WWⅡ発生以前もWWⅠは「第一次」と呼ばれていたのでしょうか?
「the great war」と呼ばれていました.
19世紀末から中国本土にドイツの租借地がありました.
中国が対独国交断絶と宣戦布告となると,当然,中国国内に於けるドイツの諸権益は没収されることになります.
1917年8月14日に中国は三国同盟の独墺に正式に宣戦布告をしています.
その付属書で日本に対し,
「支那と独墺両国との間に締結せる一切の条約は,何種の事項に関するに論無く等しく一律に廃止し,1901年9月7日締結の条件及び其の他同類の国際協議にして支那と独墺両国との関係あるものに至りては同時に廃止し,尚支那政府はハーグ平和会議の条約及び其の他国際協約に対しては戦時文明皇后に関する一切の条款を遵守して渝ざる旨を以て生命致候」
としています.
つまり独墺両国と中国間の条約は無効で,日本支配の山東半島利権は総て中国に帰すと言うことを言ってたり.
ちなみにその前の2月6日の時点で,米国大使が中国に国交断絶を進言しています.
この時点で宣戦布告をしていたら,対華二十一箇条は無かったかもしれませんが.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板)
WW1で毒ガス・戦車・飛行機が登場しましたが,これら新兵器は戦争の勝敗を左右するものだったのですか?
いずれも当時決定打とはなっていない.
毒ガス:
膠着する戦線を打開するために開発された.致死性の猛毒ガス(青酸ガス)は持続性を持たせられず,ホスゲン,イペリット等が多用された.死者はそれほど多くない反面,負傷者は多数(数十万人単位.ヒトラーもその一人と自称している)で,効果は絶大.反面,条約で禁止されるまで延々とお互いに使用しあう泥仕合だったので,どちらか一方の勝敗の決定打とはいえない.
戦車:
敵塹壕を強行突破するために開発された.イギリスのマークIが元祖で,ソンム会戦で多少の戦果を挙げるも,主に信頼性にまだ難があったため,大局を変えるには至らず.
ただ,心理的効果は大きかったらしい.
別の流れとして,ルノー軽戦車があるが,こちらは終戦半年前位にようやく実戦投入された程度なので,こちらも大きな影響を与えてるとは思われない.
1919年まで戦争が行われていたら,戦車はまた違った評価になったと思う.
ドイツ軍の最後の反攻作戦が失敗した後,戦車隊を中心とした逆襲が行われている.
また,フラーなどの手によって攻撃計画「1919計画」が企画され,上層部で承諾を得ていた.
もし仮に反乱が起こらずに1919年までドイツががんばっていたら,戦車は戦争を終わらせた決戦兵器として名を残し,その後の戦術理論も違ったものになっていたかもしれない.
飛行機:
最初は偵察機として運用され,その行程で敵戦線にちょっとした爆弾を落とす「嫌がらせ爆撃」が発達して爆撃機へ.
それを撃ち落すための
戦闘機が生まれ,戦闘機同士の空中戦が発生.
が,基本的に地上軍と連携して動く戦術そのものが未発達だったので,こちらも戦局を変えるには至らず.
なお,その後,破竹の侵攻速度を持った陸空共同のドイツ電撃作戦や,一式陸攻でPOWを葬ったマレー海戦までは,まだ飛行機は軽く見られていた.
あの強大な戦艦が,ぶんぶん飛び回る飛行機「ごとき」に沈められるというのは,当時としては凄い衝撃だった.
まあ戦車にしろ戦闘機にしろ,それまでに使った事がない代物なので,どう使えば効率がいいか,どの程度使うとどの程度で故障が出て,どの程度お手入れに手間がかかるか等等,全く未知数だったのです.
要するに,機械はできたけど運用ノウハウがゼロで,これから実地で学習しなきゃならない状態だったのです.
第一次世界大戦の時に流行したスペイン風邪は,大戦にどれくらい影響を与えたのでしょうか?
両軍ともインフルエンザによる被害は甚大で,戦闘単位として不適切なまで兵員が減少した部隊が続出した.
ドイツは予定していた攻勢の延期を考えるくらいだった.
戦争の遂行に悪影響があると恐れたのか,各国とも被害の情況を隠し,アメリカ以外に正確な被害の記録は残っていない.
全世界で2000万~6000万人が死亡.
大戦による栄養状態の悪化が,流行に拍車を掛けた公算が高く,この事が大戦末期に両陣営で蔓延した厭戦気分に影響した可能性は高い.
オスマン帝国はなぜ同盟国側に参戦したの?
汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するため、同様にスラブ主義と対抗していたドイツと友好関係にあったから。
第一次世界大戦では毒ガスも戦車も飛行機も決定打となっていないそうですが,それなら何が決め手となって勝敗が決まったのでしょうか?
武器弾薬の製造能力,人員の動員数,それらを動かすインフラ,資本力と言った総合的な国力,その全てが世界最強であったアメリカが参戦したから連合国側が勝利しました.
