蒼星石とそのマスターが出会ったばかりの頃のお話。 とある日曜日の事だった。朝食が済み、後片付けも終って蒼星石は人心地ついていた。 玄関の方から彼女を呼ぶ声がする。 「ちょっと、蒼星石さん、蒼星石さん。」 行ってみると彼女の主人がちょいちょいと手を振って呼んできた。 リュックを背負っているところを見ると、これからどこかに出かけるようだ。 「何ですかマスター?」 「今時間ある?」 「特に急用はありませんが。」 「じゃあさ、買い物についてきてくれない?」 「荷物持ちでもすれば良いんですか?」 「いやさ、一緒にいてくれるだけでいいんだ。」 「?」 「無理強いはしないけれど…。少し出歩いてみない?」 「そうですね、この辺についてはまだ知らない事も多いですし、 色々と教えていただきがてらお供させていただきます。」 「見事にぐちゃぐちゃだね…。」 「ぐちゃぐちゃですね…。」 その言葉の通り、玄関前は昨夜の雨のせいであろう、大変ぬかるんでいた。 舗装された道に出るまでにはぬかるみを通らざるを得なそうだ。 「抱っこしてもいい?」 「え、な、なにをいきなり!」 「靴や服が汚れちゃわない?」 「え、でも、そんな……。あっ、鞄を使えばいいんですよ!」 「あっ、そうだね。……女の子だもんね。 抱っこしてもらうのにも相手を選びたいよね。 ごめんね、僕が思い上がっていたよ…。」 そう言っていかにも落ち込んだような表情をする。 「あー、もう、違います。嫌じゃあないけど…」 「けど?」 「嫌じゃあないけど、けど、……。」 「いいんだよ、気なんか使わないでも。」 さらに主人の表情が険しくなる。 「お、お、お任せします!」 葛藤の末、ううぅーと何かを搾り出すようにしながら答える。 「本当にいいの?無理しないでいいんだよ?」 「大丈夫です!す、好きにして下さい!!」 「じゃあ、本当にしちゃうからね。いいんだね?」 そう言って蒼星石を抱き上げてくる。その顔がパッと輝く。 「えへへ…。」 はじめての抱っこに主人はとても嬉しそうに笑っているが、すでに蒼星石の顔は真っ赤だ。 やっと歩道に出る。ほっとする蒼星石。 だが主人の歩みは止まらない。 「えっ、マスター、もう下ろしてください!」 「まあまあ、遠慮しないで。」 「こ、子供みたいで、は、恥ずかしいよ」 「この幸せは手放せないなー。好きにさせてもらっちゃうもんねー♪」 「も、もう……。」 だが、主人の顔が心底幸せそうになっているのを見て、蒼星石自身もどこか気分が落ち着くのが分かった。 道すがら主人はあれこれと話しかけてくる。 周囲が住宅地ゆえ、こちらにはクリーニング屋があるとかあっちには公園があるだとか、他愛の無い内容ではあったが、 それでもはじめての土地の様子に蒼星石はなんとなくうきうきとしていた。 そうしているうちに主人の足がある店の前で止まる。 「ここが今回の目的地ね。ここは野菜や肉、鮮魚なんかが物が良い割には安い。ただ値引きはあまり無い。」 「はい、覚えておきます。」 そんな事を話しながら主人が足を運んだ先を見て、蒼星石は自分が連れてこられた理由が分かった。 そこにはこう書かれていた。 『卵L10個パック 98円 お一人様1パック限り!!』 どうやら特売品のために頭数が必要だったらしい。 「このお店は毎週日曜日にね、卵の安売りをするんだ。」 そう言いつつ卵2パックを買い物かごに入れる。 蒼星石はどこか肩透かしを食らったような感じだった。 そして一通り必要なものをかごに入れた後主人が言った。 「さて、おやつでも買って帰りますか。」 「おやつって?」 「デザートのこと。ドイツ語では…えーと、デセーアだかデセルトだかだっけ?」 「それは分かりますが……。」 「食後には甘いものが食べたくならない?好きなのを選んでよ。」 「ええ、まあ。でもそんな出費を強いるわけには。」 「そんなの気にしなさんなって。僕も甘いものは好きだしさ。 一緒に来てくれたお駄賃ってことでいいじゃん。」 「そんなことしていただかなくっても。」 「せっかくだからもっとちゃんとしたお菓子屋さんで買う方がいいかな。そうしよっか?」 「いえ、ここで十分です。」 蒼星石は折れる事にした。この主人は申し出を断るとなぜか断った意図とは異なる方向に話を進めるきらいがある。 ………もしかしたらわざとやっているのかもしれないが。 結局2個入りのレアチーズケーキを買う事にした。 「荷物は持ちますよ。」 「いいよ。」 「買い物袋くらい持たせてください。」 「僕は買い物袋は貰わない主義だからね。全部リュックに入れちゃうから。」 「じゃあ、無理ですね。」 渋々引き下がる。自分は本当に98円の卵1パックのためだけに連れて来られたのかと思うと蒼星石は少し情けなかった。 結局、ずっと抱っこされたまま家に帰る事になった。 「ただいまー。」 主人は誰も居ない家の中にそう言いつつ抱いていた蒼星石を下ろす。 「じゃあ悪いけれど買った物を冷蔵庫に入れておいて。」 「分かりました。」 主人は買ってきた物を冷蔵庫の前に置くと、ケーキを持って居間の方に行ってしまった。 「あったかかったなあ……。」 抱っこから解放されたことでかえって主人のぬくもりが感じられた。 余韻に浸りながら台所で冷蔵庫の整理をする。 