然とは、総じてお節介な性格をしている。
昔の書物にそのように書かれていた文章を、アグリアスは読んだ事があった。
途端に聞こえ始めた雨音が、先程まで少しの休暇をもらっていた彼女の耳の中に広がっていった。
彼女は幼いころ、中耳炎にかかったことがあったが、その片鱗ともいえる痛みが瞬間的に彼女を襲った。
ふと、アグリアスは視線を天井から逸らした。
敵の圧倒的な数の前にさしもの騎士も恐れをなしたか、
はたまた天井の事を投げ出すほどの痛みであったのか。
果たして、前者でも後者でもなかった。
彼女は、急にこの遊びが馬鹿らしくなったのである。
幼いころ、少女は病気で寝込むと必ずと言っていいほど、天井を見上げては“異形の者たち”を睨んだ。
少女アグリアスは初め本当に天井には魔物の類が住み着いているものであると思い込んでいた。
その家屋の住人に天井に潜む魔物討伐の案を出したことは、元来、正義感に熱い彼女からすれば、想像に難くない出来事であった。
その夜、少女一人で過ごすには不釣り合いなほどの大きさをほこる自室のベッドの上で、彼女は今日の自分の愚行をしきりに恥じた。
羽毛の布団を頭まですっぽりとかぶり外の世界から、正確には天井にいる忌々しい魔物と同じ空気を吸わないように、自分の殻に閉じこもった。
その結果、何の罪もない枕がおおよそ窒息するかのような勢いで彼女にきつく抱きしめられながら、彼女と夜をともにすることとなった。
質素で殺風景ながら生活の最低限を取りそろえるために端に置かれていた肩身が狭い家具たちからは、恐らく遠慮がちな悲鳴があがったに違いない。
顔から火が出る思いを、少女は初めて感じた。
それとともに、少女は誰に宣言するでもなく堅く誓った。
もう二度とあのような馬鹿げたことは言わない、と。
しかし、誓約を終えた彼女が布団の中で三度目の寝返りをうった時、こうも思い始めた。
別に、他人に口外しなければいい。
この馬鹿げた楽しみを、自分だけの楽しみにすればいいのだ。
少女はハッとした気持ちで、自分の殻を破り、勢いよく天井を眺めた。
そこには相変わらずギラギラと視線をぎらつかせた下賤のような顔を持った魔物たちがひしめいていた。
まるで自分の考えが全て見透かされているようなそれらの目に、少女は内心で怒りを覚えながらも、前と変えることなく目でそれらを牽制した。
その日から、少女が魔物たちを睨む度合いはそれまでと比べて、穏やかにして力強くなった。
ちなみに、一旦は少女の手から離れ九死に一生を得た枕は一息つく間もなく
すぐに自らの考えに満足感を得た少女に先ほどよりもきつく、きつく、抱きしめられることとなった事をここに捕捉しておく。
以来、彼女は風邪という単語を聞くと、
寝込むことによる苦しさと、その中で生まれるほんの少しの暇つぶしに心を躍らせる気持ちを思い出すようになったのであった。
先日、大地に足をつけてから23年目を迎えた彼女は、この暇つぶしにいい加減飽き飽きとした気持ちを抱いたのであろうか。
周りから見れば、はたまた奇妙な事を彼女は行っているものである。
彼女は状態をうつ伏せにした。
湿度の影響か、木造の部屋からは微かにお互いを押しあうかのような、こそばゆい音が響いていた。
仲間たちの声は聞こえてこない。朝食の直後なら、今は広間で会議を行っているに違いない。本当なら、その場に私が、ラムザの隣に…
彼女はそこで、誰に対するわけでもなくかぶりをふった。
そして両手で枕を益々顔に近づけた。今日の生贄は彼であろうか。
魔物たちの顔をこれ以上凝視していたくなかった事もあるが、別の要因で彼女はまた自分の殻に入ろうとしていた。
彼女は暫く、一人心の中でごねていた。
顔の二倍の面積はあるであろう枕に顔を押し付け、誰にも聞こえないほど小さな声で、しかしはっきりと、こう呟いた。
――ラムザの、バカ。
隊の長たる、青年ラムザが並み相応の感覚を持ち合わせてはいないということはラムザを知る者からすれば、周知の事実であった。
詰まる所、彼は鈍感であった。
彼の鈍感さには度々、頭を捻る者、彼の脛をけり上げる者、枕に泣きごとを言う者が現れ、自覚がないまでも周りを振り回していた。
参考までに、該当者は一名である。
