―― 「相手の目を見て命令するだけ」で相手を意のままに操ることができる、時には人を自殺させることさえ可能な特殊能力を持った主人公が、自らの信じるところに従って世界を動かそうとする。そんな過激な設定と、毎回必ず山場を作るエモーショナルな展開で話題となった「コードギアス 反逆のルルーシュ」が、10代、20代を中心に絶大な人気を得ています。
放送枠も、第1作目の深夜から、第2作目「R2」では日曜の17時台に“出世”して、ブームはさらに加速していますが、作品を作る際、若い人たちの気持ちをつかむために、どのような方向性があると考えましたか。
―― 10代からのお客さんをターゲットにするために、今の子供たちを知る学校の先生に話を聞くと。
先生の目線から見たときに、今の学生さんの傾向はどういったものに映るのか。もしも私たちの頃とメンタリティがかけ離れていたら、もうその人たちに向けた
アニメは作れないでしょう。だから確かめてみたんです。そうしたら、結果は……。
―― いかがでした?
最終的に出した答えは「変わっていない」でした。今の世代がどうこうではなくて、変わっていないと。変わっていないからこそ、彼らに向けて発信できるなと思ったんです。
―― 今の10代は「ゆとり教育世代」「個性化教育世代」とも言われますね。経済的にもより豊かになりましたし、監督ご自身が少年の頃と比べたら、大きく変わった面もあるのではないかと。その辺りはいかがですか。
確かに時代と共に変わっているものは存在しています。社会状況と環境が変わっていますから、おっしゃるように教育体制ひとつとっても、「管理教育」世代の私とは違いますね。「ゆとり教育」世代は競争心が欠けているとも言われたりしていますし。
もしくは経済ですね。戦後復興期と高度経済成長期が違うように、バブル期と今の不況期も違う。
各種ツールの誕生もありますよね。インターネットだったり、携帯だったり、
ゲームだったり、そういった表層上の変化はあります。
ただ、いろいろ取材をした結果、人間というものが持っている根っこの部分は変わってないなと思ったんです。というのは、私自身がもし10代後半から20代前半だったりしたら、確かに「そうなる」だろうと思うんですよね。
―― 「そうなる」、とは?
ツールは変わっても、欲望は変わらない
常に携帯を手放せなくて、誰かからの連絡をすごく大事にしたりすると思うんです。でも、友達が大事、友だちが欲しいという気持ちは、今も昔も変わらないでしょう。時々、「携帯やゲームが子供たちをダメにしたんだ」みたいな説を見ますけれども、表層上のツールの変化が、人間のメンタリティを根本から覆すとは私には思えない。
最近はさすがに減ったのかな。私たちが子供の頃から、自然に近い生活をするのが大事という言い方があって、子供の玩具もプラスチック製のものはダメで、竹とんぼだったり、たこ揚げだったり、自然のぬくもりが必要なんじゃないかと言われていて。
でも、ツールって、結局その時代、時代のものであって、じゃあどこまで逆戻らなきゃいけないのといったら、最も自然に近い原始時代まで戻ることになりかねないじゃないですか(笑)。縄文、弥生まで戻ったからといって、そのときにすでに土器とか作られていますよね。そういったものまで否定するのかということになっちゃうと、人間が進んでいこうとする文明の過程を全部否定することになっちゃうわけで。ツールの変化はあくまで表層上のことでしかないと思うんですよ。
それで自分としては、人間の根っこは変わらないというところに行き着いたと。その変わらない部分を探りにしていけば、10代に向けたアニメは作れるはずであろうと。
―― いつの時代も変わらない、人間の根っこというのは何だと思われますか?
