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透明な想い出に・お母さんの目玉 - (2008/02/18 (月) 22:43:39) のソース

**透明な想い出に
#center(){
 ~ お洒落でエエカッコシイの合唱団に ~
                             平吉 毅州
 
 合唱団アムサティークの誕生、そして第一回演奏会おめでとう。 
 ボスの川邊君とは、学生時代からのポン友で、他の仲間と一緒に、
 やれソシアルダンスだ、やれビリヤードだ、とよく遊んだ。
 昭和30年代の話である。
 
 当時から、彼は極めてお洒落でエエカッコシイで、そのくせ変に勉強家、
 そして性格が明るい。それは今も変わらぬ。
 クルマを持てばVW、そして今はアウディとくる。
 ベンツ、ポルシェでないところがカワユイ。
 
 俺達も、もう50代の後半に入ろうかというところ。
 長生きして、新生アムサティークと一緒にひたすら前へ前へと進んで欲しい。
 これは、この合唱団の名誉顧問であるワタクシの心からの希いなのです。
 
 今回、第一回コンサートを記念して、メンバーの糸川真弥さんの詩
 「透明な想い出に」に曲をつけて、プレゼントします。 
 
}
#right{(第一回演奏会パンフレットより)}


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#center(){#ref(toumei1.JPG)}
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 「透明な想い出に」は、アムサティークの名誉顧問である[[平吉毅州先生>名誉顧問紹介]]に
  第一回演奏会を記念して作曲して頂いた混声合唱曲です。
 (ちなみにこの曲が出来上がったのは、演奏会の二週間前でした。)

 この美しい曲は、次の一節から始まります。


        ひたいにかざした  手のひらから
        光がにじむ
        夏のしずくが  こぼれてきた

        なにもかもが  透明で
        なにもかもが  美しかった


作詞者である糸川真弥さんにコメントを頂きました。
 「透明な想い出に」は、平成3年の春に第1回のアムサティークの
 演奏会で初演されました。
  その前年、アムサティークが結成された時に名誉顧問を引き受けて
 くださった平吉毅州先生に「ぜひ委嘱作品を」との話が持ち上がり、
 その作詞をさせていただくお話をいただいたのです。
 
  恐れ多くもあの平吉先生に曲をつけていただける・・・それまで
 趣味程度に詩を書いていた私は「本当にいいのかな?」と恐縮しな
 がらもこの幸運な企画をお受けし、ちょうどその前年に不慮の事故で
 亡くなった、私たちのある一人の合唱仲間を思って書き上げました。
 
 古臭い言葉だけれど
 誰もが持っている「青春の1ページ」。
 私たちの青春はまさに「歌」でした。
 
 うれしいことも、かなしいことも
 一緒に歌ってきた歌の思い出と
 分かり合えた仲間は
 永遠に透明であり続けます。
 
 あの時代を忘れないで・・・生きていきたい。
 彼女の分まで。
 
 そんな気持ちで書いた詩です。

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**お母さんの目玉 

 私たちアムサティークは1991年の第1回演奏会より、毎年2月又は3月に
演奏会を開催していますが、1995年だけ演奏会を開催出来ませんでした。
 同年1月17日に起きた阪神淡路大震災の為です。
団員の中にも被害が出た事もあり、この年は演奏会を中止しました。

 しかし、歌を続けたいという想いは強く、翌年の1996年には再び演奏会を
開催する運びとなりました。この記念すべき演奏会で[[平吉毅州先生>名誉顧問紹介]]に作曲して
頂いたのが、混声合唱曲「お母さんの目玉」です。


     お顔がまるくて
     ぽっちゃりしてて
     おっぱいが出てて
     まるで 春のお日様のよう


作詞者である糸川真弥さんにコメントを頂きました。
  「お母さんの目玉」は、かつて私が盲学校に教員として勤務していた頃に、
 ある作品展で出会った「先天性全盲児が作った粘土細工」から受けた衝撃を
 書いた作品です。
 
  目の見えない子は、既成の物体を指で触ることによって「どんなものか」を
 理解しますが、大好きなお母さんをたくさん触って確認しても、どうしても
 目玉だけは触ることができません。
  そこで「目玉のない」お母さんの粘土細工が出来上がります。
 その悲しくも切ない現実に直面した時、私は言葉を失い、その粘土細工を見た
 だけで胸がいっぱいになりました。
  そしてその時の思いを何とか表現しようと言葉にしたのがこの「お母さんの
 目玉」でした。
 
  平面的な私の言葉も、平吉先生にメロディがつけられ、アムサティークの
 メンバーによってハーモニーが綴られると、あの時のなんとも言えない心の
 動揺が、再現されるようでした。
 

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#center{
1998年5月28日、平吉毅州先生は永眠されました。
突然の訃報に、先生方をはじめ全団員が衝撃を受けました。

「「透明な想い出に」と「お母さんの目玉」、
もう一曲作って、混声合唱組曲にしよう。」

その想いは、ついに実現することはありませんでした。
今となっては残念でなりません。

私達の宝物であるこの2曲に共通しているのは、平吉先生の
人柄でもある限りない優しさではないでしょうか。


}
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  どちらの作品も、私にとっては宝物であると同時に、長年歌い続けている
 アムサティークにとっても宝物です。
 
  この2作品を書いた頃、私は「独身の社会人」でしたが、今はアムサティ
 ークには参加できない土地で「2人の娘のお母さん」をしています。
 
  時間が流れ、時代が移り変わっても、この2曲は変わることはありません。
 僭越ながら作詩者として、アムサティークで歌い続けられていることを心から
 誇らしく、うれしく思いますし、何よりも変えがたい宝物を残してくださった
 平吉先生には感謝の気持ちでいっぱいです。
#right{(2007年2月 糸川 真弥)}
 

#center{
透明な想い出に  色をつけずに

私達も前向いて  歩いていこう

海も 空も 風も  美しいものそのままに

愛も 夢も あの歌声も  そのままに
}

#right{(「透明な想い出に」より)}


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#center{#ref(toumei.jpg)}

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#center{(画像・歌詞等の無断転載を禁じます)}



























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