その該当者はある時、周りの者に、自らの隊の長への気持ちを尋ねられた時に、こう声高に公言した。
――ラムザは隊の長で、あくまで私はその片腕だ。万が一でも、そのような立場にいる者が、その、そういった関係を持つことは好ましくない。
第一、私はラムザを人柄の良さ、統率力、戦略面の発案家という点で尊敬している。
単純にそのような好いた気持ちを向けているわけではないことをここに言わせてもらおう。
アグリアスを良く知る者も、知らぬ者も、彼女の口から出た言葉が真意であるとは誰も信じてはいなかった。
ただ一人の、愛想をふりまく朴念仁を除いて。
ラムザとアグリアスはお互いを憎からず思っている、と常時変わらず下馬評は上がっていた。
噂に違わず、確かに二人はお互いの事を特別な思いで見つめていた。
見つめていた、だけである。
そんなある時、色恋関係に敏い部下二人にけしかけられるように、アグリアスはラムザと、戦略面関係以外の、下心ある話を漕ぎつけるに至った。
――今日は空が綺麗だな。どうやら明日も、この天候は続きそうだ。
――へえ、アグリアスさんは明日の天気がわかるんですか?
――うむ。風と雲の向き、それとボコの毛並みの具合でだ。天気が崩れる直前だとボコの毛並みはゴワゴワとした触感になるんだ。晴れているときはサラサラと。
――すごいですね、アグリアスさん。
――いや、騎士たるもの明日の行き先がわからないようではオヴェリア様の護衛など…
本来、三社が意図している話の雲行きが怪しくなってきたため、
部下の一人が、崇拝の対象である上司に向けて、傍に転がっていた木の実を投げつけた。
――アグリアスさん!?うずくまってどうしたんですか。
――ラヴィアン、覚えていろよ…いや、なんでもないんだ。ところで、ラムザ。明日もこの天候は続きそうなんだ。
――その話は先程聞きましたよ。
――それで、だ。よかったら、貴殿とともに、明日…
――ああ、わかりました。
――なに!?私の言うことがわかったのか?
――ええ。前にアグリアスさんが話していた、明日この町で開かれるカエル取り大会のことですよね?
――…いや、ラムザ。私の話を…
――その大会に参加したかったんですよ。是非、一緒に出ましょう。
――…ああ。
上司の方向性の違った成就に、物陰で成り行きを見守っていた部下二人は涙を流さずにはいられなかった。
それが果たして、上司の複雑な気持ちを理解できたからか、はたまたこれから迫りくる恐ろしい出来事に恐れをなしたか。
どちらにしろ、二人は次の日、顔と体のあちこちを腫らせて一行に姿を見せた。
あの二人は足からも涙を流す事が出来るのか。
長年、国を跨いでまでも人々の成り行きを肌で感じるまでとなっていた自分が、まさか新しい発見をする日が来るとは。そう言外に感嘆と恐れをにじませながら、剣聖シドはそう言葉を発した。他の仲間は目を背けた。
真相は今も不明である。
少女は今日も寝込んでいた。
そして、今日も天井の異形の者たちとの戦いを行っていた。
少女は思った。
今日は100人いる。前日より増えている、と。
少女は知っていた。これは遊びでしかないということを。
天井にへばりついている顔のようなものは天井のシミや建築材料の模様でしかないということを。
しかし、正しいはずの彼女の考えは、有り得ない出来事とともにうち破られた。
決して顔を動かすことのない魔物たちが一斉に少女へ目を向けたのである。
起こり得ない事態に、少女は目をパチクリとさせた。幼き騎士の心はどこかに吹き飛び、この時ばかりは幼く儚い少女の心が彼女の心情を占めるに至った。
そのうちに、一匹の魔物が天井からニュッと擬音が辺りに響くような顔の覗かせ方をした。
魔物の顔が外気に触れる。どす黒い、絵具の色でも表せないようなどぎつい色彩をはなっている。
最初の一匹に続くように、次々に魔物が天井から姿を出し彼女に向かって彼女にとって、最低とも言える下衆な笑いをカラカラとした。
あたかも逆立ちをしているような魔物たちの恰好は、少女の予感が正しければ、間もなく、ベッドの上に続々と降り立つことだろう。
身の危険を感じた少女は、風邪だという事を微塵も感じさせないような、驚くほどの身のこなしで半身を上げ、枕元にある剣を手に取ろうとした。
少女は途端にハッとした。
剣?どうして?
