この年表は管理人のただの趣味によって編纂されています。
細かい所はほとんどWikipedia
ソースなうえ、かなり偏ってるので信用しすぎないように。
機材の開発とアニメ・映画黎明史
年 |
概要 |
功罪・解説など |
200年以前 |
幻灯機ファンタスコープ(fantascope)が発明される。当時はガラスに描いた絵を投影するもの。中国の文献が最古と言われる。 |
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1824年 |
ロンドン大学での生理学者ピーター・マーク・ロジェ(Peter Mark Roget)が「動体に関する残像(Persistence of Vision with Regard to Moving Objects)」を出版 |
残像の発見 |
1825年 |
イギリス人医師ジョン・A・パリス(John A. Paris)が「ソーマトロープ(thaumatrope)」を発明、回転する紙の表裏に描いた絵を、残像によって合成することに成功 |
二枚の絵の合成 |
1832年 |
ベルギーの学者ジョゼフ・プラトー(Joseph Plateau)が光学玩具の元祖フェナキスティスコープ(phenakistiscope)を販売。円盤に切れ目が入っており、鏡を使って見る。 |
「動く絵」が完成 |
1834年 |
イギリス人のウィリアム・ホーナー(William Horner)がゾートロープ(zoetrope)発明。切れ目の入った筒の内側に絵が描いてあるもの。 |
オールインワンのアニメーション映写機 |
1852年 |
これらの玩具に写真が用いられ始める |
実写映画の可能性発現 |
1862年 |
アメリカの発明家コールマン・セラーズ(Coleman Sellers)がキネマトスコープ(kinematoscope)を発明 |
鏡(スクリーン)に映し出すアニメーション |
1868年9月 |
ジョン・バーンズ・リネット(John Barnes Linnet)により「フリップブック」(パラパラマンガを印刷したもの)販売 |
パラパラマンガの発明? |
1877年 |
フランスのチャールズ・エミール・レノー(Charles-Émile Reynaud)がプラキシノスコープ(Praxinoscope)の特許取得。 |
ゾートロープの改良型。回転軸が鏡で覆われ、像が明るく歪みが小さい。 |
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この辺からカオスで何が真実かわからない。どうやらコマ撮りを発明したとする主張も山ほどあるらしい |
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1888年頃 |
テアトル・オプティーク(Théâtre Optique)発明。10月同氏監督「一杯のビール(Un bon bock)」試写。89年1月14日特許取得。92年10月28日上映 |
長編映像制作が可能に 世界初の手描きアニメ映画 |
1891年 |
エジソンがキネトグラフ(Kinetograph,撮影機)とキネトスコープ(Kinetoscope,映写機)、を発明 |
カメラとそれを見る機械。覗き込んで見る |
1892年2月12日 |
フランスの発明家レオン・ボウリー(Leon Bowrey)がシネマトグラフ(cinématographe)を発明。翌年リュミエール兄弟(オーギュストAuguste Marie Louis とルイLouis Jean )が特許買収。(ただし概念化し特許を出したのはリュミエールだとする説もある) |
カメラ+映写機 |
同年 |
チェールズ・エミル・レナウド監督(Charles Emile Renaud)「Pauvre Pierrot」公開。 |
世界最古の絵で作られたアニメ映画 |
1895年 |
ルイ・リュミエール監督「工場の出口(La Sortie des usines Lumière)」公開 |
世界初のスクリーン映画 |
1902年 |
メリエスの「月世界旅行」において、ストップモーションが使用される |
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1906年 |
