そのあとしばらくして皆様が起きてこられたので密会は終わり。ダイニングルームへ戻りました。
そのあとはせっせと朝の支度をし、ご当主と奥様の食事の世話、その後に私たち使用人も急いで食事を済ませました。
いつもの朝でした。
旦那様はこのあとお勉強をしに先生の待つ自室へ戻られます。
私は一人お見送りをし、その後また仕事に戻るのです。
今度は先輩方も一緒に窓も扉も開け放って掃除をします。陽光は白を基調としたダイニングをさらに明るくします。
少しまぶしく思って窓の逆側にある扉に目を向けると、普段見かけない人影が映りました。
十代も半ばの私よりもまだ幼い女の子。幼いながらも身分の高さがうかがえる気品と服装です。
その子の後ろにご当主様。こんなところは見なくてもよいと言い、手を引いて消えていきます。
あぁ――。
すぐに察しはつきました。あの子はきっと、跡継ぎです。
優しいアッサム様では務まらない役割を継がせるために呼ばれた女の子。
前々から旦那様は当主の器ではないなどとのたまい、分家から別に次期当主を据えるべきだという声があったのは知っています。
それがされなかったのは分家の子がことごとく女であったからです。
だから無理やりに旦那様をグラードらしい当主にしようと教育しました。
それは教育などと銘打たれた、旦那様の優しさを著しく損なわせるためのおぞましい作業です。
しかし、私の旦那様はどこまでも優しい方でした。誇り高い方でした。そのような悪しき教えに染まることはなかったのです。
だからきっと旦那様の洗脳を諦めて、背に腹は代えられないと分家からまだ物のわからぬ年の女の子を引き取ったのでしょう。
しかし、私はそれを見て正直、旦那様が解放されるのだと、嬉しく思ったのです。
もう、旦那様はご自身の持つ優しさを力ごなしに否定されることはなくなる。
もしかすると、もう私の旦那様という身分ではなくなってしまうかもしれない、しかしそれならば私が支えればいいだけのこと。
旦那様が優しくあることを許されるのであればそれでいいのです。それであればどんな風になっても私は旦那様をお支えすると決めているのですから。
ただ、それでも旦那様の意思はどうなのでしょうかと胸が苦しくはありました。
「――ヨワ」振り向くと旦那様がいらっしゃいました。
本来なら今はお勉強の時間。しかし旦那様がいらっしゃいました
その辛い笑顔はあまりに饒舌で、これから続く言葉が想起されました。
「少しいいかな」
そういって、この日二度目となる旦那様の自室へ向かいました。
「僕、当主にはなれないらしい」
「は、はい。多分、そのようなことかと」少し驚かれたような顔をされたので、先ほどの女の子の話をすると「あぁ、それで」とまた笑顔を作られました。
「それでね、これからヨワもお父上の管理する使用人としてあの子、フレンラの身の回りの世話をお願いすることになったんだ」
途中で遮りました。大きな声で嫌ですと遮った。
目を丸くされた旦那様に言いました。
「私は、たとえこれから出会ったあの場所で情夫に身を落とそうとも旦那様を旦那様としお慕いし付き従います!私は、旦那様のおかげで人足り得たのです!なのに――」
そのあとはもう、言葉ですらありませんでした。それを笑顔で、しかし困ったという顔で見守ってくださいました。
私の興奮が多少冷めた、あるいは単にオーバーヒートしたのか、言葉が浮かばなくなったころに旦那様が口を開きました。
「ごめんヨワ、少し一人になりたくなってきた」困った笑顔はやはり、困ったなあ、という心情を映していました。
私はそのどちらもが辛くって、逃げるように部屋を出ました。
そうですね、せめて去り際に「お慕いしております、旦那様」とだけでもいうべきでした。
いや、本当は一緒にいるべきだった。
あるいはすぐに戻ればよかったのです。
でも拒絶されたようで怖くて、時間を置きたくて、ひとつ仕事を片付けて、旦那様を訪ねた時にはもう旦那様は人を成していなくって。生きていなくって。
ねえ、せめて最期くらい看取らせてくれてもよかったのではないですか。唯一あの方を愛することのできたこの私くらいは。
それならば、それがゆるされたのならば、旦那様と一緒に死んでもよかったのですよ。
一目見た時から君ならば僕の味方になってくれると思っていたんだ。それでみっともないけれど服で君を口説いた。
でもよかったよ。君はやっぱり僕の味方になってくれた。
旦那様はそんな言葉を下さった。だから一緒に死ねればよかったのです。
ねえ、ねえ、聞いておいでですか?
ねえ奥様、あの日、旦那様は死ぬほど悪いことをされましたか?
そこに自分の子供を殺すほどの理由があったのでしょうか?
ねえ、この数日は良心の呵責に苛まれて眠れない日々を送りましたか?
ねえ、返事をなさい。誇り高い貴族なのでしょう?震えていては何も伝わりません。私はあなたの気持ちなど一厘も理解できないのですから、言葉にしてください。
ねえ、なんで優しい旦那様が?
「あ、あぁ」
目の前の人間はおびえていた。
私はここまで話し続けていたが、はじめて言葉を紡ぐのをやめた。言葉を待った。
ここは奥様の寝室。日は沈みかけ、カーテンから除く光が部屋を赤く染める。その光を一身に受ける豪著なベッドを背中に、私は古い形の鉄砲を手にしていた。
目の前で虚構の誇りすらも捨てた醜い雌猿をじっと見つめた。答えを待つ。
奥様と呼んでいたそれは、壁に背をつけたまましかし震えたまま何も言わない。答えない。
しばらく部屋に引きこもっていた私がいきなりここを訪ねた時には、心身ともに健康そうにばつの悪そうな顔を見せたのに。
仕方がないので旦那様から頂いた靴でこの汚い猿の額を壁に押さえつけた。
しかしそれは良くなかった。焦燥感を煽るだけだったようで、結局この猿は何も言わないままに糞尿を垂れ流し発狂した。
「な、なんであなたがいるの!なんで!」その後はもう言葉ではなかった。
「うるさい」言葉を失い名実ともに猿に身を落とした女にはもう何も聞けないではないか。
だから撃った。
「まあ、所詮は旦那様を生むために生きていただけの人間ですものね、役目を終えてすぐにこうなるべきだったのです」
どちらにせよ期待はしていなかった。いい。私の問いに答えるべき者は他にいる。
「ご当主ならば、答えてくれればいいのですが」
そうして、再び歩みを進める。
最終更新:2015年05月14日 18:24