人間が生理として持つ三大欲求は、今も昔も変わらないですよね。それより大脳のもう少し外側にある欲求。お客さんは、「外に出したい」。もう1つは「取り込みたい」。大ざっぱに分けたらこの2つが大事だと思うんですよ。
「外に出したい」というのは三大欲求の方にもある程度絡みますけれども、笑ったり、涙だったり、泣き声だったり、感情に付随するものですよね。何かを外に出したいんです。
もう1つの欲求は「取り込みたい」。自分にないものを埋めたいというものですね。
そこを出発点にすれば、次のステップへと進める。昔からカルチャーは、「お話」でも「世界観」でも「登場人物」でも、あるいは浄瑠璃のような「人形」でもいいんですけど、思いを入れるきっかけになるものを与えて、人々の欲求に応えてきたのだろうと私は捉えているんです。人間というのは、対象(きっかけ)さえ与えられれば、それを手がかりにして、脳内でふくらませて、勝手に物語を作り上げて楽しむことができるんです。
ストーリーっていろんなものでできるんですよ。コンビニ弁当を例にしましょうか。有名シェフとか芸人さんが監修したというと、お弁当の中身は特別変わったものじゃなくても、誰々さんが作った味ってどんな感じかなと、お客さんはお弁当を見て、そこから先は自分の頭の中で勝手にストーリーを作っているんですね。
―― 脳内で何かしら、自分なりのストーリーができるんですね。カルチャーというのは、観客がストーリーを考えるきっかけを与える役割があると。
カルチャーの役割は、ジャンルや見せ方は違っても、人が求めるものを、精神的に必要な何かを提供することだったんでしょうね。シェークスピアの劇でもロシア文学でも、重厚だと言われても今でも親しまれているのは、人間がどういったものを欲しがるか、共通したところを描いていると。
「自分にないものを埋めたい」というのは、「知りたい」ということですね。さらにその先には「考えたい」というか、「考えるきっかけが欲しい」というか、「何であいつはこんなことをやるんだろう」「こいつはこんなことをやったらどうなっちゃうんだろう」、みたいな。人間が興味を持つものは、やっぱり人間に行き着く。いつの時代どんな年齢の人でも。
これはもう物語が持っている根幹中の根幹ですから、ここさえ外さなければ大丈夫なはずなんです
古今東西、人間は「万能感」が欲しい
―― では、具体的には人間が何が欲しいのだと思いますか。
人間が欲しがるもの、好むものは昔からおんなじで、友達が欲しい、彼氏彼女が欲しい、誰かに勝ちたい、誰かを思い通りに動かしてみたい、というようなことなんですよ。
―― それは「コードギアス」の主人公ルルーシュが、「ギアス」という、相手の目を見て命じるだけで意のままにできる能力と、その能力を使って世界を動かそうとする物語とぴったり合致しますね。ある種の「万能感」というのでしょうか。
どんな人間だって万能でありたい。エンタテイメントが提供するものの基本ですね。「スーパーマン」だってそうでしょう。みんな「自分は何でも出来る」「主人公でいたい」と思っているはずなんです。
―― 「スーパーマン」と同じように、昔からある人間の欲求に合わせたものを提供すると。では、「コードギアス」を今の時代に作る意味は、どんなところにあると思われますか?
「コードギアス」は昔からある物語に比べて、万能感がダイレクトに突出していると思います。
―― 今の子供たちが欲しいと思う「万能感」、昔とはどのように違うのですか。
「何かが欲しい」という欲求は変わらないのですが、「どうしたら手に入れられるか」という発想の仕方が、私たちの10代の頃と全く違うところなんですよ。
やってないのに、「俺はやったらできる子」
先生に取材したときにうかがった話なんですが、生徒に、将来何になりたいかを聞いて、サッカーの選手になりたいと。「でもお前はサッカー部じゃないだろう、運動は何かやっていたっけ」と聞くと「いや、やっていないですけど」と返ってくる(笑)。お前そんなネタ会話みたいなのやめろよと言っても、本人は結構、本気らしいんですよ。
―― サッカーをやっていないのにですか? どうして選手になれると思うのでしょうか。
やってなくても、「俺はやったらできる子」という感じなんですね。
―― 「自分はやればできる子」だと。まだ表には出ていないけど、自分の中の潜在能力はすごく高いと見積もっているのですね。
……アニメやライトノベル小説には、「セカイ系」というジャンルがありますね。
はい。
―― 平凡な主人公がいて、ある日突然潜在的な能力が開花して、選ばれた戦士となって世界を救うために戦うというような。「いつか主役になる」「いつか能力が花開く」物語が好きだと。「自分が他から抜きんでた特別な存在である」と考えるのは、アニメをよく見る若い世代全体の傾向でもあるのでしょうか。
