――懐かしい、暖かな光に眼を細める。
――遠い過去の、俺の世界の匂いがした。


――ここは。
真っ白な光が消えて、周りに景色が戻ってくる。
それは、先ほどまでの狂気に満ちた世界ではなかった。
そこにあるのは、少し暑い夏の日差し。大通りを歩く人々。
空の色は青く、雲の色は白く、それぞれの日々が過ぎていく世界の一場面だった。

「惑星ヘブン……なのは、最初からか」
これと似たような経験が前にもあった。ネクストエイジの時代から一度、時間移動で新光皇歴の時代まで戻ってきた時だ。
あの時も結局、時間を戻った割には対して運命を変えることはできなったような気がする。
だがしかし、これはどういうことなのか。

目の前に広がっているのは、俺の記憶が確かなら、大御蓮帝国の首都、皇京だった。
しかも右手側に少しいった先に見える皇居の警備についている機体がカスタムされていない弥生が大半な事実が、
おそらく新光皇歴1980年頃の御蓮であることをそれを無言で物語っている。

――俺は確かに、『追憶の扉』をくぐったはず。
『追憶の扉』は、くぐった者に『その時世界を延命させる為に必要なモノを呼び出し託す』という性質を持つ。
だとしたら、この光景はどういうことになる。『追憶の扉』から人物や物体はともかく、『世界そのもの』が出てきたことなど例がない。
それは、最期までヘブンの歩んだ道を見つめ続けてきた私が何よりも知っている。

……一体、ここは『何処』だ。

「アイリーン?」
不意に、背後から声をかけられた。
……飴を転がすような、素っ頓狂な、あまりに懐かしい声。
俺は思わず、先ほどの思考すら完全にフリーズさせて、すぐ後ろを振り向いた。

――凹凸のない平坦かつ貧相な体躯。
――それを競泳用水着と茶色のぶかぶかのコートで包んだ奇橋な格好。
――真っ白の短い髪に、吸い込まれるような真紅の瞳。

「お前も、このドーナツ早食い大会を見に来たのか?」

何も考えてないような、無邪気な問いかけをしてくるその姿。
忘れもしない。忘れるはずがない。
俺と共に、ヘブンの結末を案じた少女――『過去』の特異点、ムスタング・ディオ・白樺。

「……ドーナツ、早食い大会?」
「なんだお前、知らないでここに来たのか。丁度いいから、何も用事なかったら一緒に見るんだぞ」
「い、いや、俺は……」
「お前、さっきまで呆然と立ち尽くしてただろ?悩み事は煮詰まるとかえって答えが出ないんだぞ。気分転換も大事だ」
ムスタングは俺の戸惑いをどこ吹く風、というように袖をひっぱり、ぐいぐいと連れて行く。
見ると、少し先の屋外簡易ステージに、『ドーナツ早食いグランプリ~ドーナツの女神に愛されるのは誰だ~』などとやたらおどろおどろしいフォントでデザインされた看板が取り付けられていた。

……ああ、ここはヘブンだ。
俺は頭痛を抑えながらも、言われるままにムスタングについていった。
胸の奥に引っかかる、言葉にできない疑問を飲み込みながら。

「あと、素が出てるから気をつけたほうがいいぞ。色々と目立つんだぞ」
……訂正。“私”は、頭痛を抑えながらムスタングについていった。


「・・・・・・レディーセンジェントルメン!大変お待たせ致しました!
 マスタード・ドーナツ主催!『ドーナツ早食いグランプリ~ドーナツの女神に愛されるのは誰だ~』開幕です!」
ゴングの威勢のいい声が、熱気ムンムンの会場に力強く木霊する。
横を見ると、普段通り無表情のムスタングが、表情はそのままに他の観客と同じように右手を振り上げている。
なんとなくそうしなきゃいけないような気がしたので、とりあえず私も右手を上げておいた。

「ドーナツ――それは、リズに古くから伝わる伝説的フード!
その起源はリズ大陸開拓時代、かの冒険家バーソロミュー・リズが高エネルギーの非常食として造り上げたものだとされています!
未だに我々を魅了してやまない円環の味覚に取り憑かれ、多くの猛者を打ち破ってここにやって来たファイター達をご紹介いたしましょう!!」

響き渡る歓声。天を割らんばかりの拍手。
横のムスタングは相変わらず無表情。だが、わずかに顔を赤らめ、額には既に汗が一筋流れていた。
……とても解りにくいけど、これでもテンションが上がっているようだった。

「まずは言わずと知れた大会常連優勝者!幾多のドーナツを飲み込んできた、その胃袋はブラックホール!
“円環の覇者”、“ドーナツに愛された男”、“無限の甘食”の異名を持つ、ドーナツジャンキー界最強の男!