少女は自らの潜在意識に困惑した。
若干5歳を迎えた少女の枕元に剣を置くことは、いくら護衛騎士を幾度も輩出した名門オークス家といえども、まだ許可を下ろすことはできなかったのだ。
では、なぜ自分は有るはずの無い剣をとろうとしたのか?
少女は自問した。すぐに、答えを導き出した。
――そうか。これは夢なのだ。
言葉に出して、少女は呟いた。そうだ、夢に違いない。
何者も寄せ付けない気をはなっていた少女は途端に、空気の抜けた人形のように少女は起き上げた上半身をベッドにうちつけた。
弾力のあるベッドの心地よさに少女は、ほう、と息を吐き、瞼を閉じた。
自分に向かってきているであろう異形の者たちなど、すでに少女は気にも留めていなかった。
これは夢なのだ。
少女は再びそう呟いた。汗で顔にへばりついている長いブロンドの髪をかき上げた。
あれほど体が熱く汗で濡れていた服がうっとうしかったというのに、今は服が冷気をまとっているかのようだ。
少女は言いようのない心地よさを感じた。
この夢が終わり瞼を開ければ、そこには穏やかな優しい笑みを浮かべた母が待っているのである。
少女は期待に胸を膨らませ、腕を目元にかぶせた。途端に視界が暗くなる。
―― アグ…ス…。 ――
ほら、私を呼ぶ声が聞こえてきた。少女は暗闇の世界の中で、笑みを浮かべずにはいられない。
――アグリ…ん。 ――
そうだ。目が覚めたら、母の胸に飛び込んで驚かせてやろう。母が心配するまで、寝たふりを続けるのも悪くない。
そして、そして…
「アグリアスさん。」
アグリアスはゆっくりと瞼を開けた。
そこには、自分と同じ金色の髪を後ろで束ね、薄い化粧が様になっている少女の母の姿はなく、
少々頼りの無い、しかし外見とは裏腹に芯の強い瞳を携えた優男がアグリアスを心配そうに見つめていた。
「目が覚めましたか。よかった。とてもうなされていたようなので。」
アグリアスの無事を見て安堵した気持ちと、寝ている合間に無理やり起こしてしまったことに対する申し訳なさとを複雑に絡ませた表情を浮かべながら、
ラムザはベッドに横たわっているアグリアスにそう告げた。
アグリアスはほんの一瞬だけポカンとしたような表情を見せたが、すぐに緊張感ある、
否、仏頂面に表情を変えラムザに背を向けるように寝返りをうった。
「何の用だ、出発は明日のはずだろう。安心しろ、貴公に迷惑はかけぬ。明日にはこの風邪もすっかり治っている。」
アグリアスは半ば物事を投げ出すような心持で、背中越しのラムザにそう告げた。
ラムザは頬を人差し指でポリポリとかいた。アグリアスのその態度に、決して覚えがないわけではない。だが、このような弱みに付け込むかのような状況に乗じて彼女の許しを得ようとは考えていなかった。
彼は、ただ彼女の看病をする一心でこの部屋に訪れたからであった。
その裏にはアグリアスの部下である二人がニタニタ顔で暗躍していたそうだが、幸い騎士に伝わる事はなかった。
彼女等も毎回命がけでこの千載一遇の機会に取り組んでいるのである。
今のこのような状況は、事情を知らぬものが見ようものなら二人が佳境に入っているように見える。
しかし、決して二人はこのような倦怠期さながらの間柄ではなかった。
アグリアスをこのような状況に追い込んだ原因は、今アグリアスを心配そうに見つめているラムザの人柄にあった。
時間はその前の日まで遡る。巨蟹の月の一日目。ラムザ隊一行は、ドーターに宿を借り、そこでアグリアスの誕生日パーティを開いていた。
宴も酣、皆が皆、美酒に酔いしがれているときに、その日の主賓と隊の長はテラスに降り立ち、