ジェームズ・スチュアート・ブラックトン(James Stuart Blackton)「愉快な百面相(Humorous Phases of Funny Faces」撮影 |
黒板とチョークを使ったコマ撮り実写映画 |
1907年 |
同監督「幽霊ホテル(The Haunted Hotel)」撮影 |
幽霊屋敷の怪奇現象をトリックにより再現 実写 |
1908年 |
エミール・コール監督「ファンタスマゴリー(Fantasmagorie)」公開。白い紙に黒インクで描かれ、ネガフィルムのまま黒地に白い線のアニメ |
世界初の手描きアニメ映画と言われている |
1911年4月8日 |
ウィンザー・マッケイ(Winsor McCay)監督「動くのを見て(watch me move)」に同氏のマンガキャラ出演(身内のみの上映) |
カラーのマンガ原作アニメ |
1914年 |
アール・ハードがセル画によるアニメーション技術が特許申請される |
セルアニメの発明 |
1910年代前後 |
この時点では背景を印刷した紙にペン描きのアニメが主流。アルゼンチンやドイツなどで人形アニメが盛んに作られる |
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余談1~世界最古のアニメ
三社による日本最初のアニメ制作競争
1915年 |
映画会社の日活向島撮影所が洋画家の北山清太郎を迎え入れ、アニメ映画の研究を開始 |
日本アニメの始まり |
1916年 |
天然色活動写真株式会社(天活)が漫画家の下川凹夫を迎え入れ研究を開始 |
競争の開始 |
1916年 |
日本最初のアニメ制作を目指していた映画監督の小林喜三郎(小林商会)が画家の幸内純一を東京パック社から引き抜き、映画製作会社の小林商会に入社。アニメ制作を依頼 |
1917年1月 |
洋画家の北山清太郎、漫画家の幸内純一らによる「芋川椋三玄関番之巻」公開 |
日本初のアニメ映画 |
同年5月 |
日活の『猿蟹合戦』公開 |
日本で二番目のアニメ映画 |
同年 |
幸内純一らによる「なまくら刀」完成、6月30日に『塙凹内名刀之巻』と改題されて公開 |
日本で三番目のアニメ映画 |
ディズニーのアニメ制作
1920年 |
ウォルト・ディズニー、19歳で初のアニメ作品「ニューマン劇場のお笑い漫画」を手がける |
ディズニー初作品 |
同時期 |
漫画の国のアリスシリーズ(The Alice Comedies)、オズワルドシリーズといった人気アニメを手がける。後に権利関係でモメたため、'23年に自前の製作会社ウォルト・ディズニー・プロダクション(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)を設立 |
ディズニー発足 |
1923年 |
漫画の国のアリスシリーズを元にハリウッドでビジネスを開始 |
童話のアニメ化開始 |
1928年頃 |
フィリックス・ザ・キャットを模したキャラを用いて実写合成の短編を制作するが抗議を受け、別作品の企画を余儀なくされる。「フィリックスのノンストップ飛行」のパロディ、「プレーン・クレイジー(飛行機狂)」(どちらもサイレント作品)を制作する。このキャラクターが後のミッキーマウスとなる |
ミッキーの誕生 |
同年11月18日 |
ミッキー登場第三作「蒸気船ウィリー」(トーキー作品、サウンドトラック方式を採用した世界初作品)がヒット。 |
後に手塚治などに影響を与える。 |
余談2~実際の当時のアニメ
www.new-akiba.com/archives/2007/03/youtube_96.html
この当時のアニメ作品がYouTubeで紹介されているとの記事
※記事中には戦前と書かれているが、実際には戦中
セルアニメと近代日本アニメの始まり
1930年前後 |
セルアニメが使われ始める。それまでは切り絵アニメが主流。 |
セルアニメの始まり |
1948年 |
日本動画株式会社設立。52年に日動映画株式会社と商号変更 |
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1950年代 |
ディズニー作品のヒットを受け、東映が日動映画株式会社を社員ごと買収し、映動画株式会社を設立。 |
後の東映アニメーション |
1953年8月28日 |
テレビ放送開始。 |
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以降 |
