拳と拳が飛び交っていた。お互いの顔を、腹を、殴る。
言葉はなく、あるのは拳が皮膚にめり込む鈍い音と息の音のみ。
スラーヴァ王は両方の鼻から血を流し。片目は瞼が腫れすぎて閉じている。打ち付け続けた拳からは血が流れ、腹や肩は殴られすぎて変色している。
青年は口から血を流している。歯も折れているようだった。首から下は布でで隠れているが、王と大差ない状態だろう。事実手は自分の血でまみれている。
双方ともに満身創痍という具合だった。
特に青年のほうは一度顎を殴られて倒れかけた後だ。

青年――ニエーヴァがいる。だというのに、一言も言葉を交わせていない。
彼はただ王と殴り合っている。

「今日は、拳だけでは倒せんか」
王がその足を振り上げる。ニエーヴァの耳を捉えたかに見えた。が、ニエーヴァがその足を掴む。その首に衝撃は十分に伝わっているが、それに、耐える。耐えて投げる。
一本の足で体を支えている状態だった王は、投げられた衝撃から身を立て直せず背中を地面に打ち付けた。があっと鈍い声が響く。しかし立ち上がる。のっそりと立ち上がり、ニエーヴァの肩を掴み、後ろに押し倒す。
マウントポジションを確保した王は右腕を振り上げニエーヴァの顔面を殴りつける。左腕で首を押さえつけ、顔面を何度も、何度も。
顔面に拳をめり込ませたまま息を荒くする王の両腕を掴むニエーヴァ。そしてその手首をあらぬ方向にへし折る。ひどい音をたてた。あまりの痛みに王が空へ吠える。
そのまま王の純白の髪を掴むと、地面にたたきつけた。今度はマウントポジションを護った王は、ニエーヴァの両腕を足で押さえつけて立ち上がった。そのまま飛び上がると、ひじから腹の方へ落ちる。
しかしニエーヴァが無理やり体をずらしたことで、その肘が地面を突いた。二人ともが横たわってにらみ合っている。
そして立ち上がる二人。立っていると表現することも憚られるほどふらふらしている。

双方が拳を振り上げる。最早王のそれは拳などではないが。拳を振り上げている。目を血走らせて笑いあって。
ここまでの殴り合いを見て、この戦いの理由を考えていた。考えていたが、この表情を見てついに確信した。ああ、確信した。
確信したことは一つ。多分この戦いには、理由がない。
だから二つの拳を、私が握るのだった。
「あの、一旦待ってもらえませんか。後でやり直してもらっていいので」

その場に座らせ、話を聞く。
「貴方たちは、何をしていたんですか」
「そこのパウィルとは決着をつける必要があった」
「王様に負けっぱなしは癪だった」
まるで子供のような理屈だ。
王の表情が見たことのない顔をしている。人間の表情をしている。悔しい、という顔をしている。
ニエーヴァは不貞腐れている。決着を邪魔されたことに機嫌を損ねている。こちらと目を合わせようともしない。見たことのない反抗的な顔をしている。
「それは別に、勝手ですけど、あの、私たちは王と計画についての話や、そういうことをしないといけないんですけど、わかってやってるんですか」
「それならその男に既に話した。やり直していいか」
王が立ち上がろうとする。それを睨みながらニエーヴァも続こうとする。その肩を押さえつけて無理やり座らせる。
「何を話したかくらい言ってもらえないと話にならないでしょう!」
あまりにばかばかしく思って柄にもなく声を荒げてしまった。それに驚いたのか二人はおとなしく座りなおした。

「なに、と言ってもな。お前たちがここに行き着き、私の計画を阻んだことが全てだろう。いまさら何を話すのだ」
「つまり、諦めたということですか」
「諦める、というのは違う。もとより、私は最善の策を打つのみ。私は王だ。王は人の次元でものを考えてはならない。王の次元で民を思わなくてはならない。
だから私は非情でなくてはならないし、自国以外の事情も考えることはしなかった。それが王の務めだからだ。
そしてお前たち国民の成すべきことは、私の命に従うことではない。人は、王の次元を時に否定していい。王は既に人の次元を捨てているのだ。人の次元を捨てて人を生かす者が、本当に人にとって最善の策を出し続けられるわけがない。
その時王を否定していい。否定しなくてはならない。人は、人の次元で、人として豊かに生きていかなくてはならないのだから。
私は今回できることをしようとした。それが否定された。結果として世界を捨てたくないという民意を知ることができた。そのうえでまた別の策を考えるだけだ」
帰ってきた答えがあまりに想像していたものと違っていて、狼狽える。
王は、多分すべてわかっていたのだ。私が王につきつけようとしていたようなことは、王にとっては分かっていたことだったのだと思う。

