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ゆめ


―――わたしの世界は、ひどく脆くて弱かった。
風に吹き散らされる塵のように、何もかもが希薄で曖昧だった。
人間を冥土の国へ導く〈川〉の縁を歩いている。
暗くはない。
でも明るくない。
すなわち、薄暗い。
光をすべて奪ってくれたなら、きっとわたしは壊れてしまえたんだろう。
闇がすべて消えてくれたなら、きっとわたしは希望を信じられたんだろう。
でも、どちらでもなかった。
わたしに与えられた世界は――〈狭間〉だったんだ。

灰色に濁った世界を、独りきりで歩いてゆく。
ついてきてくれてた人たちの姿は、いつの間にか消えていた。
応援してくれる笑顔は、いつしか嘲笑に変わっていた。
いちいち落ち込むのも気だるい。
知っていますか? 病めることだって、まだ幸せなことだって。

肺の中の〈悪魔〉が暴れて、紅い液体を吐き出す。
真っ白なシーツがじわりと滲み、染みになっていく。
わたしはベッドの脇に備えられた専用の薬を吸引すると、緩やかな動作で立ち上がった。
お腹が痛い。ああ、これはきっと内臓が軋む痛みだ。
もう慣れたし、これくらいならもうひとつの薬を飲むまでもないや。
――べつに、生きたいとも思えないし、いっそのこと殺してくれたって構わないよ。
いつかのわたしはそう言った。
わたしは今もそう思っている。
遂に、精神〈こころ〉まで毒にやられたかもしれない。

病室の床に投げ捨ててある、見覚えのない手提げポーチ。
しゃがんで拾い上げて、中を見ると物騒なナイフが出てきた。
家庭で使うようなものじゃない。
多分、サスペンスドラマなんかで時々使われるようなやつだと、おもう。
わたしは金属の冷たい質感を右手に握って、病室を出る。
――さぁて、どうしよっかな。



悪性クラリオット症候群――世界にたった三人の患者数の、現代医学を完全に屈服させた難病。
初期も末期もありはしない。最初から、苦痛は全開で始まる。
喘息の発作。盲腸の激痛。立ち眩み。嘔吐感。これらが、同時にやってくる。
おまけに侵攻速度は遅い。
十年以上を費やして、ようやく〈宿主〉の肉体を完全に破壊するのだ。
ウイルスは、まるで世界の全ての細菌の悪性を集めた程の毒性と抗体を保有。
臓器を破壊するのではなく、染み込ませて汚染する。
移植など無意味。全身の血液を交換でもしない限りは、どうやったって完治のしようがない。
この病は唐突に現れ――白人男性一名と、中国人の少年一名。
そして―――日本人の少女一名の肉体を侵食した。
蝕む悪意は人類に恐怖を植え付け、やがてこれが蔓延する時代が来ることを恐れさせた。
伝染性はゼロなのが唯一の救いだったが、三人の患者は延命以外の治療を、選択すらさせて貰えない。

日本人の少女・飛鳥かるまは、齢十四歳の若さで〈ようやく〉地獄からの解放を宣告された。
いわば余命宣告。悪意は、か弱い少女を程なく食らい尽くす。
ショックなんてあるものか。――だが喜びもない。
かるまの心は、ひたすらの空虚を孕んでいた。
まるで気の抜けた炭酸飲料のように、大切な〈何か〉が抜け落ちている。
ならばそれは何なのか、と問われれば。
かるまは〈ゆめ〉と答える。
〈一年〉の〈ゆめ〉。
ひらひらと花園を舞う蝶々と比較してなお儚い、希望に満ちた幻想の世界を。
看護婦は陰で嘲る。
遂に心を病んだと。いよいよあの邪魔者ともおさらばだと。
されどかるまは描き続ける。
灰色じゃなくて、明るい色に包まれて輝いていたあの〈ゆめ〉を。




――――〈リミット〉の一週間前。飛鳥かるまは、空を飛んだ。
たとえそれが墜落だけだったとしても、世界に嫌われた少女は最期に、自ら〈ゆめ〉を選んだ。
そこに仮面の怪人が居なかったなら、彼女は今頃永遠の〈ゆめ〉に回帰していたのだろうか。





病院を出ると、やっぱり世界は灰色だった。
でもわたしは安堵のため息をつく。
だって、わたしの〈ゆめ〉が壊れていないって、証なんだから。
アスファルトを少しサイズの大きな靴で踏みしめて、歩く。
右手には銀色のナイフ――殺さないけど。
今まで散々迷惑をかけながら生きてきたんだから、わたしはここでは誰かの為になろうと思う。
殺されて、あげる。