時期は不明だが、アニメーションを含んだCMなどがたびたび放映された。 |
後のエイケンのTCJや漫画家の横山隆一の「おとぎプロ」が制作に携わっている。 |
1957年 |
東映大泉撮影所内へのスタジオ移転を機に、長編アニメーション制作の体制が整う。 |
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1958年10月以前 |
東映、香港映画のプロデューサー(葉国盛?)と協同出資で、日本とアジア全体に通用するようなフルカラー劇場用長編アニメーション映画を企画するも、後に消滅 |
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1958年10月22日 |
大川博らが「白蛇伝」を制作、公開。主要スタッフは赤川次郎の実父である教育映画部の赤川孝一、キャラクター原案と美術を担当する岡部一彦、NHK技研出身で美術担当の橋本潔、演出担当の藪下泰司など。 |
東映初作品、大塚康生によると世代交代の基点となった作品 |
同時期 |
各方面からスタッフを増やし、旧日動映画スタッフ指導の下、手慣らしとして『こねこのらくがき』など短編作品を制作。東映動画第一期生の中には大塚康生、楠部大吉郎ら。 |
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以降 |
長編作品を制作しつつ、体制を整える。宮崎駿なども参加している |
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1959年 |
「ポパイ」放映開始 |
海外制作だが、日本で放映されたアニメ番組としては初? |
1960年1月15日 |
NHK「3つのお話」を放映(一回のみ) |
中村メイコのトークや実写を交えた童話のアニメ化。国産アニメ番組としてはおそらく日本初。 |
1961年4月3日 |
「みんなのうた」放映開始 |
アートアニメ系の作品ではあるが、毎週5分放映という形態は日本初。 |
1961年5月8日 |
おとぎプロ制作「インスタント・ヒストリー」放映開始 |
毎週3分(OPEDなどを計算すると実質1分)という形態だった。短編だが、ストーリーのある連続アニメとしては日本初。 |
1961年6月 |
手塚治が手塚プロダクション(手塚治虫プロダクション動画部)設立 |
手塚治によるアニメ制作会社 |
同年11月 |
手塚プロ第1作である短編アニメーション映画「ある街角の物語」及び「鉄腕アトム」第1話を公開。 |
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1962年10月19日 |
漫画家の吉田竜夫がマネージャーであり弟でもある吉田健二らと竜の子プロダクションを設立。当時は氏の作品の漫画の版権やアシスタントの管理をするための会社だった |
後に「タツノコプロ」として70年代を代表するアニメ制作会社となる |
1963年1月 |
連続テレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」放映開始。 |
毎週30分・漫画原作という形態では日本初。アートアニメ系作品の「みんなのうた」シリーズもそれと同時期に放映を開始している。また、CMなどではアニメ技法がたびたび使用されていた。作品の質は(時代を考慮しても)酷いものだったし、アニメーターの給料の問題を先延ばしにして定着させてしまった罪等もあるものの、現在まで続くこの放送形態を確立し、アニメ業界の可能性を一気に広げた事は評価に値する。なお、この作品にの制作には後に「ガンダム」の監督として有名になる富野由悠季が携わったりもしている。 |
1964年 |
タツノコプロへ東映動画からテレビアニメ制作の企画が持ち込まれる。アシスタントの原征太郎と吉田兄弟の友人の漫画家笹川ひろしが東映動画で3ヶ月のアニメーター養成研修を受けるが、著作権問題で制作開始直前に中止。 |
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1965年5月8日 |
タツノコプロ、「宇宙エース」放映開始 |
タツノコ初作品 |
同年10月6日 |
手塚プロ、「ジャングル大帝」放映開始 |
毎週30分のカラー作品としては日本発 |
この頃 |
