《壱》
「アンタは笑い方をどうにかすれば、靴磨きとして一流なんだけどね」
一人の赤毛の少女は、座り込む金髪の少年にそう言う。
少年は、金髪で釣り目で目立つ容姿をしていた。対する少女は、赤毛に美麗な容姿で目立つ容姿をしている。
1887年のロンドン、貧民街のある地域ホワイトチャペル。親に捨てられ、名前はない一人の少年と名前はない一人の少女はそこで生まれた。
イギリスは、他国に先駆けて産業革命を達成した。そして、産業革命により、科学と産業が飛躍的に発展した。
しかし、産業革命で、産業が発達したとは言え、労働者の子供では無い子供に雇い手がある訳が無い。靴磨きで生計を立てるしか、生きていけない状況。
この地区は、ホワイトチャペル(白い礼拝堂)という美しい響きを持つ名前とは、裏原にあらゆる貧困と悪徳と犯罪が蔓延るような所。
そして、巷ではアヘンや猟奇殺人、強盗などの危険ばかりで、また貧民が被害者になりやすく、生きていくのがやっとであった。
もし、病気にかかれば、そのまま苦しみ死ぬだけ。そんな、貧民街の人々の平均寿命はわずか16才ほどであったという。
「嬉しくはねぇな。そんな事で褒められても」
「褒めちゃいないし……って言うかアンタの癖を直して欲しいのよ」
ヒャハハ、と不気味な笑い方で少年は笑う。そのため、口癖のように少女は少年に言っている。
実は、その笑い方はスラムの顔見知りにでも気味悪がられており、評判に関しては良くは無かった。
そのせいか、客は気味悪がり、最近は客も少なくなっている。
今となっては、靴磨きではなく、スリや窃盗をしてその金で、食料を買いあさっている。
「ってか、アンタさ、夢とか無いわけ?」
「言ったところで何になるんだ? 叶うわけじゃねぇんだろ」
貧民が、資本家になれることはまず無い。労働者になっても低賃金で信じられない過酷な労働条件のもとで働かされる。
女性は売春婦になる者が多く、酒に溺れ、荒んだ生活を毎日繰り返していた。
少年は、夢などを持ったことは無いと言うと嘘になる。
過酷な条件下でも、人間は希望や夢を持とうとする。それが、人間の大罪の一つである強欲だ。
「アタシは、この世界を変えてみたいんだ。こんなの平等じゃないよ」
その時のロンドンの人々に良心など微塵もなかった。少なくとも、両親にある人間と彼らは出会わなかった。
そんな理不尽で人道極まりない状況を少女は熱く語りだす。
少年は、聞く耳を持たずにただ座り込んでいる。どこかで、貨幣が落ちていないかと、地面に目を配りながらも。
聞いても、語っても別に何も変わらない。ならば、時間を無駄にしないほうがいい。
《弐》
その日は嫌な予感がした。
冷たい雨が降りしきり、少年はずぶ濡れとなってしまった。
少女も共に近くにいたが、ずぶ濡れとなっていた。
駅のホームで雨を凌ぐことが得策なのだが、生憎、少年がいる場所から駅までは遠い。
それが、嫌な予感の原因では無かったことは言うまでも無い。
グサッ と言う音がした。肉に何かが刺さるような、痛々しい音が。
少年は、少女の姿を目視する。
刺された。
目の前で、少女が刺された。
ナイフで刺された。
刺された。
刺された。
遅れてヒステリックな声が聞こえる。
それは少女を刺した犯人の声。
刺した犯人──それは一人の中年の娼婦。
正確に言えば、娼婦ではないかもしれない。
中年の女性は少年の存在に気づくと、足早に去っていく。
少年は追いかけようとした。
しかし、少年は少女を見捨てることは出来なかった。
「おい、死ぬんじゃねぇぞ!! 俺はお前しかいねぇんだ!!」
彼はただ助けたかった。
まだ、大切なものを失ったことは無かったから。
少年は、死に対して異常な恐怖を感じていたから。
彼は、少女のことが好きだったから。
必死に傷口を押さえた。
血を止めるため。
効果が無いと知っていても。
無駄だと知っていても。
助からないと知っていても。
彼は、少女の傷口を両手で抑えた。
彼の服は血で染まる。
少年の両手は血で染まる。
少年の涙には、付着した血が混じる。
「ねぇ……世界って……変われるのかな……?」
「馬鹿!! テメェが変えるんじゃねぇのかよ!? 目ぇ覚ませ!!」
それから、少女に反応は無かった。
しかし、少年は何度も叫び続けた。
雨はそんな彼に降りしきる。
だが、少女が目を覚ますことは無かった。
死んだ。
刺されて死んだ。
いや、殺された。
守れなかった。
死んだ。
刺されて殺された。
守れなかった。
守れなかった。
その日から少年は屍のように座っているだけだった。
自らを死に追いやりたいかのように。
何も口にせず、仕事もしない。
同じところに毎日座り、屍のように空を見ているだけだ。
人に声をかけられても、ただ黙っている。
いくら、やせ細っても、何も食べなかった。
いくら、声をかけられても返事はしなかった。
《参》
それから、数ヵ月後のこと。
少年は、女性を尾行しながらも、暗い路地に入っていた。
やせ細り、目つきは悪くなり、髪の毛からは銀色の毛が生えだしている。
阿片や麻薬に手を出し、四人の娼婦を殺害した少年には、かつての面影は無い。
今の彼を突き動かすものは、ただ一つの復讐。
女性は物音に気づき、ようやく少年のほうへと顔を向けた。
女性も、異常さと少年の殺気に気が付くことは容易だった。
「テメェを殺しに来たぜェ……アイツの復讐だ……」
「あぁ…ああああああああ……嫌あああああああああ!!!!!」
女性は覚えている。一人の少女にした、酷い仕打ちの事を。
しかし、少年は許すことが出来なかった。
まだ、当初は躊躇う気持ちがあったのだが、最早、四人殺した以上は包丁を構える。
怯む女性の喉笛を瞬く間に切り開き、致死量の血液が噴出す。
女性は悲鳴を挙げることも無く、切り開かれた首から滝のように血を流し、倒れる。
少年は、その時ただ絶望していた。
絶望しながらも死体を切り刻む少年の目には、涙が浮かんでいた。
その少年は、救えるはずだった少女を救えなかった自分に絶望している。
その少年は、血の海でもがく女性を見下している自分に、絶望している。
その少年は、少女を殺した女性に復讐してしまった自分に絶望している。
ただ、その少年は、その女性の死体を衝動的に食している自分を誇りと思っている。
喉を切り裂いて、腹を切り開き、残った部位を食い尽くす。異常な犯行だ。
その行動には、理由は無い。ただ、彼は復讐と憎しみで狂っていた。
少年がこの後どうなったか? 正体は誰なのか? と言うことは、また別の話。
最終更新:2012年03月15日 14:15