うーん、言っておられる「セカイ系」の定義は少し違うのですが、登場人物が抜きんでた能力を持っているのは、別にアニメやライトノベルに限らないですよ。物語の基本構造としては昔からあるパターンの1つですから。さらに言えば、セカイ系だけで、今の10代をくくるのは危険かと…。
―― そうなんですか。
物語を虚構のものと認識した上での楽しみ方もありますしね。
ただ、今の10代の子は、例えば「サッカー選手になりたい」という空想を、現実世界でも「俺はなれるだろう」と容易にスライドしてしまうケースが多い、というだけで。
―― 願うと現実社会で実現すると思ってしまうという。虚構と現実を切り分けて考えられるのとそうでないのとは、大きく違いますね。
「自分はやればできる子」というのは、もしかしたら今の若い人のキーワードのひとつかもしれません。実際は、自分の願望と現実の間には大きな距離があって、その距離を測った上で縮めていくものだと思うのですが、お話をうかがっていると、そもそも願望と現実の間の距離を測ろうとしていない気がします。その“測られなさ”は一体何でしょうか。
アニメ作りの現場で感じる、同じような変化もあるんです。
アニメスタジオには毎年新人が入ってくるんですが、絵描き関連の人を除くと、まず最初に就くのが制作進行というアシスタント的な業務なんですね。それで新人に、制作進行を経た後に、将来アニメのどんな部門に関わりたいかを聞くと、時代が下るに従って、語られる夢がどんどん変わってきているんです。
―― どんなふうに。
昔の新人は、「演出」志望が多かったんですね。それからしばらく経つと、「脚本」志望が増えてくる。今は「企画」をやりたいと言っているんです。これは何を意味するかというと、だんだん“現場”から遠ざかっているんですね。
集団でものを作るときに、最も現場に根幹から関わらなければいけないのが演出なんですよ。演出は集団作業の現場のど真ん中にいないといけないので、端から見てもきつそうに見えると。根幹から関わるから面白いと考えるか、きついからパスと考えるかが、時代による差なんですね。
―― 「面白そうかどうか」だけではなく、「きついかどうか」も選択する上での条件に入り始めたと。
そうです。演出志望が減った後、次に増えたのは脚本志望です。「脚本なら、作品作りに関われるし、文字を書くだけだから演出よりは楽かな?」と考えるところからきているんです。
―― 文字を書くだけから楽、それは思いつきませんでした(笑)。
もちろん全員が全員そんな不純な動機ではないですよ。でも「楽して好きなことができる」と考えて志望する人が増えてきた。
脚本家は文字を書くだけでしょうと、私は日本人だから日本語が書けますという。もっと言うと、脚本さえ書けば、人と話をしなくていいんでしょう、みたいな感じですね。
楽してできる職業がいちばんいい
―― 「人と関わらないでいられる」というのは、集団作業で成り立っているアニメの制作現場の話としては意外でした。
実際に現場に入ると、脚本家も脚本家で大変そうだというのが見えてくる。そうすると、アニメの仕事の中で一番楽なのは何だろうと。そのうち、企画書で自分の好きそうなお話とキャラクターを書くだけで、あとは作っておいてねと現場に投げられる「企画」の仕事が楽だと思い始めたんですね。
本来アニメーション業界で言われる「企画」というのは、ほかの映像業界と同じく、案を出すだけというものではありません。お金を集めてきたりとか、各制作会社に協力をお願いしに行ったりとか、その作品を企画として転がすことができるための下準備をするというのが企画なんですよ。
そこには大きな誤解があるんですけど、企画書に好きなことを書きつらねる行為が、企画の仕事だと捉えられてしまっているんです。
職業選びが、どんどん「楽してできるものが良い」という方向にいってるんですよ。
その発想は、声優志望の人からも感じます。声優になりたいという子は昔からいたんですが、昔は、純粋に声の仕事がしたい、もしくは役者としての幅を広げたい、だから声優をやりたいという志望動機が多かった。でも、今は違うんですよね。
―― 声優という職業の人気や知名度が、昔よりうんと上がりましたね。最初から、顔出しの役者ではなく、声優を志望する人も増えたと聞きます。
声だけなら何となく楽にできそうだと。加えて、歌を出したりイベントに出られたりすると。
特に今、声優さんのステータスは年々上がってきています。声優グラビア誌もあるし、普通のテレビ番組にも出られそうだという。監督も脚本家もアニメ誌のような媒体で取材されるわけだけど、声優はさらにメディア露出が多い。
日本語をしゃべることが声優の条件であれば、自分にもやれそうだという気になっちゃうんですよね。
―― 実際には志望者が多く、かなり狭き門だという話も聞きますが。
当たり前です(笑)。でも、「夢のようなスゴイものを、努力をしないで獲得できる」という思い込みが今の若い人にはあると思います。
―― 今の10代の子たちを中心に、若い人には「夢のようなスゴイものを、努力をしないで獲得できる」という思い込みがあるとのことでしたが、どうしてそうなってきたのだと思いますか。