時折「アニメは漫画家やそのアシスタントが作っている」などと思っている人が居るが、この頃は漫画家が企画から編集まで深く関わっている事が珍しくなかった。(そもそも本数が少ないため、多いとも居えないが)現在ではアニメ専門の業界が確立し、そのような事は無くなったが、当時の漫画家がアニメ制作会社の重役になっているケースもある。 |
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余談3~大塚康生の話
以下からの抜粋。
www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/ohtuka/ohtsuka-kouen1.html
- 当時の東映動画は東映映画からの影響が強く、大塚氏が鉄腕アトムを見た際、あっさり敵を倒してしまう演出が理解できなかったらしい。(東映的演出では、なんらかの苦難を乗り越えてようやく敵を倒す)
- タップは存在せず、紙の左下を基準に紙を揃えていた。(角合わせと呼ばれる)
- 東映京都撮影所に編集スタッフの宮本信太郎という人が居て、シナリオ~ラッシュ時にカットの是非を決定するなどの活躍をしていた。スタッフからは「御大」と呼ばれていた。
- 藪下泰司がディズニーでから「アニメーテッド・フイルム」という冊子を購入し、大塚氏が翻訳して教科書としてスタッフらに配布した。ひどく「ディズニー的」な内容だったが、アメリカ的でもあり、どんな人種でも分かるように懇切丁寧な解説だったらしい。
アニメという語
明治末期 |
海外から輸入された短編アニメが「凸坊新画帖」と訳される |
恐らく最初の「animation」の訳語 |
時期不明 |
アニメが「漫画」「漫画映画」などと呼ばれはじめる。 |
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時期不明 |
「線画」「繰画」という語が使われる |
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時期不明 |
アニメーターの政岡憲三がアニメの訳語として「動画」を提唱 |
アニメ業界に浸透。後にパソコン上の映像を表す語としても使われる |
時期不明 |
テレビアニメが多く放映されるに従い、「テレビまんが」という語が使われるようになる。 |
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1965年7月 |
映像制作者向けの専門雑誌『小型映画』7月号にて、「アニメ」という語が用いられる。6月号までは「アニメーション」と書かれていた |
「アニメーション」「アニメ」という語が日本で使われた、最初期の例。 |
1968年 |
偕成社の絵本のシリーズ『名作アニメート絵話』発刊開始 |
一般に向けの本に「アニメ」の語が出現。ただし動詞形の「animate」 |
1969年 |
アニメーション映画『千夜一夜』公開。アニメとドラマの合成語「アニメラマ」という語が使われる。(本編に出たのではなく宣伝文句か?) |
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1975年 |
ポプラ社の絵本シリーズ『テレビ名作アニメ劇場』発刊 |
アニメという語が単体で書籍名となった、おそらく最初の例 |
同年6月3日 |
アニメ制作会社「日本アニメーション」設立 |
企業名に「アニメーション」 |
1978年5月26日 |
アニメ雑誌三強の一つ「アニメージュ」創刊 |
以降、「アニメ」と付くアニメ雑誌が相次いで発刊され、一般に「アニメ」という語が浸透する。1980年頃以降は「テレビまんが」「動画」はほとんど使われなくなった |
1970年代 |
海外で日本アニメを表す「Japanimation」という語が使われ始める |
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1990年代 |
海外で「Anime」という語が使われるようになる。 |
日本アニメを表す語としても用いられる。「Japanimation」は「Jap(日本の蔑称)のAnimation」とも読めるため、日本好きのオタクは気を使って「Japanimation」を使わなくなってきている。 |
手塚プロの倒産
1970年代 |
