「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
私は走っている、暗闇の中を。
己の足音と、己の呼吸と、己の心音がこだまする。
「ハァッ……ハァッ……ハッ……ぐぅっ……」
息苦しさにあえぎ、汗に濡れた服がベッタリと身体に貼りついてくる。
真っ暗な石の廊下を、ただ真っ直ぐに、私は逃げる。
「ハッ……ハッ、ハッ……!」
のどがからからに渇き、犬のように舌を出したい気分になった。
水は、二つの瞳から頬を伝い落ちている。
「ハッ……!」
足がもつれて私は転んでしまった。
地面に手をつく事すらできず、何とか肩から倒れ込むと水しぶきが上がる。
「はぁっ……はぁっ……」
水?
先ほどまで、確かに石の廊下を走っていたのに、水?
「あっ、ああ……!」
転んだ拍子に唇にかかった水を、私は本能的に舐め取った。
そのあまりの濃厚さにむせ返る。
「ゲェッ……ゴホッ、な、なんだ……これは」
暗くて見えない。これは、水なのか? 汚水? あるいは、もっと違う何か?
唇の中にべったりと残る感触のおぞましさに吐き気をもよおしてしまう。
「うっ、うぅ……」
両手をついて、よろよろと立ち上がろうとした時、足首を掴まれた。
「え」
恐怖を感じるよりも早く、それは私の足を水中へと引きずりこむ。
「あ、や、やめ……」
底なし沼にでもはまったように、私の足が、足が、引きずりこまれて、
膝まで沈むと膝を掴まれ、太ももまで沈むと太ももを撫でられ、
腰まで沈むと腰に抱きつかれ、腹まで沈むと腹を押さえつけられ、
胸まで沈むと胸を揉みしだかれ、首まで沈むと首を絞められ、
唇まで沈むと唇に指が割り込んできて歯茎や舌を愛撫し、
目まで沈むと目をふさがれて、頭のてっぺんまで沈むと、耳元でささやかれた。
「アグリアスさん、アグリアスさん」
声に目を覚ませば、そこはどこかの宿のベッドの上だった。
「大丈夫ですか? 僕が誰か解りになりますか?」
「あ、あ……」
ランプに照らされたラムザの顔が、心配そうに覗き込んでいる。
「お水です、どうぞ。慌てないでゆっくり飲んでください」
水差しが唇に当てられる。やけにぬるい水だったが、私は夢中になって水を飲んだ。
「ずいぶんとうなされていましたね」
「あ、ああ……」
「覚えていますか? アグリアスさんはドラクロワ枢機卿の、
 邪悪な怪物へと変化したあの枢機卿の奇怪な魔術を浴びて、
 今までずっと眠り続けていたんですよ」
言われて、ぼんやりとアグリアスの脳裏にその情景が浮かび上がった。
ああ、そうだ、ドラクロワ枢機卿だ。
白く、丸々と太った、おぞましい怪物に変化した、ドラクロワ枢機卿。
「や、奴は?」
「……もう……大丈夫です……アグリアスさんは……休んでいてください……」
酷く落ち着いた声でラムザは言う。
疲れているのは確かだったので、私は「ああ」とうなずいた。
それから部屋の中を見回し、一人部屋だと解ると、
アリシアとラヴィアンがどこにいるのかと私は訊ねた。
隣の部屋で寝てますよと言われると、そうかと安心して、息を吐く。
それからようやく、寝巻きが汗でべったりと肌に貼りついているのに気づく。
「水とタオルと新しい寝巻きです。アリシアとラヴィアンは酷く疲れているので、
 申し訳ありませんが……自分で汗を拭いて着替えてください……」