谷口: 理由は大ざっぱには存在しているんですよ。例えば少年漫画を読むと分かると思うんですけど、時代が下るにつれて、主人公はどんどん努力をしなくなっていくんです。もしくは主人公は、努力は漫画では見えないところで済ましたという話にしておいて、漫画のコマには出てこないようになっているんです。
―― 「努力」に対する価値が減ったということですか。
読者が、「努力によって何かを勝ち取る」という“物語”に夢を見なくなったんじゃないですか。
「巨人の星」(1966)がブームになった頃は、まだ努力に夢があったはずなんですよ。星飛雄馬は、大リーグボール養成ギプスをしてウサギ跳びをして苦労をすれば、長屋生活から脱却して、東京タワーも見える高層マンションに住むことができると(笑)。物語の登場人物には、金持ちのボンボンも何人か配置されているけれども、たとえ貧乏な家に生まれても、努力をすることによって、ボンボンと同じフィールドに行けて、勝つことができるという夢があったんですね。それがある種、ジャパニーズドリームだったはずなんですよ。
―― 60年代、70年代は日本の経済成長の後押しもあったから、努力した分、報われたんですね。
ところが80年代くらいから、日本人の収入がある程度平たく均一化されてきたところで、野球漫画の有り様も変わったんです。例えば『タッチ』には、社会的に過剰な上昇志向は存在しないですよね。登場人物たちの貧富の格差というのは、狭い幅の中に抑えられていて。主人公の夢が、「今をどう楽しんでいけるか」というところに移っていったと思うんですよ。それがたぶん『タッチ』や『うる星やつら』といった作品が持っていたものだと思うんですよね。
ただ、そのときにもまだ別の夢が存在していた。いい大学を出ていい会社に入れば、もしくは一芸に秀でていれば、それなりの安定した人生コースになるという夢ですね。
「甲子園に出ても、人生は楽にならない」
―― 90年代初めの頃には「一芸入試」が登場しましたね。
ええ。たとえいい学校に入れなくとも、一芸に秀でていれば、それを手がかりにして上昇していけると。ところが、「コードギアス」制作のためにリサーチした限りでは、今の子供たちは、一芸に秀でていることが、イコール上昇とは思えなくなってきているんですよ。
―― えっ、そうなんですか。
一芸に秀でることができたとして、その後でいいことがあるのかというと、そうでもないようだと。将来プロスポーツ選手になりたいと思ったとする。ところが今は、ネットとかメディアによって、スポーツ選手の「その後」まで伝わってくるわけですよ。そうしたら、ほとんどの選手が、一生スポットライトを浴び続けられるわけではないと。そうした情報が嫌でも入ってくる。
一芸に秀でるといっても、国体だったり、甲子園に出たぐらいではだめかもしれない、じゃあどうするんだということで。
―― 頑張っても報われないと思うと、頑張る気持ちは起きにくいですよね。
結局、情報が広がり過ぎてしまったが故に、子供たちは将来について不安になることが増えてきたと思うんですよ。加えて、都市銀行が潰れ、官公庁も解体され、成果主義だ、格差社会だと、日本の社会自体が不安定になってきて、子供たちに安心を与えられなくなってきたんですね。
勉強していい大学に入って、いい会社に就職したからといって、それが永久に続く保証もない。一芸に秀でても幸せが約束されない。じゃあ何を目標にすればいいんだと。
社会的ステータスといったものはどうしたら得られるのかとなると、これが微妙で、何が上なのかという判断基準が存在しませんよね。「いつかはクラウン」という時代でもないし。
今の10代の人たちからすると、当然、不安だと思うんですよね。間違いなく。
生きていけるが、目標が持てない
―― そうですね。何をしても自分の将来のためになるとは思えないということですから。「努力」の価値が減ったのも、そういう理由からなのかもしれません。
将来の目標が見えなければ、結果的に、組織とか社会体制に対するある種の忠誠心というものが薄れていきます。反動的な部分もあるでしょうが、話を分かりやすくするためにそこは省略させてください。そうすると、組織のために働くより、まず自分が生き残らなきゃいけないというところにいくわけだから、転職を繰り返すとか、そういった形の発想が生まれてくるんじゃないかと。
たちが悪いことに、生活していけちゃうんですよね。微妙に。これがもっと経済的に貧しかったりすると、明日のメシ、本気でどうしよう、というところに突入しちゃうと思うんですけど。明日のメシのためにはどんな仕事でもやらないと、と覚悟を決めるほどの状況でもない。
―― 社会全体としては豊かで、アルバイトでも食べていけますし、親世代もサポートしてくれるという時代ですね。
何かを探し求めなくても、なんとなくは食っていける。それで社会的構造の隙間にはまりこんでしまうと、ある種ニート的なところにいってしまう。