私は、王が見落としていると思っていた。別の世界に行ったって、きっと平和が保証されているような世界はないのではないかということ。
それに、アンキャストが受けていた世界からの斥力だって、この国を異世界に移そうとしたときに自分たちが受けるかもしれない。そういうことを交渉の材料にしようとしていた。
しかし、王は多分そのあたりも見抜いていたのだと思うし、その上で行動していたのだから、策だってあったのかもしれない。
人は、それを無意識に否定して、この世界を選んだということになる。
「それでも、私は次の策を打つぞ。王だからな。何度でも非情な策を打つ。別の世界ではダメなら、やはりこの世界を延命させるしかないのだから。そのための策は打つとも。
だが――、だが、それでも、そうだな。私は、未来は知らないんだ。計算しただけ。本当に知っているんじゃない。ならばそこのパウィルが固定化した未来に、希望を期待したっていいのかもしれないな」
そう言い終えると、王は折れた手でぎこちなく待てのポーズをとりながら立ち上がった。
「今回は私の負けだ。久々に人の次元で生きた。楽しかったよニエーヴァ。次はないが、楽しかった」
「……勝ってない。いつか決着をつけに行くから、待っててよね」
「次はないと言った。が、私から王の位を奪うつもりであれば、その時はまあ、受けて立とう」
背中を向けた王が私の作った通路を使って、柱からゆらゆらと去ってゆく。ゆらゆらと、ゆらゆらと。
それをただ見ていた。
そのうち、トンネルの陰と一体になって見えづらくなって、そして、消えた。

見届けて、振り返る。そしてやっとその顔をしっかりと見る。ニエーヴァ・シャカラータの顔を見る。まあ、本当はこんな顔はしていないだろう。ぐちゃぐちゃだ。
七年を経て青年となったニエーヴァは、私の目をかつてのようにじっと見たりはしなかった。むしろ私から目を逸らしていた。
なんだか、胸が苦しくなる。不安でたまらない。
「怒って、いますか」
「お、怒ってない」
「だったら、私を見てくれないのは、なんでですか」
「ひゃ!?な、なに言ってるの。見えてるし。いいでしょ、これで」
「私は、嫌われてしまいましたか」
「ち、違うし」
「だったらニエーヴァ、貴方に伝えたいことがあったんです。かつて私に聞いたでしょう。何が好きかって」
「待って!ちょっと待って!それ、言わなくてよくない」
「聞くのが、嫌なんですか」
「ち、違うくって、だから、あの」
「さっきから、違う違うって、なんなんですか。大体、私は、本当はすぐに話したかったのです。それなのに、王様と殴り合うことばかり」
「それは!男にはプライドってもんがあって!あいつには絶対に勝たなきゃいけないんだよ!」
「さっきから、貴方の気持ちがよくわかりません」
「は、はあ?ぼくの気持ち?な、なに言ってるの。何聞こうとしてるの」
「私はね、ニエーヴァ。あなたが好きなんです。ずっと、ずっと、死んだと思ってもずっと、好きだったんです」
頑なに目を合わせまいとしていたニエーヴァがついにこちらを見た。ボロボロの顔で、目を見開いて、顔を赤くして、鼻を膨らませて。
「な、ななななな、なに言ってるの、なに、言ってる、の」
「ニエーヴァ……もしかしてあなた、照れているんですか」
「う、うるさい!」
それでやっとわかった。なんだ、私は嫌われてなんかいなかった。むしろ、これは、きっと。
「ふふ、ニエーヴァ、なんだ。そうならそうと言ってくれないと、私は機械ですから、そんなに察しがよくはないんですよ」
そして、何かを言おうとしているニエーヴァに顔を寄せる。
顔と顔が近づく。
近づいて、くっつく。
それから、唇が離れる。

「ニエーヴァ、私もあなたが好きです。あなたは」
「……うん、好きです」

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最終更新:2016年10月05日 02:45