「ああ、ありがとう」
「では、僕はこれで」
そう言ってラムザは微笑み、部屋から出て行った。
私はのそのそとした仕草で服を脱ぐと、タオルを水で濡らした。
やはりというか、この水も酷くぬるく、あまり心地よいものではなかった。
贅沢を言ってられないので、仕方なしにまず最初に顔を拭いて、
上から下へと順々に汗を拭っていく。
「はぁっ……はぁっ……」
タオルを下腹部にあてがった時、奇妙な息遣いが聞こえ、私は手を止めた。
気のせいだろうかと思いながら、ドアの方へと目を向けると、
ラムザが確かに閉めたはずの戸がほんのわずかに開き、
隙間から血走った瞳がこちらを見つめていた。
「誰だ!」
怒鳴った瞬間、ドアは乱暴に閉められて、ドタドタと廊下を走る音が続いて聞こえた。
私は部屋を見回し、隅にあった自分の剣を手に取ると、
ベッドのシーツで身体を隠して、戸をギィと開けた。
窓から射し込む月明かりを頼りに用心深く廊下の左右を見渡したが、人影は無い。
ゴクリとのどを鳴らして、私は戸を閉め、錠をかけた。
確かに見られていた。あの眼はいったい誰だろう。
肌を見られたという羞恥と屈辱で頬に朱が差し、
芋虫が這うような悪寒がぞわぞわと背筋を駆け上り、再び汗が吹き出してしまった。
何度か深呼吸をして精神を落ち着けると、私はベッドに駆け戻り、
新しい寝巻きを着込んですぐ部屋を飛び出す。
「どうかしたのか」
直後、横合いから声がしたので、思わず剣を向けた。
後ずさって驚いた顔をした男はラッドで、なぜ剣を向けられるのか解っていないようだった。
「物騒だな、何かあったのか?」
「ラッド……いつからここにいた?」
「トイレに行って、部屋に戻る途中だ。いきなりお前が飛び出してきた」
覗いていたのはラッドだろうか? すっとぼけているならたいした役者だ。
「廊下で誰か見なかったか?」
「誰もいなかったぜ。あんな化物と戦った後だ、神経質になってんじゃないか?」
いいや、そんなはずはない。私は確かに、息遣いを聞き、あの血走った眼を見たのだ。
共に行動をするようになって日が浅いとはいえ、ラムザとラッド、ムスタディオが、
覗きなどという下卑た真似を、しかもこんなタイミングでするとは思えない。
「誰かが私の部屋を覗いていたんだ。気のせいなんかじゃない」
「まさか。この宿は、俺達以外誰もいないぜ?
 宿屋の主人なら俺と酒をかっくらって、あの調子じゃ明日の朝までぐっすりだ」
「しかし、確かに誰かいたのだ」
「解った、解った。ラムザに伝えておくよ。お前は寝てろ。
 この暗がりでも、酷い顔色してるってよく解るぞ」
「ああ……頼む」
私は突きつけたままだった剣をようやく下ろし、きびすを返したところで、ふと思った。
「アリシアとラヴィアンは、隣の部屋だったな」
「ああ。向こうの部屋だ。俺とラムザは、もうひとつ向こう」
「ムスタディオは? 彼も、お前達と同じ部屋か?」
「そうか、覚えてないんだな」
「何がだ?」
「ムスタディオなら死んだよ。あのデカブツに押しつぶされて、
 身体の半分がひき肉になっちまってな。あんな酷い死に方、初めて見たよ」
あまりにも淡々と申し上げるので、私はしばらく、言葉の意味を解せなかった。
死んだ?
最初は酷く無礼だったが、けれどしばらく一緒にいてみれば気のいい奴で、
私の前では妙にかしこまってしまう、あのムスタディオが?