厳密には無制限潜水艦作戦に怒ったアメリカが参戦した際に,
「アメリカが本格的に参戦したら絶対負ける
→なら今の内に勝負を決めないとマズイ」
と言った感じで,焦ったドイツが攻勢を仕掛けて失敗してしまったのが,決定的な敗因となっています.
この敗北で,攻勢前はほぼ互角だった兵力差が一気に逆転してしまった為,銃後の反乱を含めて一気に前線が瓦解していしまいました.
第一次世界大戦において,極一部の例外を除いけば攻勢を仕掛けた側が負けると言う構図が展開されていますので,その不文律を犯さざるを得ない状況に追い込まれた時点で,ドイツの敗北は決定付けられていました.
(ue◆WomMV0C2P in 軍事板)
何故,日本帝国は第一次大戦で,欧州に大兵力を派遣しなかったのでしょうか?
まず,ドイツと日本との関係.日独関係はその当時もかなり友好的な関係にありました.このため,出来る限りドイツと事を構えたくないと言う考えが働いています.
また,欧州に兵力を送るとなると非常に費用がかかること,食体系が欧州のそれとはまるで違うので,その補給が問題となること,それに日本としては,欧州列強のいない間に中国大陸に出て,米国の利益とぶつからないように,揚子江に至る華北の諸権益を確保しようとしていたので,欧州に兵力を回す余裕が無かったこと.
ロシアとの間で1916年に日露秘密条約を締結し,中国防衛に関して日本とロシアは共同で防衛の義務を負ったこと.
また,幼児期とはいえ産業界でも,欧州の戦争で活況を呈していましたので,欧州に向けるような兵力調達状況(産業界でも労働力を必要とする)に無かったこともあります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
詳しくは,
「第一次世界大戦と日本海軍 外交と軍事との連接」
平間洋一 慶應義塾大学出版会
をおすすめします.タイトルには「海軍」とありますが,政府首脳や陸軍の動きにも触れているし.
日本が第1次大戦のロシア軍に武器を輸出していたのは本当ですか?
日露戦争後から二月革命まで,日本とロシアは満州利権を北満,南満と住み分け,英米の満州進出に対抗する為,1907年の日露秘密協定を結び,仲良くパイを分け合うほどの仲です.
この協定は数々の追加事項を増やし,1916年までに4回,結ばれています.
梅本弘著「雪中の奇跡」(大日本絵画)の中で,フィンランドで売られている三八式歩兵銃が紹介されていますが,それも対露輸出の名残です.
そういえば,三八式歩兵銃用の銃弾を使用するフェデロフ自動小銃なんてのもありましたね.
シベリア出兵は日本にとって失敗に終わりましたが,このシベリア出兵の日本側勝利条件といいますか,日本側が目標としていた戦の終わり方とはどのようなものだったのでしょうか?
まずは,白衛軍の勝利です.
次いで,白衛軍の残党が打ち立てた,極東共和国と沿海州共和国の独立維持と,駐兵権,各種利権の維持(一種の満州化).
それが叶わなくなると,ポーツマス条約のソ連の承認による,日本側勢力圏の認定と,北部サハリン油田からの石油安定供給になっていきます.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
日本統治下の南洋群島について,統治内容等を知りたいのですが,ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください.
南洋群島は,Versailles条約で日本の国際連盟C式委任統治区域となりました.
これは,土着人民の利益の為に一定の保証を与えることが要件となりますが,受任国領土の構成部分として,その国法の下に施政を行なうものです.
但し,地域の詳細情報,施政諸般の措置は国際連盟理事会に報告する義務があります(これは,日本の連盟脱退後も継続されています.)
1922年の勅令第107号南洋庁官制により,パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置,南洋庁長官は,一般行政は拓務大臣の指揮監督を受け,他に一部の行政に関しては逓信,大蔵,商工の各大臣の監督を受けます.
1942年,拓務省廃止の後は,大東亜省所管となります.
南洋庁の組織としては,最初は課制でしたが,後に内務部,経済部,交通部,そして各島に支庁を設置,大きな島には法院を置いています.
支庁は警察を兼ね,法院の無い島であれば,民事裁判を行うほか,軽微な刑事事件も即決裁判を開催します.
法院は1922年の勅令第133号南洋群島裁判令によって設置され,高等法院,地方法院の二審制となっています.
教育は内地人については,内地と同様とし,島民に対しては,初等教育機関として本科三年,補習科二年の公学校を設置します.
授業の半分は日本語の習得に充てられましたが,五年でも平仮名が書ける程度でした.
自治体は1931年に,南洋庁令第七号南洋群島部落規定により,部落と言う自治体が置かれ,総代を長官が任命し,総代の諮問機関として,協議会を置きます.
協議会員は,独立の生計を営む25歳以上の男子からの完全普通公選制です(但し,選挙民は内地人のみ).
島民に対しては,1922年の南洋庁令第三四号南洋群島島民村吏規程により,島民を村吏に任命,カナカ族は総村長,村長,チャロモ族は区長,助役を設置しています.
1938年には勅令第224号南洋群島地方費令が公布,南洋群島は一つの自治体となりますが,諮問機関,議決権は設けられていません.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
最終更新:2008年07月02日 22:09