だから、今の若い人たちが抱えている不安感というのは、私もとてもよく分かるんですよ。自分がもしも同じ時代に育っていたらと考えると。
なんとなく生きていけるけど、将来の目標は見えないままだと。そうすると「人生、一発大逆転で、お笑い芸人にでもなってやるか」と考えてしまう思考も分からないではないんです。
社会に答えがなく、個人としては夢を夢のままずっと持っていけると、全方位に「自分には何かあるだろう」という気がしてしまうから、結果的に人生の進路が決まらないというか。自分の可能性を信じてしまう分、かえってかわいそうなんですよ。
社会が「敵」だと気づくのが遅すぎる
―― 前回の「夢のようなスゴイものを努力をしないで獲得する」のお話ですね。自分が置かれた状況は不安定なのに、自分の能力には自信が持てるというところが、今ひとつリンクしないのですが……。
これはゆとり教育とか、少子化によるものなのか、もしかしたら社会が人権、人権と言い過ぎたのか分からないんですけど、子供が子供時代から守られることが多いですよね、何だかんだ言っても。
―― 子供時代に社会と相対することがあまりないんですね。
守られ続けてきてしまって、社会に対しての具体的な指針も与えられない人間が、いきなり社会に出たら、それは挫折しますよ。だって社会というものが自分に対する「敵」であるということが、いきなり分かってしまうわけじゃないですか。
―― 万能感を育ててしまった後で、社会が「敵」であると突きつけられてしまう。「社会とは自分に厳しいものだ」という思いを感じずに育ってしまうから、対峙したとたんに、ものすごく大きな「敵」に見えてしまうわけで、これはきついですね。本当は、自分と社会とを段階的にすり合わせていくシステムがあるといいのでしょうけど……。
その過程が昔はあったはずなんですよ。ところが今は、子供を守ってあげるべき期間が長くなり過ぎてしまったし、その期間を抜けた後に、自分はどうすればいいんだという社会的指針が見えないが故に、社会の隙間に落ち込んでしまう。私は、こうした状況に置かれた人たちを責める気はちょっと起きないですね。その人自身の人生が、そのままでいいかどうかは別にしても。
「自分自身は現場には出ないで指図する」万能感
―― 若い人を取り巻く環境がそのようであるとすると、よりいっそう「コードギアス」が若い人たちに支持されている理由がわかる気がします。主人公のルルーシュを通じて、圧倒的な「万能感」が欲しいのかなと。眼を見るだけで人を操る力「ギアス」を使い、世界を動かそうとするルルーシュを、10代の人たちはどのように見ているのでしょうか。自分たちにできないことをやってくれる人だと思うのか、もしくは自分がルルーシュになれると思っているのか。
少なくとも「コードギアス」に関しては、若い人たちに単純な万能感を届けたいわけではないんですね。確かにお客さんが求めるものを今の時代性に完全にスイッチングした場合は、万能感のみでいった方がいいんです。そして今ならば、「自分自身は現場には出ないで指図する」万能感が喜ばれる。
誰かに命じたら、自分の代わりに誰かが全部やってくれるのが良くて、なおかつ命じることに対してリスクがない、マイナス要素が存在しないのが良いと。
この作品は、そういう「現場に出ないで万能」に見える主人公を出しながら、展開的には万能を否定しているんですね。「コードギアス」を作るにあたって、一緒にストーリーを作っている脚本家の大河内一楼さんとの打ち合わせで、まずこの作品の基本定義は「世界は自分には優しくない」というところに置こうと決めました。
―― うわっ、厳しいですね。
つまり、主人公がどれだけ万能感を持って世界を動かそうとしたとしても、世界は思惑通りに動かないというのが基本です。
―― 「コードギアス」で興味深かったルルーシュのセリフがあって、「間違っていたのは俺じゃない。世界のほうだ」という。ルルーシュは、世界は自分を中心に回っていると思っているわけですが。
そうですね。だけど世界はそうではないと。主人公の意図と世界の齟齬は、嫌でも発生すると思います。世界は俺を中心に回っていると思ったとしても、実際に世界はそうは動かないんですよ。
世界を自分の思い通りにしたいという考えを突き詰めたいのであれば、結局、部屋に引きこもるしかないんですよ(苦笑)。だって社会に出ちゃったら、俺が中心ではないというのがわかっちゃうんですから。社会に出て、いきなり「俺、参上!」と言ったって、そうはいかないですよね(笑)。
―― ルルーシュは、陰で人を操ろうとしながら、不思議な目立ち方をしていますね。仮面を付けながら人前に出ていたり。
そうですね。彼はとても我が強い人間なので。
「コードギアス」という作品では、物語の構図として意図的に仕込んでいるラインがあるんです。登場人物たちのコミュニケーションの取り方を、あえて「一方的」にするようにしています。
ルルーシュが「人の話を聞かない」わけ
―― と、言いますと?