人材難により人件費が高騰。テレビアニメ制作会社の乱立で競争激化。手塚プロ、経営悪化と労働争議・劇場用作品の失敗などから資金繰りが短期間に極端に悪化 |
1971年 |
手塚プロ、手塚原作作品の減少もあって、手塚が社長を退任。ただし、手形の保証などを手塚個人名義で行っていたため、手塚はその後残務処理にてんてこ舞い。 |
1973年8月22日 |
手塚プロ関連会社の虫プロ商事が倒産。この頃には相当経営状態が悪化していた。8月時点で9月以降の作品制作のめど立たず。 |
同年11月5日 |
手塚プロ、3億5千万円の負債を抱えて倒産。多くのスタッフは他のスタジオへ移籍。 |
おたくの発生とおたくによるアニメ制作~ガイナックス設立から「新世紀エヴァンゲリオン」まで あとデジタルアニメとか
慶応大学の学生も同時期に活躍したらしいけど、現在調査中
1950~60年代 |
黒澤明初監督作品が連続ヒット、映画監督としての名声を確立する |
骨太のヒューマニズム・秀逸なストーリーテリングと革新的な視覚効果で、後の演出家に多大な影響を与えた。アクションシーンにおけるスローモーションや望遠ショットなどは黒澤が初出らしい。現在でもフォロワーを自称したり、オマージュに挑むアニメ・映画・ドラマ演出家が居る。 |
1954年 |
「ゴジラ」上映開始 |
特撮の黎明期。当時特撮は決して子供向けに限られたものではなく、合成技術の実験と商売形態の模索の繰り返しだったという。特撮のマニア・コレクターは後述のSF・アニメマニアらと、衝突を繰り返しつつもなんとなく一緒くたに扱われている。 |
1966年1月2日 |
「ウルトラQ」放映開始 |
ウルトラマンで有名な円谷プロのウルトラシリーズ(空想特撮シリーズ)の第一作。この頃には特撮は子供向けという意識が確立されていた。子供と同じ目線を意識したローアングル(エロ目的ではない)の多用や、一瞬何か分からない映像から徐々に主題へ変化する「実相寺カット」は現在でもよくオマージュされる。 |
1971年4月3日 |
「仮面ライダー」放映開始 |
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1974年10月6日 |
「宇宙戦艦ヤマト」放映開始 |
日本でのSFブームの火付け役 |
1975年4月5日 |
「秘密戦隊ゴレンジャー」放映開始 |
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1975年12月21日 |
第一回コミックマーケット開催 |
当時は「同人誌」という言葉は一般的でなく、「ファンジン(ファン+マガジン)」と呼ばれたんだとか。考察・批評本も多かったらしい。 |
1978年4月4日 |
「未来少年コナン」放映開始 |
宮崎駿監督作品 NHKのSFアニメ |
1978年7月1日 |
「スターウォーズ」上映開始(米では'77年5月25日から、先行公開は6月24日) |
海外でのSFブーム |
1979年4月7日 |
「機動戦士ガンダム」放映。 |
「ヤマト」のマニア向け関連事業がヒットした事を受け、当初から中高生をターゲットに制作された。低視聴率を理由に放送枠を短縮され43話で打ち切られたが、打ち切り直後にガンプラなどのマニア向け商品で人気に火がつき、再放送の繰り返しで社会現象にまで発展した。この世代のオタクを「第一世代」と呼ぶとか呼ばないとか。また、後に「超時空要塞マクロス」で有名になる板野一郎が今作で動画・原画デビューを果たしている。 |
1979年12月15日 |
「劇場版ルパン三世 カリオストロの城」上映開始 |
宮崎駿監督作品 |
1980年5月8日 |
「伝説巨神イデオン」放映開始 |
「ガンダム」と同じ監督の作品。今でこそマイナーだが、当時はガンダム以上に熱狂的なファンがいた。板野一郎のこだわりにより、キャラクターが死ぬシーンでは徹底的な人間破壊描写が行われ、後述のおたく出身アニメーターにある種多大な影響とトラウマを与えている。 |
「おたく」という言葉は83年頃から蔑称として使われはじめた。
マニア達が自虐的に使い出す事によって差別的意味合いがほとんど失われたのは、インターネットが普及した2000年代に入ってからである。
今もこの時代を知る人達は「おたく」という言葉を「道徳を欠いたマニア」と解釈しているようで、現在も蔑称として使われる事が少なからずあるため、使いどころには気をつけたい。