視界では捉えきれないほど、無造作に、しかし決して雑ではなく埋め尽くされた満点の星空を眺めていた。手を伸ばせばあの星に届いていまいそうだ。ラムザはふとそう思った。
「綺麗ですね、アグリアスさん。」
「うむ。」
二人はグラスを片手に、飽くことなく星空を見つめていた。言葉で語ることはない。
誰よりも信頼しきっている二人にお互いが陳腐な甘い言葉をかけあうことなど不要な行為であった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。暫くしたのち、手元にある酒を口に含むために視線を戻したアグリアスはラムザに見つからないように頬をパンパンと叩いた。
思ってもみないような展開。彼女の心は、星空の華麗さと相まって舞い上がっていた。
彼女はこれから交わされる自分と彼の会話風景を思い起こし、一人頬を赤らめた。
岩よりも堅物、と評されていた彼女を茹でダコのようにしてしまうとは、さしもの預言者も言い当てることはできなかったに違いない。ちなみに、今回、部下二人はノータッチである。
暫くしたのち、彼女は顔を静かに、少年のように目をきらめかせて星を眺めている青年ラムザに向けた。
そして、意を決して、長い間心の中の酒樽で醸造していた想いを開けてみることにした。
「なあ、ラムザ。私が貴殿に付き添ってから、もう幾重の月日が流れようとしている。」
言いたいことをいうがために、このような堅苦しい文章を始めに語らないといけない自分を、アグリアスは改めて恥じた。
ラムザは、アグリアスの張りつめたような緊張感を感じ取ったのか、少し驚いたようにアグリアスを見つめた。
「私は今までの自分の行ってきた行為に後悔を覚えたことはない。
近衛騎士としてルザリア聖近衛騎士団に入ったこと、オヴェリア様の護衛についたこと、
そして、貴殿と出会えたこと。」
アグリアスは、自らが述べていることを一字一句確かめるように、ラムザに向かって話し続けた。
ラムザはそんな彼女の思いを知ってか知らずか、彼女に向かって優しく相槌をうち、先を促した。
「貴公は、どうなのだ。私と出会って、迷惑をしなかったか。」
おっかなびっくりなアグリアスの言い方に、ラムザは彼女に一種の愛着を感じた。
「いえ、そのようなことは一度もありません。あなたと出会えて、僕はとても…ええ、とても幸運でした。」
言葉を言い終えてから星空から目を背く形でうつむいていたアグリアスは、その言葉にすぐさまラムザに顔を向けた。
ラムザは一旦言葉を切り、笑顔とともに次の言葉を口にした。
「僕なんかより遥かにお強いので。」
アグリアスは昨日の顛末を思い出し、かぶりをふった。
私はただの戦力としてしか見られていなかったのか。私は歩く兵隊なのか。
またも枕の中でアグリアスはかぶりをふった。
違う。わかっている。
ラムザがそんなことを考えるはずがない。わかっている。ラムザは心優しい男だ。
アグリアスはラムザの良き理解者であり、良き片腕であった。
彼のそのような所に惹かれ、そしてそのような所に悩まされた彼女が彼の性格を理解できないはずはなかった。
彼のその性格にアグリアスは人知れず笑みを浮かべていたのだ。
だからこそ、ただ、言ってほしかっただけなのだ。
再びアグリアスは思考の海に身を委ねた。
自分にとって私は必要だ、と、ただその言葉がほしかっただけなのだ。なのに、なのに、ラムザは…
枕元で唸っているアグリアスに、堪らずラムザは声をかける。
「あ、アグリアスさん。大丈夫ですか。今、濡れ布巾を取り替えて…」
突然のラムザの声。
その時、アグリアスは急に思考の海を、モーゼのように水を二つに割ることに成功した。
そうか、聞けばいいんだ、もう一度。強引に。
待て!そんな事は騎士道に反している!