本来、コミュニケーションというものは、人と人が真っ正面から向き合うことが必要じゃないですか。
けれども、この作品の登場人物たちに関しては、それがない。「本人は一方的に相手のことをこのように考えている。でも、相手はそんなことを考えてない。向かっているベクトルが全くずれている」という形にしているんですね。
だからキャラクター同士が、共通の認識を持って真っ正面からぶつかり合うことは、まずありません。相手のことを真正面から捉えてぶつかっているように見えても、ちょっとずつ微妙にずれていたりとか。中でもルルーシュは特に我が強い人間なので、一方的に「アイツはこう動くのが良いだろう」と考える。彼にとって、その人の意志は関係ないんです。
―― どうして一方的なベクトルにしたんですか。
主人公に都合がよい世界にしないためです。現実世界が、そういったものであるだろうと。
……本来だったら自分と社会との齟齬は、遅くとも高校ぐらいまでは理解しておいて欲しいと思うんですよ。もしも教育機関が教育方針を変えられるのであれば、お願いしたいのは、「お前たちに個性なんかない」ということを教え込んで欲しいんです。お前たちにスペシャルなものなんか1つもないんだと。ガチガチの管理教育で子供たちを固めるぐらいやって欲しいんです。
―― それはどういった意図で……。
抑圧した上で、突き破ろうとして出てくるのが個性だからです。
昔は、社会の共同生活の中で、必要なルールを守れないと仲間はずれにされたりしました。でも共同生活にとけ込めない、「普通」のコミュニティに入れない人は、別のところにコミュニティを作れたはずなんですよ。
協調を強いる社会があって、それに個人がぶつかって、社会制裁を受けて、という流れがあったけれども、時代が下るにつれて、こうした社会制裁的な機能はどんどん拡散していったんですね。結果、まともにケンカをしたこともない人が増えてしまった。
社会全体がこうした制裁を、個人にとってマイナスだから廃止しよう、廃止しようと。これは当然の流れなんだけれども、恐らく、廃止し過ぎて大事なものまで失ってしまったというふうにも思うんです。
―― 子供にもあまり汚いものを見せないようにしようとか、そういう感じですか。子供を守るために。
子供を守るための動きを否定するつもりはありませんし、そういう動きはなければいけないと思っています。ただ、いつまで子供扱いするのか、それが本人のためなのか、という事なんです。
ひとつ思うのは、「子供をどう導いていくか」を考えるのは、私たちサブカルチャーの仕事ではなくて、本来はメインカルチャーと呼ばれるものがやらなければいけないということですね。学校の教育機関、大学だったり、PTAだったり、権威やアカデミズムと隣接している、人を導くような公的機関が。
メインカルチャーという大きな柱が存在しているからこそ、それに対してのカウンターカルチャー、もしくはサブカルチャーというのが存在し得るわけじゃないですか。
ところが今、何がメインで、何がサブなのか分からないところに落ち込んじゃったというのが、軸がぼけている原因ではないかと思っているんです。
アニメは基本的には「毒」である
―― さきほど、「コードギアス」では「世界は自分に優しくない」というテーマを持たせたお話をうかがいましたが、テレビアニメを作ってメッセージを届けるのは、子供を導くこととは違うのですか。
導く、などという気持ち悪い言葉は使いたくありません。私はアニメーションというものは、基本はサブカルチャーであると思っているんですよね。一部の作品で例外はありますけれども、間違っても学校の道徳の時間とかで、これを使ってはいけませんと。
薬じゃないんです、毒なんです、これは。そしてやっぱり毒は毒で必要なんですね、人間には。
―― どうして必要なんですか。