1981年 |
第20回日本SF大会(愛称「DAICON3)開催。SFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ(ゼネプロ、アニメイトのようなグッズ専門店の前身)」の店長だった岡田斗司夫発案により、同店で働いていた大阪芸術大学の学生ら(DAICON FILM)がオープニングムービーを制作・公開。 |
オタクによる商業アニメ制作の可能性。「新世紀エヴァンゲリオン」監督・主要制作陣らも参加している。この時代の学生である事を考えるとクォリティはかなり高い。余談ながら、ゼネプロはフィギュア界のコミケ「ワンダーフェスティバル」の元主催でもある。 |
1982年 |
同メンバーにより第22回日本SF大会(愛称TOKON8)において、「愛國戰隊大日本」「帰ってきたウルトラマン」(DAICON版)「快傑のーてんき」をDAICON4の宣伝用プロモーション作品として公開。 |
アマチュア作品としてはかなり凝ったもので、SF作品だが、アニメ誌に記事が載り、後にパロディ元公認になり、パロディが作られ、この時代のオタク出身の演出家などに影響を与えるなどしている。 |
1983年頃 |
DAICON FILMメンバー、上京。「超時空要塞マクロス」や「風の谷のナウシカ」制作に研修を兼ねて参加。 |
同人からプロへ。そしてこの作品自体もSF・アニメファンを増やす要因となった。ちなみに、ナウシカは宮崎駿監督作品だが、ジブリはナウシカのスタッフが集まってできたものなので、正確に言えばナウシカはジブリ作品ではなく、テレコム制作である。ただし、版権は現在ジブリが持っている。DVDコメンタリによれば、ナウシカ参加はDAICON4後。 |
1983年 |
同メンバーによる第23回日本SF大会(愛称DAICON4)オープニングムービー制作・公開。後に様々なパロディに使用される。電車男のオープニングなどもこれ。 |
前回からかなりクォリティアップ。これは今のプロが見ても舌を巻く。 |
1984年秋 |
岡田斗司夫「リイクニの翼」企画、12月24日、制作にあたりDAICON FILM解散、同時にガイナックス設立 |
独立。ただし、当時はあくまでこの作品のための再集結であり、公開と同時に解散する予定「だった」。 |
1987年 |
ガイナックス、「リイクニの翼」改め「オネアミスの翼 〜王立宇宙軍」公開。 |
しかし商業的失敗により経営を続けざるを得なくなる。後にOVA作品「トップをねらえ!」を制作するも、制作費のかけすぎで借金増大。90年代からのパソコンゲーム進出でようやく借金解消するが、会社が成長しすぎて解散できなくなっていた(する気もなくなってたろうけど) |
1992年夏 |
ゼネプロが海洋堂へワンフェスの権利を委譲した後、ガイナックスと合併 |
ゼネプロとの合流 |
同年 |
ガイナックス創設メンバー数人が退社と同時にゴンゾ設立。とはいえガイナと仲が悪い訳ではなさそう。 |
早くから3DCGを取り入れていたスタジオ。管理人の経験では、ネットでアンチをよく見るがオフラインではファンが多かったり、2008年度の決算では借金だらけだったのにパンツアニメで持ち直したり、CGを取り入れるのが早かった割にHD制作を取り入れるのが遅かったり、よく分からない会社である。 |
90年代中期 |
全国で仕上・撮影工程が徐々にパソコンで行われるようになる。 |
過去にも実験的にCGは取り入れられていたが、仕上以降をデジタル化する手法が急速に普及。2000年代にはほぼ完全にデジタルに移行。 |
1995年 |
ガイナックスとタツノコプロ、「新世紀エヴァンゲリオン」公開。ガンダム以来の社会現象を起こす。 |
子供向けでなく、この世代のおたくを「第三世代」と呼ぶとか呼ばないとか(第一はSF、第二はガンダム世代) また、この作品は複数社をスポンサーにつけ利益分配する「製作委員会」方式をTVシリーズ作品で普及させるきっかけとなっている(初ではない)。製作委員会方式には一長一短あり、短所をクローズアップした記事がネット上で話題になったこともあったが、長くなるので詳細は各々調べてください。また「プリキュア」が初めて製作委員会方式を採用したとする記事もあったけど、これも嘘。 |
余談4~ロボットアニメの歴史 スーパーロボットとリアルロボット
現在推敲不足により、後から読んで恥ずかしい以前に長すぎます!