思考の中で、エジプト軍と同立場にいる“正義と大義を重んじる騎士アグリアス”の軍団がその言葉を述べるや否や、既に川を渡り終えた“真実の愛を求める女性としてのアグリアス”の軍団に迫った。
だが、アグリアスは迷う事をしない。
間髪をいれずに、騎士としてのアグリアスを洗い流した。
何故、こんな初歩的なことがわからなかったのだろう。アグリアスは、一瞬で辿り着いた答えに驚きと同時に期待を抱いた。
ラムザがそう告げた直後であった。
枕の中で、うーうーと唸っていたアグリアスは、いきなり糸を弾かれた人形のように上半身をおこし、ラムザにくるりと顔を向けた。
ラムザは思わず目を丸くした。
普段、人ひとり分はあるであろう重さの鎧を身に着けていた彼女の姿を見慣れていただけに、薄生地の絹の服を身につけている今の彼女の体の線が現れているその恰好は、ラムザの胸を飛びあがらせるには十分であった。
風邪で薄っすらと頬が朱をさしている顔、何か言葉を発そうとしているのか半開きになっている口、三つ編みの髪を解き、汗で濡れた髪が額に幾つかへばり付いているその恰好も、ラムザの胸の高鳴りに益々拍車をかけた。
「ラムザ。はっきりと言ってくれ。私のことを思っているのか、否か。」
アグリアスはそう尋ねながら、枕元に置いてある愛剣の鞘に手を伸ばした。
ラムザは、瞬間、一気に背中から汗がひいていくのを感じ取った。
「アグリアスさん!?落ち着いてください、目がすわってます!」
突然の出来事にラムザは別の意味で胸を高鳴らせた。
命が危ない。
人生において常人ならぬ戦の場数を踏んだ彼は、歴戦で培った神経を最大限に研ぎ澄ませた。
「さあ、言え。ラムザ。どうなのか。」
アグリアスがゆっくりと足を床につけると同時に、ベッドが悲鳴をあげた。
悲鳴をあげたくなる気持ちもわかる、ラムザは頭の隅でそう同調した。ベッドはラムザと同じ気持ちを共有していたのであろうか。
それは定かではないが、ラムザは背中に冷や汗をかきながら、じりじりと扉の付近まで後退を始めた。
「何故逃げる。好きか嫌いか答えるだけだぞ。」
「答えられないのは、アグリアスさんの右手に持っている物が原因だと思います。」
あまり刺激を加えないよう、ラムザは引きつる顔を見せないように、必死にアグリアスにそう告げた。
聞こえているのか、いないのか、アグリアスはそれでもふらふらと、そしてゆっくりとした足取りでラムザに近づいていく。
熱に浮かされたように顔を赤くしたアグリアスは手には愛用の剣を持ち、一歩間違えれば狂気ともとれる笑みを浮かべていた。
後退を続けていたラムザだが、扉と背中が遂に対面を果たしてしまったため、
彼は次に、アグリアスを説得しようと試みた。
「落ち着いてください、アグリアスさん!今のあなたは熱に浮かされているんです!だから、その鞘を抜こうとしている左手をおろしてください!」
ラムザは助けを呼びたかったが、下手に大声を出すとアグリアスが強硬手段に出るかもしれない。
そもそも、それは彼女の本意ではないだろう。鈍感たる彼も、この時ばかりは彼女の気持ちをくみ取っていた。
「ふ、ふふ。ラムザ。さあ答えろ。好いているのか、いないのか。」
アグリアスの思考はもはや熱に浮かされているといった具合ではなくなっていたように見えた。
あるいはこれが、身も心も鎧で束縛されていた彼女の本当の姿なのかもしれない。
だとしたら、このような姿は二度と拝めないかもしれない。