薬と毒の両方を知らないと、一方的にこれが正義であるとか、これが正しいということで断罪することになっちゃうじゃないですか、人間は。相対主義が良いとは言いませんが、いろいろな物事の見え方とか側面を知っておいた方が、人生が豊かになるし楽しいでしょうという。
―― 光もあれば闇もあるみたいな。
そういった部分が必要なんだろうと思います。
―― 直截な言い方になってしまいますが、「コードギアス」はなぜこれほどヒットしたのだと思いますか。人々の欲望を捉える、“ヒットを生み出す秘訣”みたいなものがあれば、ぜひおうかがいしたいのですが。
谷口: 正直、ここまでいくというのは、私も読み切れなかったです
今の時代の感覚にたまたま合致したという面はあるとは思いますがね。もしもヒットの秘訣というものがあるとすれば、作品を通じて――もしくは商品を通じてと言ってもいいかもしれません――「商品を通じてお客さんと会話をする」という気持ちが持てるかどうかだと思うんですよ。
私の中で「アニメーションで成功した」と思えるポイントは、3つ存在しているんです。あくまで「監督としてのポイント」ですが。
―― 3つの成功ポイントとは?
1つ目はDVDや玩具の売り上げも含めて、10円でもいいから黒字にして赤字を作らないこと。
2つ目は、TVアニメの場合には視聴率が良いこと。
3つ目が、3年後、5年後でも覚えてくれているお客さんがいるということ。例えばカラオケで主題歌を歌ってくれたりするような、時代的な継続ですね。
全部達成するのは難しいので、どれかが達成されていればその作品は成功だろうと。
要するに、「お客さんから何らかの支持を得た」ということですね。
アニメーション制作で何が大事かと問われれば、いろいろあって難しいのですが、まず第一に、売れることは大事でしょうというのが私の考え方です。アニメの絶対正義は、売れることだと思っています。
中でも「赤字を作らない」というのは、真っ先にやらなければいけないことですね。
―― 「赤字を作らない」。それは商売の基本のようでもあるのですが、アニメーションの場合は違うのですか?
残念ながら、他の産業とは違うでしょうね。アニメーションに関しては、作品タイトルが10本あるとして、たぶん3本ぐらいですよ、全く赤字を作っていないのは。
赤字を出さないことこそが正義である
―― え、そうなんですか!?
そんなものですよ。赤字になってしまう作品のほうが多いんです。
―― それでは、どうやって「商売」として回しているんですか。
一握りの作品が、赤字になった作品の損失分を補填して回しているという状態なんですよ。
私が言う、売れる、当たるというのは、アニメの商売でボロ儲けしてプロデューサーと一緒にフグを食べに行くとか、そういう意味じゃないですよ(笑)。定められた予算を回収して、その上で、最後に金庫に10円玉が1個残りましたと。それでいいんです。10円玉1個が残れば。
―― 10円玉1個でも?
そうです。10円でも黒字になれば、「次の作品」が作れるんです。アニメのスタッフ全員にギャランティを払い終えてもなお黒字になれば、みんながこの仕事で生活していけるじゃないですか。こういった業界にいる人たちは、永久就職したわけではありませんから、誰かが認めてお金を出してくれないと、制作者たり得ないんですよ。
―― 黒字になれば、どのスタッフも生活していけて、次の仕事につながると。
そうです。黒字にしないと、お客さんにも、「次の作品」を楽しんでもらうことができないですしね。作るには場所も必要だし、スタッフの生活もある。そこまで含めた予算を全部回収できて、初めて「黒字」なんですね。
ただ、裏を返すと、これはやっぱりアニメ業界のいいところだと思うんですけれども、10円でもいいから黒字をつくるということは、一昔前の「勝ち組、負け組」という言い方をすれば、すべてが「勝ち組」になることができるんですよ。
―― そうなんですか?
最終更新:2010年01月18日 23:30