――自己とは、世界の観測において最初に必要不可欠となる定義にして、
観測そのものにおける「基準点」となる最重要端末である。
ある一つの命題を提示した時、学者ごとによって異なるアプローチや回答が存在するように。
世界もまた明確な一つの姿を持ちながら、それを視る者達の視点によって、如何様にもその有り様を変える。
だがそれにも拘らず――あるいはそれゆえか、
永い時の中で、今まで誰一人として確固たる回答を導き出せなかった、ある簡単な命題が存在する。
期待などない。元よりそのつもりもない。
それでもきっと、この疑問の限界を目指すことこそが、
この世全ての生命の愚かさと、そして確かな存在の証明となり得る可能性を信じて。
――命題。
「君は君という自己を、どこまで正しく認識し運用し得るか?」
◎◎◎
――焔色の霧が晴れる。
染め上げられた世界が、もとの姿へと戻っていく。
状況は、何も変わっていない。
そこに広がるのは、相変わらず破壊され尽くした第7区の広大な残骸。
無数のセメント片で覆われた大地に、黒煙を噴き上げる炎が咲く現代の地獄。
……だがその中で、無数の悪魔達の姿だけが、忽然と消えていた。
「――こん、な――」
喉すら思うように動かない状況で、リトゥナがやっとそんな言葉を漏らした。
彼女が搭乗しているHILDOLVのメインカメラは、先程世界を包んだ光の洪水にあっけなく焼き潰され、火花を散らしていた。
「……そんな、あり得ない……400機ものフィギュアヘッドが、いっしゅ――」
その時、HILDOLVがバランスを崩した。
正確にはHILDOLVが立っていた巨大兵器、ナイアラートホテップ・フィギュアライズが、その巨体を揺らめかせたのだ。
「――あああああっ!?何だ、一体何が――!」
混乱しつつも、リトゥナは咄嗟にサブカメラに切り替え、視界を確保する。
――跳躍。
空中で、HILDOLVが機動力に特化した狼形態へとその姿を変える。
超重量級の体躯を支える、まるで柱のような脚部の間を器用に飛び移りながら、その銀の狼は高度を殺していく。
そして地上からおよそ30メートル程の位置で一気に飛び降り、その四脚で大地に着地した。
「――」
……リトゥナが絶句する。
それもその筈、通常のアームヘッドとは比べ物にならない程の装甲を誇るフィギュライズの脚部二本が大きく抉られ、
リトゥナの眼前でついに自身の超重量を支えきれず、二本とも爆発音のような響きを残して中央から折れたのだ。
――まるで、主の離脱まで耐えていたかのように。
膨大な土煙を上げ、巨大すぎる金属の塊が、地響きと共に沈み込む。
……その内部に残る、600機もの子機の幾つかが、火花を上げながらよろよろと出撃し、
HILDOLVから離れた位置にいるアスモデウスとアポクリファへと向かっていく。
しかしそれらのいずれも辿り着けず、やがて緩やかに地面に墜落した。
「――認めない。こんなの認めない……!
俺の、私の、HILDOLV社の最新兵器が、こんな、こんな……!