「何だ、ラムザから聞いてなかったのか」
「……ああ……」
「まあ、あまり気にするな。あいつとは短いつき合いだったし、
 ドラクロワやバート商会と蹴りがついた今、いなきゃ困る奴でもないしな」
冷淡な物言いに腹が立ったが、それを態度に出すほどの気力はなく、
私は無言で部屋に戻ってドアを閉め、やはり鍵をしっかりとかけ、
ベッドに剣を抜き身のまま立てかけて、シーツをかぶってベッドに寝転んだ。
もうろうとする。今は、何も考えたくなかった。

「はぁっ……はぁっ……」
蒸れる暑さと重苦しさに私はあえぐ。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
妙に身体が重く、ねっとりとしたものが身体に絡みついてくるような錯覚があった。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
それにしても、うるさい。荒い息遣いのわずらわしさにうんざりする。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
荒い息は、私の耳元で聞こえた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
私の呼吸ではないと解った瞬間、身体にのしかかる人の重さをはっきりと認識する。
ハッと目を見開いて跳ね起きると、荒い息遣いもどっしりとした人の重さも、
まるで幻であったかのようにふっと消えてしまった。
早鐘のように脈打つ胸に己の手を当て、呼吸を整える。
……幻であったかのように……? 本当に夢か幻だったのだろうか。
しかし胸に当てた手に伝わる感触が、寝巻きではなく素肌のようで、
恐る恐る見下ろして見ると、寝巻きの前がはだけていて、
ランプの灯りを受けた白い肌の上には球のような汗が浮かんでいた。
まさか……あれは……本物……。
いや、だが何もいない。部屋の中は私一人だ。
ありえるはずがない……誰もいない……私は一人だ……誰もいるはずがない!
恐らく寝苦しさから自分で寝巻きをはだけてしまったのだ。
そうに違いない……絶対にそうだ……。
だがまるで誰かが隠れているかのように、部屋の隅でコトリと音がした。
即座に私はベッドに立てかけてあった剣を取り、部屋の隅を睨む。
そこには小さな暗闇があるだけで、人影はおろか、ネズミ一匹いなかった。
しかし、なぜだろうか、隅の暗がりがやけに気にかかり、視線を動かせない。
何かがいるような気がする。私はベッドのかたわらにあったランプを取って、
恐る恐る、ゆっくりとした仕草で、部屋の隅まで行き照らしてみた。
もちろん何かあろうはずがなく、私はふぅーっと息を吐いた。
かといって安心した訳ではない。この気味の悪い部屋に一時もいたくなくて、
隣のアリシアとラヴィアンの部屋にお邪魔しようと思い至る。
錠を開け、戸を開け、廊下に出、ランプで注意深く照らし、剣を手に警戒し、
足音を立てないよう、抜き足差し足で廊下を歩き、隣室へと向かう。
アリシアとラヴィアンは酷く疲れているそうなので、今も眠っているだろう。
起こすのは申し訳なかったが、一人でいる心細さに、もう耐え切れそうにない。
ノックをしようか少し迷い、隣室の戸に手をかける。
鍵は、かかっていない。
どうせ中も暗いだろうし、ドア側のベッドで寝ている方だけを起こし、
申し訳ないが同じベッドにもぐり込ませてもらおうと私は決めた。
アリシアか、ラヴィアンか、どちらかと一緒に寝て夜を明かすのだ。
朝になったら、きっとこの得体の知れない恐怖も晴れるだろう。
朝日を見て、澄んだ空気で深呼吸をすれば、すべて解決するさ。
戸を、音を立てないよう注意しながら、ゆっくりと開けた。
「はぁっ……はぁっ……」
ほんのわずか、指が一本か二本入るかというだけ開けたところで、
あの息遣いが戸の内側から聞こえた。
さらにギシッギシッというベッドの軋みも。
私も騎士であると同時に淑女であり、その手の知識は持ち合わせていたのだが、
なぜこの部屋からこんな音が聞こえるのか見当がつかなかった。
私はわずかな隙間から室内を覗き込む。
どうやらカーテンを閉め忘れたらしく、
窓からの月光でものの輪郭はかろうじて解る程度の暗さの中、
ベッドの上の人影が、ゆうに二人分はある事が見て取れた。
そして、上に乗っかっている側の人影は、盛んに身体をゆすっている。
息遣いは明らかに男のもので、何かをしゃぶるような音まで聞こえてきた。
さらに、小さくだが、嫌がってる風の苦悶のあえぎがした。
まるで口をふさがれて、無理矢理つらい行為をしいられているような。
