ザ·ウォード/監禁病棟

デヴィッド・カーターは「はじめての劇作 戯曲の書き方レッスン」(ブロンズ新社・2003)において、コントラストに関して次のように述べている。

同様に、シーン中の重要ポイントの直前で緊張をほぐしておくのも、効果的だ。映画で使われる古典的なトリックはこうだ。ヒロインは生命の危機を感じつつ、らせん階段をのぼり、最上階の自分のアパートに向かう。きっと殺人鬼が待ち伏せしているだろう。玄関を入り、明かりを点けずに忍び足で家の中を見てまわり、襲ってくる者がいないか確認する。バスルームで音がして、そっと入っていくと、シャワーカーテンの向こうに何やら動く影。勇気を奮い起こしてカーテンを引くと、そこにはネコの姿が。ヒロインは安堵のため息をつく。観客もほっとする。そのとき、ドアの陰に隠れていた暴漢に、トイレのチェーンで首を絞められる。という具合。シーン内で対照的なムードが交互に出てくると、お互いがくっきりし、観客の感情に訴える力が強まる。シーンとシーンの関係の場合と同じだ。(松田弘子訳)

しかし「映画で使われる古典的なトリック」であるだけに、観客にもある程度先は読めてしまう。ネコが現れれば一息ついたところで悪漢が飛び出すだろう。まだネコは現れないから、だいじょうぶ、悪漢もまだ出てこないさ。という具合に。

じっさい「ザ·ウォード/監禁病棟」のプロットに新味はない。ふと思いつくままに挙げれば、October Kingsleyが監督、主演し、フェイ・ダナウェイが出演した「The Seduction of Dr. Fugazzi」なども同種のプロットに従う作品である。

それでも「ザ·ウォード/監禁病棟」にどこか清新さが感じられるのは、コントラストを生み、観客の感情に訴えるために重要であるはずのその「映画で使われる古典的なトリック」を歯牙にもかけないからだと思われる。なお本稿は映画「ザ·ウォード/監禁病棟」の内容に触れています。

q?_encoding=UTF8&ASIN=B0068CC9U8&Format=_SL160_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=akanesuke-22

人物の表情が、いかにもな音楽と相俟って化け物の出現を強く予感させる。やはりやられてしまうのか。いや、さすがにこれほどいかにもな状況で化け物も登場はしないわな、と思いなおしたところでババーン。微妙であるかもしれないが確実に不意を衝かれる。バレーボールで、スパイクを打つ選手は本来のジャンプをする前にジャンプのフェイントを入れる一人時間差を仕掛けてくるのだろうと身構えると、最初のジャンプは実はフェイントではなかった。たとえが逆にややこしい気はするが、タイミングを少しく外されてしまうのだ。

「映画で使われる古典的なトリック」が手垢に塗れるなか、本作はそのトリックを周到に排除することでどこか清新さをまといえた。その観点からは、平穏を取り戻した主人公に再び悪夢が襲いかかるラストシーンは、平穏と悪夢を対照させる古典的なトリックを明らかになぞっており、蛇足とも思える。しかし、くりかえしタイミングを外されつづけめまいを覚えたわたしの感覚を通常に引き戻してくれる締め括りとしては適当であった。なお主演のアンバー・ハードは、映画「ゾンビランド」では冒頭にちらりと登場する406号室の隣人を演じている。(2013-11-10)

最終更新:2013年11月10日 10:16
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。