――マキイイィィィタアアァァ、テエエェェェリィイイイッッッッツ!!!!」

世界を揺るがす、ゴングの裏返った絶叫。
同時に選手入場ゲートの左右から、勢い良く白煙が噴射され、響く歓声の中で名前を呼ばれた男が姿を表した。

背中にドーナツの意匠のエンブレムを背負った、白を貴重としたやたら荘厳なマントをゆらめかせ。
腰にはやはりドーナツがでかでかと掘られたチャンピオンベルトが輝き、会場にいる全ての者達の視線を釘付けにした。
もちろん私も。ただし悪い意味で。

つかつかとマイクをスタッフから分捕ったマキータは、その金髪を余裕にゆらめかせながら、不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「――この世全てのドーナツは、俺の舌の上にある。三度の飯こそドーナツだ!!!」

歓声の中、マキータは腰のベルトを外すと、
ステージ中央に設えられた高い台座の上にそれを置いてすぐ横の選手席に座った。
会場のボルテージが早くも最高潮に達する中で、ゴングが次の選手のコールを叫ぶ。

「さて次は、前々大会優勝者!
圧倒的な強さで予選を突破、終始余裕かつ優雅に流し勝ち上がってきた狂気のファイター!
ドーナツ・クレイジー・ナイス・ガイ――

――ブラアァァァィイアァァン、オオオオオォォゥルドゥリイイイイィィィッッッジ!!!!」

Yシャツの上から上質な黒のベストを華麗に着込んだ筋骨隆々の顎鬚の男が、上質な靴を鳴らしてステージを闊歩。
客席最前列で歓声をあげる人々に男女関係なくウインクや手を振り返して挨拶すると、つとめて優雅かつ余裕にマイクを取った。
――もう片方の手に掲げられているのは、乳白色のカクテルの入ったグラス。

「――“XYZ”。カクテルワードは“永遠の愛”。このカクテルに誓って、私はドーナツへの愛をここに証明しよう」

会場が歓声と、まるで男の言葉に聴き惚れるような感嘆の声であふれる中。
ブライアンはカクテルを優雅に飲み干すと、グラスをスタッフに預け、審査席にふわりと腰を下ろした。

「続いては!前大会優勝者!望みに望まれたマキータ選手との直接対決は、これが初めてとなります!
“ドーナツ王の血を継ぐ者”は、今宵この場所で、ついに王にその牙を剥いた!!

――アッキイイイィィィィィナァァ、テエエェェェリィイイイッッッッツ!!!!」

――その瞬間。思考が、停止した。
たった今叫ばれた名前を思い返す間もなく、白煙の向こうから、細身のシルエットが現れる。
歓声の中、威風堂々とした歩みでステージ中央に向かうその姿は、全く疑いようもなく――
――新光皇歴2000年にはまだ生まれてもいない、秋那・テーリッツのものだった。

「父さんだろうがなんだろうが、私の終わりなきドーナツ・ジャーニーの前に立ちふさがる者は全て張り倒すまでです!!」

よく通る声で宣戦布告を叩きつけた父に不敵な笑みを投げかけながら、秋那は同じく選手席に座った。
……マキータとは父娘だとこの場に居る全ての者が理解しているのに、二人の容姿はほぼ同年代にすら見える。
おかしい。何がどうなっている。
「ねえムスタング……あれは、どういう……」
すぐ横のムスタングに話しかけて、そこで私の言葉は止まった。

私が横を向くより先に、先ほどの汗も紅潮も消えた無表情なムスタングの赤い瞳が、私の瞳を捉えていた。
まるで、今ここでの一切の質問を牽制するように。
まるで、今ここで場を乱すことの一切を排除するように。
彼女はただ無言で、私の言葉の続きを、確かに制止した。

「――」
ムスタングの意図は解らないまま、私はとりあえず質問を飲み込んだ。
明確な指示が出せるということは、逆に彼女はこの状況を、少なくとも私よりは把握していることになる。
ならばまずは従い、あとで事情を聞くのも手だと私は判断した。

「そしてラストは、今大会のダークホース!流星の如く現れた超新星!
その実力は全くの未知数、しかしこの場にいる事実だけが、ただ無言のままに証明する!!