アリシアかラヴィアンかは解らぬが、尋常ではない事態なのは確かなようで、
私はドアを乱暴に引っ張って開け放ち、左手に持ったランプを突き出して怒鳴る。
「何をしている!」
ベッドの上の、二つの顔が同時に振り向く。
下になっているのはアリシアで、布で猿ぐつわをされて、涙を流していた。
上に乗っているのは……ああ! 何という事だろう、信じたくない。
しかしこの暗がりでも見間違えるはずがなく、
ついこの間何があろうと信じると心に誓ったはずの相手であった。
「ラムザ! アリシアから離れろ!」
剣を握りしめて踏み込むと、ラムザはニタリと笑って私に飛びかかってきた。
まるで獣のような身のこなしに驚き、私は恐らく悲鳴を上げたのだろう。
そして、咄嗟に振るった剣がラムザの胸に突き刺さってしまった。
剣を手放すと、ラムザはその場に倒れ込み、床一面を赤く濡らした。
「ハァッ……ハァッ……!」
ああ、何て事だろう……まさかラムザが、
寝入っている婦女子にこのような真似をする男だったとは。
裏切られた悲しみと怒りが胸に込み上げ、ボロボロと涙がこぼれてしまった。
恐らくこのままいつまでも立ち尽くしていただろう私を正気に戻したのは、
アリシアの助けを求める猿ぐつわ越しの声ならぬ声だった。
「あ、アリシア……」
慌ててアリシアに駆け寄ろうとした瞬間、アリシアの眼がギョッと見開いた。
「ウゥーッ! ウゥーッ!」
布ごしに何事かを叫び、恐怖に彩られた眼差しを向けてくる。
まさか、ラムザを殺害してしまった私に怯えているのだろうか?
しかし私はアリシアを助けたのだ。怖がられるはずがない。
「アリ……シア……?」
何とかなだめようと一歩踏み出し、爪先に何かがあたる。
見下ろすと、当然というか、死体があった。
胸に深々と剣を突き刺した"ラッドの死体"が。
「……え……?」
「ウゥーッ!!」
アリシアが一際大きな声を上げた直後、後頭部にガツンという衝撃が落ち、
私はラッドの死体に重なるようにして倒れ、意識を失った。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
荒い息遣いと、人ののしかかる重さに、私は目を覚ました。
「うっ……?」
おぼろげな視界の中、人影が踊っている。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
ベッドの脇にあるランプのわずかな灯りが、嫌というほど現状を教えてくれた。
私はベッドの上に大の字で寝かされ、両手両足をベッドの柱にきつく縛りつけられ、
さらに全裸に剥かれて、白い腹を舐め回されているのだ。
「うぐっ! むうぅっ!」
悲鳴の代わりにくぐもった声が漏れ、口の中に濡れた布があると気づく。
「よく……眠れましたか……?」
腹を舐めながら、酷く落ち着いた声が訊ねてくる。
私は必死に首を傾け、声の主を確かめようとした。
ランプの灯りを浴び金色に輝く髪が見えたが、
私の腹に顔をうずめていているため何者かなのかまでは解らない。
何か他に手がかりは、あるいは脱出する手段はと思い、首を右に向ける。
部屋の戸があって、その前に剣の刺さったラッドの痛いが転がっていた。
なぜラッドが死んでいるのだろう。私は確かに"ラムザを刺し殺した"はずなのに!
では、まさか今、私の身体にのしかかっているのは、ラムザなのか。
「ぐうっ、むぐぐっ」
布が邪魔でまともに話せない。
しかし呼びかけているのだと通じたのか、彼は顔を上げた。
三日月のように裂けた唇で笑顔を見せてきた彼は、まさしくラムザだった。
「ふふふ……いけませんねアグリアス。聖なる行いに逆らうのは……」
低く野太い声はラムザのものではなく、けれど聞き覚えのあるものだった。
いったいどこで聞いた……のか……ああ……まさか……まさか……!
ラムザから美しい金の髪が抜け落ち、肌はふくれ上がり不気味な白い肉へと変貌していく。
私の身体の上で、おぞましい変化を遂げた怪異はまさしくドラクロワ枢機卿の怪物姿。
「むぐぅぅぅっ!!」
あまりのおぞましさに、私は顔をそむけ――隣のベッドに気づき――見てしまった。
アリシアが眼を見開いて天井を見つめたまま、微動だにせず、
眠って、いや、息絶えている。
服は着ておらず、私同様全裸で、しかし、女の象徴とも言える乳房などは無かった。
獣に食われたかのように、アリシアの胸から腹にかけて、ぽっかりと穴が空いている。
赤黒い内側には、食い散らかされた内臓を材料にした血のスープがあった。
あまりの凄惨な光景に息が止まる。
そして、その血のスープに、天井から何かがしたたり落ちている。
見てはいけない……見たら後悔する……絶対にダメだ……見るな……見るな……!