「なにそれ。結局わたしが死にたいだけじゃん」

笑った。笑えているかは分からなかったけど。
何せ、この現実世界ではもう何年も笑っていないから。
純粋な笑顔なんてもの、とっくに忘れてしまったよ。

と、右手のナイフを強く握る。
人の姿が見えた。この〈ゲーム〉のルールはいまいち掴めてないけど、襲えば殺してくれるだろう。
おかーさんみたいに、興味なさげな目で?
おとーさんみたいに、厄介者を見る目で?
先生みたいに、諦めた目で?
なんでもいいよ。あなたはわたしを殺して行きなさい。
どうせ――もうじき消える花火なんだ。

「とうっ」

わざと掛け声をあげて、ぱたぱたとわたしは名前も知らない誰かへ走っていく。
院内では歩いていたから、運動神経は衰えこそすれど壊滅はしてない。
……たぶん、喧嘩とかなら小学生にも勝てないだろうけども。
わたしの振るった刃は何も切り裂かずに、その人――高校生くらいの男の人が受け止めた。
綺麗に刃の根元を掴み取っている。
凄い芸当のようだけど、まあわたしの力が相手ならこれくらいできて普通かな。

「――分かってるんだ。お前がどうして欲しいのか」

その人は――全てを諦めたような、だけど全てを望んでいるような。
そんな曖昧な表情で、わたしを抱き締めた。




「俺は未来を知っている」
「嘘つき」
「嘘じゃあないさ。たった一つだけ、確かな未来を知っている」
「じゃあ言ってみてよ」
「俺は今日死ぬらしくてな」
「ばっかみたい、だから最期にわたしに抱きついてみようと思ったの?」
「違う。俺は死にたくない。あと女の子は大好きだ」
「へんたい」
「変態だとしても、俺は変態という名の紳士だよ」
「しんし」
「うん、それでいい。いい子だ」
「わたしのこと、小学生だと思ってるでしょ」
「いや、中学一年くらいだろ」
「中二だよわたし」
「……ちっちゃ」
「呪ってやる」
「もう呪われてるよ。俺は〈こいつ〉に呪われてるんだ」
「携帯電話?」
「〈未来メール〉と云おうか。一日に一度だけ、こいつにその日の未来が送られてくるんだ」
「じゃあ、こんなゲームすぐ潰せるんじゃない?」
「いや、一日の中で最も大きな出来事しか予知してくれないんだよ」
「不便だね」
「不便だろ」
「だけど、わたしに抱きついて何の未来を変えようとしたの?」
「俺、お前のこと知ってるから」
「ずっと入院中だよ、わたし」
「ヒント1。俺の名前は圷音遥という。お前の病院は?」
「圷音、総合病院。驚いたな、まさか院長さんの息子さん――とか?」
「ご名答。当然お前が――世界に三人だけの悪性クラリシッドだとも知ってるよ」
「……あらら。そういうわけか」
「詰まるところお前は、もう人生に飽きていると」
「そうなるね」
「そうなるのか。なら俺がお前の未来を変えよう」
「ありがた迷惑だよ、それは」
「いや、残念ながら決定事項だ。俺はお前を死なせ――るだろうけど、まぁ幸せな時間をくれてやる」
「プロポーズ?」
「そうなるな」
「そうなるんだ」
「だが悪くないだろう。お前は、予定調和の未来のままに死にたいとは思っていないだろうからな」
「当たらずとも遠からず、だね」
「と言うと?」
「わたしの理想は、完結してるんだよ」



――――あの、永い〈ゆめ〉の世界で。



「そうか。なら精々期待しないで待っててくれ」
「りょーかい」
「いい返事だ。よしよし」
「撫でるな」
「これは失礼。だけど歩くのも辛いんじゃないか?」
「……よく分かるね」
「俺だって医者の息子だ。医学の知識はある。特に、悪性クラリシッドにはな」
「じゃあ、わたしが今内臓が破けそうなほどの腹痛にあることも?」
「歩き方でピンと来たね」
「将来はお医者さんにでもなればいいんじゃない?」
「いや、俺は本来死んだ筈なんだ」
「奇遇だね。わたしも飛び降り自殺してみたら、何でか生きてたよ」
「俺は通り魔にグサリだったな」
「予知はどうなったの」
「二重以上の死の運命は回避のしようがないんだ。予知してくれないんだからな」
「不便だね」
「とことんな――よし、乗れ」
「おぶっていく気なの? わたし結構重いよ、お菓子とか大好きだもん」
「まあ良いさ。とにかくまずはあのふざけた仮面を叩くとこから始めるんだ」
「拒否権は」
「勿論ない」
「独裁者ね」
「エゴイストだよ」


【圷音遥:健康、果物ナイフ装備】
【飛鳥かるま:疲労(中)、腹痛(悪性クラリシッド)】


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最終更新:2012年10月13日 10:50
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