死の淵にいるであろうラムザに一瞬、そのような邪念が浮かんだ。瞬時に彼は、彼女のあられもない姿と自らの命を天秤にかけた。
誇張表現だった。
彼はすぐさまに天秤の中身を、狂気にまみれ剣を振り回す彼女の暴走行為と自らの命、とに修正した。
状況が状況であった。うっかり見とれていると、それが自分の網膜が映す生前の最後の映像にならざるを得ない。
考える暇など寸分しかなかった。
ええい、ままよ。
ラムザはそう呟き、一世一代の賭けに出た。
「さあラムザ!こたえ…」
随分と凶暴化していたアグリアスの言葉はここで途絶えた。
目を丸く見開いた彼女は、もしかしたら人生で一番の予期せぬ事態に出くわしたのかもしれない。
ラムザが、抱きついている。私に。
いつの間にか背伸びをしないと自分と身長が同等にならなくなってしまった彼に気づいたら首元まで手を回されていた事に、彼女は数秒後やっと気付いた。
元来堅物である彼女にその手の類のうわさ話や、よもやその手の行為を致す事は言語道断であり、ラムザもそれは重々と承知していた。
勿論、彼にこの戦場においての勝算があっての行為であるはずがない。彼はそのような計算高い男ではない。それに、そもそも、ラムザはアグリアスが自分の事をなんとも思ってない、と根本的な考えを否定していたからである。
アグリアスがその事を知ったら恐らくため息をつくに違いない。
そんなアグリアスとて、ラムザは自分の事をなんとも思っていないと否定している分に、人の事は言えなかった。
彼が私に抱擁をしている。
その事実を理解した途端、アグリアスは体が硬直してしまった。
しかし、とても不思議なことに、堅物が売りの彼女は自然と今の事態もこれから起こる事も受け止めることができた。
そのままどちらともなく唇をあわせる。アグリアスは終始目をつむっていた。
全ての時間が静止したように彼女は思えた。
また雨音が聞こえなくなった。
ラムザの口から離れたアグリアスは、ぼうとした頭の中でそう思った。
「アグリアスさん。質問にお答えできなくてすみません。ですが、これが僕の答えです。」
アグリアスを力強く抱きしめながら、ラムザはそう告げた。
アグリアスはというと、今の出来事に頭がクラクラとなっていた。気づかぬうちに、手から鞘が離れていく。直後、剣が床に落ちる乾いた音が響いた。
アグリアスは、しかし、愛剣は気にも留めず、熱だけが原因ではないであろう耳まで真っ赤にした顔をラムザ首元に預け、おずおずと必死にラムザの腰に手を回し彼の言葉に応えた。
「わかっています。愚かな行為だとは。隊の長と副隊長がこのような関係になってはいけないとおっしゃったのは貴方自身ですから。
誓約を破るような形になってしまいすみません。今後、こんなことはしませんから、せめて今だけでも。」
ラムザはそうポツリポツリと告げ、実力の立つ腕前とは比例しない、線が細く美しい女性から体を離した。否、離したつもりであった。
「待て。」
その言葉とともに、彼女は掴んでいた彼の腰を離れないように強く引き付けた。
結果として、頭がアグリアスから離れ、腰より下が彼女に密接するという弓張のようになったラムザは一連の事件の後、酷い腰痛に悩まされたという。
「愚かな、お前は愚かな行為と言うのか。
…お前は、本当に鈍感な奴だ。どんな気持ちで私が、今まで貴公と接してきたか、知らないとでも言うのか。
この身を貴公に預けると、確かにそう告げたではないか。」
最初は弱弱しかった口調も、最後はラムザをキッと見上げ自らの言える精一杯の言葉で紡いだ。
