あの矢印がこちらに向いたらどんな感じだろう。
柴崎にとってそれは未知の物で、そして馬鹿馬鹿しいもので、けれどだからこそ憧れた。
あんな風にまっすぐに思われるのはどんな感じだろう。
滑稽なくらいに純粋に誰かを思うその先に、自分がいたらと想像するのはもう柴崎の癖のようなものだ。
あれが欲しい。あの人が、ではなくあの感情が。
だから彼女の恋はいつも歪んでいて、そして少々土臭かった。
「昔、堂上教官が少し好きだったのよ」
何で言おうと思ったか、多分言わなければならないと自分の中で何かが叫んだからだ。初めて夜を共にする相手にいきなりこんなことを言い出すのは違う気もしたが、言っておかなければならない気がしたのも本当だ。
言われた相手は柴崎の服をくつろげる手を止めて、真意を探るように目を合わせてきた。それをまっすぐ見つけ返して彼女はもう一度繰り返す。
「あの人が好きだったの」
自分の言葉に自分で納得するのが妙な感じだった。そうか。
あたし、堂上教官が好きだったんだ。
「笠原しか見てないから、堂上教官が好きだった。……軽蔑する?」
この聞き方は卑怯だと思いながら、それでも問わずに入られなかった。途中で止まったままの手塚の指が怖い。大事にすると言った彼がそのまま離れていってしまったら、そうしたらきっともう恋は出来ない。
「……いや」
先に目を逸らしたのは手塚だった。ふいと顔を背け、止まっていた右手を上げて柴崎の頭にそっと触れる。ぽんぽんと軽く二度叩くのは、今話題になっている上官が恋人を慰めるための手段だ。
「よく引っかからないでくれたと一正に感謝したい。心から」
その言葉に柴崎は思わず笑う。くすくすともれた声に釣られたように手塚が静かに唇を寄せてきた。
「……んっ」
「……本当に」
深くなるキスの隙間で、手塚が小さく何かを呟いた。至近距離だからこそ聞き取れたその言葉に柴崎は耳をすます。
「本当に、おまえ寂しかったんだな……」
よく頑張ったなと、まるきり見当違いの違いの誉め言葉に、けれど彼女の目に涙の膜が張られた。こらえようと眉間に力を入れかけて、そうだこいつの前ではこらえなくていいのだと思い出す。抵抗なく溢れた涙はそのまま柴崎のこめかみを通ってシーツに染みた。
目の前の彼が笠原に交際を申し込んだ時、なんだそりゃと呆れながらも少しだけ笠原を焚きつけた。揺れないと分かっていながら堂上にそれを告げて、動揺した隙に付け込んだ。
堂上の感情は翻らない、翻ったらきっと自分は落胆する、それでもとどこかで期待して、恐れて、あっけらかんと告げた好意は案の定あっけらかんと拒否された。
そして、柴崎はその拒絶に安堵した。
堂上を軽蔑せずにすんで、思えばもう気を許していた笠原を傷つけずにすんだから。
それでも胸が痛かったのは、きっと本当に自分が堂上に恋をしていたからだ。
それがどれだけ間違っていても、それでも恋は恋だ。
「……ん、ぅ」
そろそろと触れてくる指と唇に逆に焦らされながら柴崎はひたすら泣き続ける。ふるふると頭を振れば髪と一緒に涙が散った。泣くなとどこか困ったように目じりを拭う手を逆に捕まえて、柴崎は自分の上にいる手塚を見上げる。ねえ、とあげた声は興奮と羞恥に濡れていた。
「壊れないわよ」
「けど、おまえ」
「いいから」
それでもそっと扱うのをやめない指に、柴崎はだから、と語気を強めた。
「じれったくて死にそうだって言ってんの」
手塚が息を呑んで押し黙り、次の瞬間には先ほどとは打って変わった強さで抱きしめてくる。ようやく手加減なく触れてきた肌に声を上げながら柴崎は身をよじらせた。
耳元で自分を呼ぶ彼の声にさらに涙が散った。
ずっとこれが欲しかったのだ。
この感情が、ではなくこの人が。
自分を大事にしてくれる、自分の大事な人が。
最終更新:2010年06月20日 20:23