そう確信しながらも、私の首と目は導かれるように天井へと視線を向けた。
ラヴィアンが……上下逆さまに……吊るされている……。
口から鋭い刃を吐き出して、そこから血がしたたっているのだ。
その刃はラヴィアンの肉体を縦に貫通しているのだろう、
股間からは槍の柄らしき物陰が突き出して見えた。
「罰です……天罰……これは……天の裁き……!」
地獄から響くような声で、ドラクロワの化物がささやく。
私はもう指一本動かせず、恐怖に呑み込まれてガタガタと震える、無力な羊だった。
「さあ……不浄を受け取りなさい!」
化物が叫ぶと同時に、熱い何かに下腹部を貫かれた。
身体を左右に引き裂かれたかのような激痛が、股間から頭のてっぺんまで突き抜ける。
あふれた涙で歪んだ視界を、化物の大きく開いた口が埋め尽くし、
死臭を漂わせる鋭い牙が、唾液をしたたらせながら、私の顔を――。


「アグリアスさん、アグリアスさん」
声に目を覚ませば、そこはどこかの宿のベッドの上だった。
悲鳴を上げる気力すら無く、身体は震え、息は上がっている。
全身汗でぐっしょりしており、寝巻きが肌に貼りついていた。
「大丈夫ですか? 僕が誰か解りになりますか?」
「あ、あ……」
ランプに照らされたラムザの顔が、心配そうに覗き込んでいる。
「お水です、どうぞ。慌てないでゆっくり飲んでください」
水差しが唇に当てられる。よく冷えた水で、
あまりのおいしさに私は夢中になって水を飲んだ。
一息ついてから、私は恐らく滑稽なほど怯えた表情で、ラムザを見た。
すると、不安そうな表情でラムザは私の額を優しく撫でる。
「ずいぶんとうなされていましたね」
「あ、ああ……」
「覚えていますか? アグリアスさんはドラクロワ枢機卿の、
 邪悪な怪物へと変化したあの枢機卿の奇怪な魔術を浴びて、
 今までずっと眠り続けていたんですよ」
「そ、そう……だったのか……?」
では、先ほどまでの出来事はすべて夢、だったという事か。
私は安堵の息を吐き、静かに目を閉じた。
色々と聞きたい事はあるが、今はただ、ゆっくりと休みたい。
「ラムザ……すまないが、しばらく休ませてくれ……」
「ええ、解りました」
ベッドのかたわらにあった椅子から立ち上がったラムザは、
ゆったりとした足取りで戸の方に向かっていく。
その背中を見て、急に不安になった私は思わず口を開いた。
「あ……みんなは、無事か?」
ドアの前で立ち止まるラムザ。
「ええ……アリシアとラヴィアンは……酷く疲れていて……隣の部屋で眠ってます」
「……ラッドは……?」
「宿の主人と一緒にお酒を飲んで……今頃眠ってるんじゃないかと……」
「……ムスタディオ……は……?」
「覚えてないんですか?」
錠をかける音がした。
一人の心細さから、誰かに側にいて欲しいと思ってはいたが、
なぜ、鍵をかけるのだろうと私は不安になった。
それに、ムスタディオが……どうかした……のだろうか……。
「ムスタディオは死にました。あの化物に押しつぶされて、
 身体の半分がひき肉のようになってしまって……。
 とはいえ、彼とは短いつき合いでしたし……ドラクロワ枢機卿や、
 バート商会との決着がついた今……いなくても困りませんしね……」
冷淡な口調で言って、ラムザは振り向いた。
三日月のように裂けた唇で、寒気のする笑顔で。
「ら、ラムザ……?」
無言でベッドに近づいてくるラムザ。
言いようのない恐怖に、私は半身を起こし、胸元に手を当てた。
素肌の感触。
ハッと身体を見下ろせば、寝巻きの前ははだけており、
球のような汗が浮かんだ白い肌があらわになっていた。
「アグリアスさん」
耳元で声がしてギョッと顔を上げると、
いつの間にかベッドの上にラムザが四つん這いになって、私を押し倒そうとしていた。
「な、何を……」
ラムザの顔が、私の胸元に押しつけられる。
「や、やめ……」
生温かい舌で舐められた後、冷たい歯が肉に食い込んできた。
「はぁっ……はぁっ……」
あの、夢の中で何度も聞いたあの息遣いが聞こえる……。
……ラムザの口元から……私の胸元から……あの……息遣いが……!