――アイリーン、サニーレタス……ムスタング、白樺……っ!!」
アスモデウスとアポクリファのコクピットに、そんな呪詛を乗せた通信が届く。
光の消えた剣と槍を構える二機を眼前に、リトゥナの歯が噛み締められ、ぎちぎちという音を立てる。
「……っざけんなよてめえらああああああっ!!」
リトゥナの絶叫と共に、HILDOLVが人型へと変形しながら、大地を蹴った。
「――があっ!?」
だが、その突進はまたしても二機に届かなかった。
何処からともなく出現した、新たなアームヘッドによって、HILDOLVは羽交い締めにされる形で抑えこまれていた。
それは大御蓮帝国式マンスナンバー、水無月をベースとしたカスタム機らしかった。
「――データは取れた。実験は終わりだよ、リトゥナ嬢」
静止とは裏腹に、リトゥナの精神を逆撫でするような零度の声がHILDOLVのコクピットに響いた。
「っざけんなァ!私はまだ負けてねえ、こんなんで済まさねえ!」
「落ち着きたまえ。君が自分で口頭確認したように、相手はエクジクトが特に警戒する人物だ。
私は元々この実験機のみで倒せる可能性は五分程度だと考えていたが、少し甘かったようだ」
――虚無の底から響くような男の声は、なおも続く。
「何、証拠隠滅なら心配しなくとも良い。私の意思ひとつであれは自己処理できる。
それに結果が芳しくなかったのなら、得られた分の成果を新たな糧として、更にその先を目指すのみ。
――研究者たる私からの成功への秘訣だ。覚えておくと良い、リトゥナ嬢」
なおも暴れるHILDOLVを抑えながら、水無月改のヘッドユニットがその向こうを見る。
HILDOLVに攻撃する機会と捉えたのか、アスモデウスとアポクリファが、こちらへと距離を詰めてきていた。
「これはいけない。この実験における報告会と議論は後だ」
……水無月改のコクピットの中で、年齢が判別し難い容姿の男が、微笑みながら一度指を鳴らした。
――その瞬間。
水無月改とHILDOLV、そして背後のフィギュアライズの残骸が陽炎のように揺らぎ始め、
アスモデウスとアポクリファの前で、霧散するように消えていった。
「……何が目的なの、あいつらは」
アイリーンがアスモデウスの中で、先程までHILDOLVが立っていた場所を見つめながら呟いた。
返答など期待していない、ただ漏れただけの声だった。
「――残念だが、その質問には答えられない」
……期待していなかった筈の返答が、あった。
「――だが、実験協力への礼だ。代わりといってはなんだが、私の名だけで勘弁して欲しい。
私はセツザ・グウィンガム。8月32日機関、No.09。
また会える時を楽しみしているよ。アイリーン、そしてムスタング――」
……それは、最早どこからも通信されたものではなかった。
まるで空間そのものに響いたような、
確かで、それでいてどこか空虚な響きのある“声”は――それで、途絶えた。
◎◎◎
「――ねえ、ムスタング」
呼ばれた名前の主が夜景から眼をそらし、僅かに振り向いた。
呼んだ張本人はベッドの上に仰向けに寝転がっており、その金の髪がシーツの上で広がっていた。
「なんだぞ。せっかく良い眺めを満喫してるのに」
「その割には、不満そうな表情が浮かんでないわね」
アイリーンの憎まれ口に、ムスタングは反応しない。
無言のまま、その紅の瞳を向けて、言葉の続きを待つだけだった。
「……さっき、私……」
「ああ、知ってるし見てたんだぞ」
ムスタングの反応は、異様なまでに素早かった。
「お前の本来の力――エクジコウとしての力が、少しだけ戻ったんだ」
「……私の、力?」
「そうだ。ラストヘヴンに来てから、ずっとどこか全開じゃない感じがしなかったか?
お前と俺が知ってるように、アスモデウスもお前自身も、本来相当強力なんだぞ。
それがあのキャンプの時は、狂い人形数体に集られただけで苦戦した。
その理由が解るか、アイリーン」
「――」
無言で首を横に振るアイリーンの姿に、ムスタングは小さく頷く。
そしていつもと変わらない、無邪気さすら漂う無表情のままに、その先を答えた。
「お前自身がやっと『可能性』を知覚し、実感し、ある程度取り戻したからだ」
「……可能性?」
「そうだ。思い出してみるんだぞ。
ラストヘヴンに来る直前、お前が追憶の扉を呼び出したあの時を。
あの時、お前は確かに足掻いた。扉は、それに応えた。
だがかくいうお前自身が、オルタナの侵食の前に、かつての世界の可能性を忘れてしまっていたんだ。遠く、遠くに」
「――」
「……まあ解りやすくいうと、
あんまクソ真面目に気ばかり張ってると、自分が何を目指してたのかも解らなくなってパンクする、ってことなんだぞ」
……何一つ、表情を変えないまま。
そんな気の抜けるような纏めをすると、ムスタングは隣のベッドに突っ伏すると、3秒程で寝てしまった。
部屋の電気が消され、夜景の距離のある光だけが部屋を差す。
横から響いてくるムスタングの寝息を聞きながら、アイリーンは微睡んでいた。
迫る眠気。
流されてしまう直前、静かに一言だけ呟いて、その意識は落ちた。
「――私の、かのう、せい――」
最終更新:2015年09月09日 13:03