◎The Third Day Wonder◎
――今まで味わったことのない満足感と安堵感で、僕は満たされていた。
空は遠く夕焼けの色で染まり始め、僕らのいる公園の片隅まで染め上げはじめていた。
まだ少し震えてしまう自分の右肩に気付いて思わず左手で抑えると、
アリスさんは何も言わずに、自分の手を僕の左手の甲に重ねるようにした。
◎◎◎
それが起きたのはほんの一時間ほど前だ。
いざアリスさんと歩き出したはいいものの、普段人と喋らないことが災いして、僕は何も言葉が出なかった。
それでも何かを言おうとしたのだが、いざ口に出す寸前に、
アリスさんがいかなる返答をくれてもその先の会話が続かない未来が見えて、結局躊躇った。
アリスさんもアリスさんで会話の切り口が見つからず、僕と同じように何かを言おうとして結局口ごもる、ということを何度もしていた。
――ああ。なんて情けない。こういう時に、自然とエスコートできるような奴だったらよかったのに。
僕は何も言えずに黙っている自分に向けて、そんなことを思った。
「――あ、あの……」
ついに空気に耐え切れなくなったのだろう。
本当に情けないことに、アリスが思い切ったように言葉を発しかけた、そのときだった。
――僕の歩みが思わず止まって。
その横にいたアリスさんも、驚いたように止まって。
ついでに、その出かけた言葉も止まってしまった。
「お?セントじゃぁん?よおう」
「なんだお前、可愛い娘連れてんじゃん!フウ!」
「ってかマジ可愛くね?ヤバくね?」
……あろうことか、目の前の曲がり角からばったり出てきたのは。
同じクラスの、僕みたいな奴とは到底理解しあえそうもない、トミーとジョズとイチローの三馬鹿トリオだった。
「……まあね。じゃ」
いつものように三馬鹿を適当な返事で流して、その横を通り過ぎようとする。
でも、そのときだった。
僕の横で同じように通り過ぎようとしたアリスさんの後ろ手を、一番力持ちのジョズがひっつかんだのだ。
「ひっ……!」
アリスさんの、途切れるような悲鳴があがった。
「お前嫌がられてんじゃん!マジうける!」
「ひでえなあ、そんな声あげなくてもいいじゃん?なあ?」
「俺達もヒマしてたからさぁ、お前たちも付き合わね?正直この子だけでいいけど!」
好き勝手なことを言い出した三馬鹿だが、ジョズの手はアリスさんの手を離さなかった。
「――は、離してください」
アリスさんが、震える声で手を振り払おうとする。
だが、ジョズのちょっと小さめの丸太のような腕はビクともしない。
そうこうしているうちに、三馬鹿はアリスさんを囲むようにして、僕とは反対側の方向に連れ出し始めた。
「ツレねえなあ!絶対楽しいって!」
「……いや!放して!」
アリスさんの声が、次第に遠くなっていく。
まるでいつもの教室のように、三馬鹿は僕に構うことなく、アリスさんごと向こうに消えていく。
それは、何も変わらない、いつもの光景だった。
僕を置き去りにしようとする周りの背中を見つめる、そんないつもの光景だった。
――なのに。
僕の臆病なはずの身体は、その時だけ、なんの躊躇いもなく動き出した。
「その子を放して」
“いつも”の日常の象徴。
そのひとりの右頬を、自分の握った手で吹き飛ばす音がした。
……気づいたら、僕は血まみれだった。三馬鹿のではなく自分ので。
日頃からロクな部活動にすら入ってなかったのが災いして、僕はものの数十秒で見事な返り討ちにあった。
向こうに、震えるアリスさんが見える。
腹に蹴りを入れられながら、僕はそのさらに向こうに、知らない誰かが来たのを見た。
「お前ら何やってんだ!」
「警察!けーさつーっ!」
男の人の声を切欠に、さっきまで無視を決め込んでいた筈の周囲の人達が途端にざわめき始める。
「やべえ!」
「おいジョズ、いつまでも蹴ってねえで行くぞ!」
「あ?おいちょっと待て!」
三馬鹿はあっさりと踵を返すと、すぐに消えた。
「……セントさん!セントさん!」
身体の節々が痛くて、ちょっと休まないと起き上がれない。
そんな、まるでお爺ちゃんみたいになった僕に、アリスさんが駆け寄ってきた。
僕の、血まみれの筈の手を何の躊躇いもなく取って握りしめるその顔を見て、
……正直、ホッとした。
――ああ、よかった。
こんないい子の前で、格好を付け通せて。
とても、とても情けないことに。
僕は自分が、そこまで意地を貼り通せるような奴だとは微塵も思っていなかったのだ。
アリスさんの泣き顔を見ながら、僕はひとつだけ、思ったより頑張れる自分に安堵の溜息をついた。
◎◎◎
――そして、ここに至る。
痛みが和らいだ僕は、先程とは違った沈黙の中、気づけば公園にいた。
予定してたことは何もかも潰れたけど、正直、あまり後悔はなかった。
……明日からは、また灰色の日々。いやもしかしたら、あの三馬鹿からもっと酷い目に合う日々が始まるかもしれない。
それでも。
隣に座っているアリスさんの、ちょっと困ったような笑顔で、それも吹き飛んだ。
この瞬間だけは。この瞬間さえあれば、僕はきっと大丈夫。そう思った。
「……セント、さん」
「うん?」
「その……あの……」
「……」
「……ありがとう、ございました」
「あ、いや……こっちこそごめんね。その、ロクなクラスメイトいないし、予定も何もできなかったし、オマケにケンカ売っといて負け――」
――。
それは、あまりに唐突だった。
まるで不意打ちのように。僕があまり好きでもない、よくある青臭い唄のように。
アリスさんからの、そっと触れるかのような、頬へのキスを感じた。
思わず顔が熱くなって、頭がふらっと揺れるような気さえした。
そう。これは始まりの物語。ここから始まる物語。
それは忘れもしない、始まりの夕暮れの中。
……僕の意識は、そこで唐突に途絶えた。
◎Magic Hour◎
最終更新:2015年05月13日 16:08