――アグリアス様がお亡くなりになったのは、ライオネル城での戦いから三日後の事でした。
あの不浄な化物との戦いで、アグリアス様は魔性に取り憑かれてしまったのです。

『闇の奥底、死の恐怖たゆとう闇の衣……悪夢!』

あの化物はそのような詠唱をしていたはずです。
そしてその言葉通り、あの化物を倒した後もアグリアス様は悪夢にうなされ、
一度として目覚める事無く……ベッドの中で息絶えてしまったのです。
アグリアス様の死は悲しいけれど、もう苦しむ事はないのだろうと思うと、
これでよかったのかもしれない……と、ほんの少しだけ思います。
だって、三日三晩悪夢にうなされるアグリアス様のご様子といったら、
筆舌にしがたいものがありましたから。
『はぁっ……はぁっ……』と常に呼吸を荒くし、時折意味の解らぬ悲鳴を上げていました。
私とラヴィアンは交代でアグリアス様につきっきりで看病し、
男の方々も換えの水やタオルを用意してくれたりと手伝ってくれました。
ラムザさんは差し入れにホットミルクを入れてくださりましたし、
ラッドとムスタディオはライオネル城からの追っ手が来やしないかと、
私とアリシア同様、交代で宿の周りを見張っていてくれました。
そんな苦労も……今日、終わったのです。
アグリアス様は悪夢から解放され、永久の眠りにつきました。
亡骸はオークス家に還して差し上げたいけれど、今の私達では難しいかもしれません。
けれど今はそういった事に頭を悩ますよりも、ただ眠りたいです。
ラヴィアンは私と交代して眠っていて、まだアグリアス様の死を知りません。
ムスタディオも今は眠っていて、見張りはラッドがしているはずです。
私は、ラムザさんの肩を借りて自室に戻ってきたところです。
「アリシア。後の事は僕に任せて、今はゆっくり休んで」
「ありがとうございます……ラムザさん」
紳士的で、どこまでもお優しいラムザさんの心遣いに感謝しながら、
看護疲れと……死別の悲しみを癒すため……私はベッドに横になりました。
すると、心にゆとりが生まれたせいあk、涙があふれてきました。
ラムザさんは、ハンカチで私の目元を拭って慰めてくれます。
「君が落ち着くまで……ここにいようか?」
「ええ……お願いします」
ラムザさんの優しさに、私は素直に甘える事にしました。
そうしなければ、心が壊れてしまいそうで……。
「……アグリアス様が不憫でなりません……」
「……そうだね。まだ若かったのに」
「騎士として、戦って死ぬのは覚悟の上だったはずです。
 けれど、あんな亡くなり方をするだなんて……!
 悪夢に呑み込まれて……現実に帰ってこれず、死んでしまって……。
 どれほど苦しい思いをしたか……私には解りません」
「……そうだね」
「どんな悪夢を見ていたのかさえも……」
ラムザさんの手が、私の頬をそっと撫でてくれて、
そのぬくもりがもっと欲しくて、私はその手を握りしめました。
すると。
「ねえ、アリシア」
ラムザさんは酷く落ち着いた口調で言います。
「アグリアスさんが……どんな悪夢を見ていたか……知りたいかい……?」

   Fin
最終更新:2010年03月28日 16:40