――セルルルィィィィアアア、ルゥオォォォオオオレラァァァァィイ!!!!」

……在り得ない。そんなはずがない。
マキータと秋那が同じ時代にいるのは、先ほどなんとか自分を抑えてとりあえず保留にしてはいた。
しかし、そんなことが、あっていいはずがない。なぜなら、その名前は。

もういい加減見慣れた白煙の彼方、ぼんやりとしたシルエットが光を得て明確になる。

それは、金色のセミロング。ジャケットとパンツの旅姿で包んだ少し痩せ型の体躯。
そして確かに自分の勝利を見据える、落ち着いた眼差しの、空色の瞳だった。
セリア・ローレライ。
新光皇歴の時代には影も形もないはずの、ネクストエイジに生きたはずの少女が、そこにいた。

「譲る気はありません。一切の容赦無く、他の選手の皆さんには敗退して頂きます」

静かな、それでいて微塵ほども容赦の無い宣戦布告が会場に響く。
まるで戦場に赴くかのように、セリア・ローレライはその決して大きくない背中を堂々と張りながら、選手席についた。

「――以上が、今大会での参加ファイターとなります!!
優勝者にはドーナツ二年分、マスタード・ドーナツ・パーク永久パスポート、並びに――」

ゴングの言葉が一旦区切られ、その視線が会場脇へと向けられる。
すると、横のカーテンから一枚の大きな皿を載せた盆を持った女性が歩いてきた。
皿の上にはやたら荘厳な装飾を施されたクロシュが載せられ、何の料理なのかは解らない。

「――我が社が百年に一度、全世界で20個のみ生産する伝説の秘伝ドーナッツ。
『リング・オブ・リジアン・ドリーム』を3個も進呈致しますッッ!!!!」

絶叫へと変化する歓声の中、盆の上の皿、荘厳なクロシュが開けられる。
そこにあったのは、素人目にも解るほどに美しく焼き上げられた小麦色の肌に、黄金色に輝くシロップと虹色のチョコレート・オプションが散りばめられ、
更にその上から真っ白な雪のようなパウダーが噴き上げられた、まるで宝石のように光り輝くドーナツが3個だった。

……私は別段ドーナツジャンキーではない。そのドーナツは、思っていたより派手な外見はしていない。
なのに、それが漂わせるなんとも言えない香りは、私の想像を遥かに超えていた。
私の鼻孔を甘くくすぐり、一気に口の中を湿らせてしまったそれは、
ただの香りだけで、まるで私に天上の極上の菓子を味わわせたかのような錯覚を覚えさせたのだ。

「なんて――ああ、なんて――」
……言葉が出ない。この歓びを、どう表したらいいのか解らない。
翼が生えたような感覚を必死に抑えながら、私は再び眼前の黄金の輝きを見据えた。
あれが、この世のドーナツの果て。
全てのドーナツジャンキーが追い求める、一世紀に一度味わうことすら怪しい、幻の――。

選手達の瞳も、リング・オブ・リジアン・ドリームの輝きに吸い込まれている。
彼らはきっと、あの味を味わう為だけに戦ってきたのだろう。
多くの猛者を破り、無限の砂糖を噛み締め、限りなく「死」に近付きながら、そして――ここまで。

――その時だ。
私のすぐ側に座っていた見知らぬ男が、急に席を立つと、
あろうことか観客を無理矢理に押しのけ、眼を血走らせながらリング・オブ・リジアン・ドリーム目掛けて突っ込んでいったのだ!

「あいつ――!」
ムスタングの驚いたような声は、すでに遠かった。
私は自分でも無意識のうちに、人型ファントムとしての身体能力を存分に発揮し、男をステージ寸前で取り押さえていた。
なおもリングに手を伸ばそうとする男を押さえつけながら、私は男を押し殺すような声で脅した。

「――身の程を知りなさい。
 あの輝きは、あの味は、この戦いを勝ち抜いた戦士にのみ与えられるものよ。
 貴方が口にしていいものではないわ」

スタッフによって拘束され、舞台裏へと連行されていく男を見ながら、私はムスタングの隣に戻る。
横からムスタングの「お手柄だぞ、アイリーン!」という言葉が響くが、それに返答する気分ではもはやなかった。

――ドーナツ配給装置の動力に火が点く。
運命の輪のように回り出す配給コンベアが、ここにいる全ての者達の熱を上げていく。
それぞれの席で、それぞれの戦士達が、静かにドーナツ食の構えを取る。

――たった今、理解した。

私は、見届けなければならない。
この戦いの結末を、誰の手があの輝きに届くのかを。
他でもない、この世界を作った「神」として。

「――第一回戦……“ドリンク・ザ・ドーナツ・リバー”!!
 レディィィィイイイ……ドオオオオオォォォォォナアアアアァァァ――――ッッッツ!!!!」

――この、未だによく解らない世界の真ん中で。
それでも確かに、今ここで。


戦いのゴングが、鳴った。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2015年08月02日 23:51