同時に、アグリアスは掴んでいるラムザの服の裾を強く握りしめた。
ラムザはアグリアスの言葉に呆気にとられていたような顔を彼女に向けていた。
先程の汗が残っていたのか、ラムザの額に一筋の汗が流れた。暗い室内にそれだけが光を反射しており、アグリアスはまぶしそうに眼を細めた。
「…本当に、僕なんかでいいんですか。」
「何度も言わせるな。」
説教めいた口調にラムザは内心でくすりと笑った。
そして、精一杯気丈に振ふるまっている目の前の愛しい女性に、腰痛をなんとも思わせないような笑顔で告げた。
「わかりました。」
ラムザの答えに納得したのか、ラムザの首元でアグリアスは、うんうん、と何度も頷いた。
頷くたびに彼女の揺れる髪の臭いを感じていたラムザは、今日何度目かの意識を飛ばしそうになった。
しかし、彼は必死に耐えた。そのような事で意識を手放しては自分の、男としての面目が立たない。
彼のそのような葛藤に当然アグリアスは気付く事はなかったが、彼女は一旦顔を首元から離した。ラムザの心中には、気絶を免れた事に対する安堵と、離れてしまった事に対する寂しさが残った。
そして、ラムザに向き合わせいつもの命令的な口調で、ラムザに遠まわしにおねだりをした。
「うむ。わかったのだな。うん、わかったら、ほら。その、行動で示せ。」
ラムザは彼女の言葉に思わずくすりと笑った。彼の笑顔に感化されたのか、アグリアスもラムザにつられるように笑った。
そして、和やかなムードが部屋を包み込む中、二人の姿が再び重なり合った。
窓がガタガタと音を立てて揺れた。
二人の空模様とは違った様相を見せている外の天候も窓に何度も雨をうちつけ、拍手で二人を祝福した、のかもしれない。
やはり彼等はどこかお節介なのかもしれない。
次の日、案の定と言うべきか、隊の長が副隊長と同じく夏風邪をこじらせた。
前日の風邪はどこへやら、ピンピンとした副隊長が隊長の看病をすることになったのだが、それはまた別の話として語られるべきであろう。
はてさて、彼女の体温を著しく上げていたように思えるものの、隊長はさながら副隊長の解熱剤というところであろうか。
この真相を知るは当人たちだけであり、疑われはするもののこの件に関して確たる証拠を掴んだ者はいなかったそうである。事実は闇に消えた。
ただ、アグリアスがラムザと二人きりになると手を繋ぐようになったという事実は残った。
以来、風邪という単語を耳にすると幼少期の奮闘、そして甘い甘い、朝食で彼が飲んだミルクの味がアグリアスの記憶から引っ張り出されるようになった。
こうして、雨降る巨蟹の2日、幼き頃と変わらぬ生真面目さと純粋さを持ち合わせた騎士は、
酒樽で、あるいはワインセーラーで大切に保管していた自らの思いを成就させることができたのであった。
―――――――
「プレゼントがあるんですよ、アグリアスさん。」
「本当か!?今だから言うが、昨日は少し期待していたんだぞ。(わくわく もそもそ)」
「すいません。ですが、渡す機会を損ねてしまって。」
「いいんだ。(ごそごそ) …これは?」
「双眼鏡と呼ばれるものらしいです。昨日、アグリアスさんが突然、機嫌を悪くされたのは星空をよく観察できないからだと思って。
ほら、見てください。遠くまでよく見えますよ!」
「……」
二人の意思疎通がお互いに絡み合うようになるには、今暫くの時が必要であった。
fin.
最終更新:2010年05月08日 20:33