「えーっとお野菜はここで、お肉はこのスペースに…」 もともとたくさんの物があったわけではないのですぐに終った。 「終りました。」 「お疲れ様ー。」 蒼星石が居間に行くとおやつの仕度がされていた。 「マスター、ボクが用意したのに。」 「緑茶で良かったよね?一応コーヒーや紅茶もあるよ。」 と、答えになっていない答えが返ってくる。 蒼星石もこういったやり取りに大分なれたのか、 「緑茶は好きですよ。何にでも合いますしね。それではいただきます。」 と、普通に返す。 しばらく無言でデザートを堪能する。 「えへへ、美味しいや。」 と主人が淹れたお茶を飲んだ蒼星石の顔に微笑みが浮かぶ。 片手で頬杖をつきながらその様子を見守っていた主人が口を開く。 「やっと…」 「え?」 「やっと笑ってくれたね。」 主人の顔がほころぶ。 「今まで一緒に居ても全然笑顔を見せてくれなかったらさ、 僕なんかがマスターじゃ不満なんじゃないかとずっと不安だったんだ。」 「そんな事ないです!うまく気持ちを伝えられていないかもしれないけれど、とても満足しています。」 そんな蒼星石を見守りながら主人がぽつりと言う。 「はじめて笑顔を見せてもらったけどさ…」 「はい?」 「笑うと一層かわいいね。」 主人の真顔での発言に蒼星石が動揺する。 「な、な、何を言うんですか!そういった冗談はーー…」 べちゃ… 照れ隠しにじたばたと暴れた拍子にケーキを落としてしまったようだ。 「あー、まだ半分くらい残ってたのに…。」 無言で主人が寄ってくる。怒られるかも、と蒼星石は身を硬くする。 「ほら、お食べ。」 主人はそう言って自分の、まだほとんど手をつけていないケーキを蒼星石の前に置く。 「え?」 主人は落としたケーキを皿に乗せ、床を拭くとその皿を持って自分の席に戻る。 「い、いただけません!」 「幸いあまり食べてはなかったからね。汚くはないよ。」 「そ、そんなマスターのことを汚いなんて思うはずが…。」 「僕はこれだけあれば十分だからさ。」 「そんな!自分のせいなのに、落とした物をマスターに食べさせるなんて…。」 「いいよ、そんなに食べる気もしないし。」 「さっき甘い物は好きだって…、そんな気を使わないで下さい!」 「君が笑ってくれるならそれでいいんだ。それだけでお腹いっぱいさ。」 そう言ったところで今度は蒼星石が皿を手に席を立つ。 「どうしたの?」 「マスターはボクをただの食いしん坊だと思ってるんですか? さっき笑ったのはケーキが美味しかったからとかじゃなくって、 マスターと一緒におやつを食べられて、それが嬉しかったからで…。 だから、これはマスターにお返しします。」 差し出された皿を主人が受け取る。 「分かったよ、ありがとう。」 そして皿を置くと蒼星石をひょいっと抱き上げる。 「ひゃあっ!?」 「じゃあ分けっこして一緒に食べよっか?」 そうして蒼星石を自分の膝に乗せる。 また思ってもいない方向に話を進められてしまった…、そう考えている蒼星石の前にフォークが差し出される。 「はい、あーんして」 「え、その、自分で食べられます…。」 「あーん」 どうやら聞く耳なしのようである。蒼星石は観念しておずおずと口を開く。 「あ、あーん」 そこにケーキを放り込まれる。 「美味しい?」 「はい、とっても美味しいです。」 「幸せ?」 「はい、とってもしあわ…、あわわっ!」 つられてとんでもない事を口走ってしまいそうになり思わず慌てふためいてしまう。 「ちぇーっ、もう少しだったのに。……まあ本当に幸せでないのに言わせても仕方ないんだけどね。」 そう言うと少し寂しそうな笑いを浮かべる。 「そ、そんな。さっきのはいきなりだったから驚いたけれど、本当にボクは幸せです。 あなたのようなマスターに出会えて本当に良かったと思っています。」 だが、そこまで言うとうなだれてしまう。 「でも、不安にもなるんです。マスターは自分で何かしてしまう事も多いし、本当にボクは必要なのかって…。 さっきの買い物の時も結局マスターに迷惑をおかけしただけで、卵1パック分程度しかお役に立てなかったんじゃないか、って。」 「そんなことないよ。」 「でも結局ついていったのに抱っこしてもらっていただけで、それなのにケーキなんか買わせて、 しかもそれを無駄にして…、マスターに迷惑ばかりかけて…!」 ネガティブスパイラルに陥りつつある蒼星石に対し、主人がふぅと息を吐いてから言葉をかける。 「言ったじゃない、『一緒にいてくれるだけでいい』って。 君が傍に居てくれるだけでね、それだけでも僕はとても満たされるんだ。」 「え、あれってそういう……。」 「今もとっても満たされてるよ。もしも僕が一人だったら、このケーキが例えどんなに高級品で、 たくさんあったとしても絶対に今よりも満足できていないさ。」 そして蒼星石をやんわりと抱き締めて言う。 「こうして君のぬくもりが感じられる、それだけですっごく幸せなんだよ。」 主人の手が蒼星石の頭を優しく撫でる。 「マスター。」 意を決したように蒼星石が言う。 「どうしたの?」 「さっきの続き…だけど、ボクは言葉じゃうまく気持ちを伝えられないから…こ、行動で伝えるからね。いいね!」 そう言って蒼星石は主人の方に向き直り、自分の気持ちを行動で表した。 それが、 蒼星石とマスターのはじめての…