商業アニメは商売をするのが絶対の目的である。
ロボットアニメの商売の基本と言えば、超合金フィギュアの販売であろう。
スポンサーに玩具会社をつけ、フィギュアの宣伝番組としてアニメを放送するのである。
玩具を売るためにありとあらゆるロボットがデザインされた。
合体し、変形し、新たな武器を手に入れ、必殺技を繰り出す・・・
「トランスフォーマー」シリーズはその最たるものだろう。最近なら、「創聖のアクエリオン」「天元突破グレンラガン」等が合体を念頭に意識した作品である。
過去のあらゆるロボットは変形合体した。かのエヴァンゲリオンでさえ、「○○型装備」と称してパーツを組み替える予定だった。途中で零号機のカラーリングが変わったり、第拾話に登場する「D型装備」がその明確な名残である。なお、ゲーム版・フィギュアシリーズにおいては「F型装備」という重走行装備が重要な意味を持つらしい。
しかし、凶悪な敵とそれに対抗する正義の味方が存在しなければ、ストーリーが成り立たない。
その正義の味方こそが「スーパーロボット」。
スーパーロボットに現実性は特に求められない。20メートル以上の巨体を持ち、無駄に叫びながら必殺技を繰り出し、その内容はビーム兵器やバリアといった超科学的なものが多い。
また、スーパーロボットは特に子供向けの志向が強い。子供でも描ける様、デザインは簡略化され、曲線が多い。
マジンガーZや鉄人28号系の絵柄と言えば、アニメオタクでなくとも理解できよう。
そして、ロボットに異常なこだわりをもったオタク出身の制作者が、スーパーロボットに対抗する形で作ったのが「リアルロボット」。
「リアルロボット」とは、「機動戦士ガンダム」のように、ロボットを一つの兵器・道具として描いたものを言い、命名は「装甲騎兵ボトムズ」の監督とされる。
具体的な要素を出すなら、
- 自重で崩壊しない、20メートル以下の全高
- ロボットは「道具」であり、それ自身がドラマの中心である必要は必ずしも無い
- 人型たる理由をはじめとする、通常兵器に対する戦略的優位性などの緻密な軍事・科学考証(「ご都合主義」の排除)
- 消耗部品の交換といった精密機器類の整備の描写
- 近未来、或いは現実のパラレルワールド的舞台
等等、とりわけ実在感のある演出を追求するものである。
ロボットなるものは、あくまで「システム」として描かれなければならない。
とりわけ、軍事警察任務等の特殊用途に用いられるロボットは、その設計思想を明確に設定し、開発、試作、量産、運用、保守、改良もすべての段階に渡る技術的問題を考慮しつつ、その集約的表現として描かれる必要がある。
現に戒めるべきは、思考停止的操縦者を英雄的に描くが如き、没技術論的演出であった
-「ミニパト」より。
余談5~90年代後半から2000年代以降
実は管理人、親の意向で高校に入るまでほとんどテレビ番組を見ずに育ってしまったため、これ以前の時代から現在に至るまでのアニメの歴史をあまり詳しく知らない。
そのかしネット関係はかなり詳しいつもりなので、2ちゃんねる~ようつべ
~ニコニコに絡めて書いたら面白そうかなぁと。
良かったら誰か教えてくださいっ!
最終更新:2011年07月20日 21:23