少年は疲れていた。疲れは脳を麻痺させ、矢鱈と思い出したくない過去、しかし忘れられない過去を掘り出してまざまざと眼前に見せつける事がままある。
この森の獣道、何度通った事だろう。あの時は友達も一緒だった。人間ではない。人間よりもっと深い絆で結ばれていた気がする、本当に心の底からの相棒だった、愛犬。少年はよく他の人間がそうする様に、愛犬を溺愛していた訳では無い。対等の立場で向き合い、そうして接していた。だからこそその愛犬が彼の元から死という結末で去っていった時、彼は神を信じなくなった。神に逆らってでも、愛犬と一緒に居たいと思った。だから、帝国から密かに漏れ出し、雪国の根深い雪の下を寝食する様に広がっていた死霊術に手を染め、愛犬を再び蘇らせた。
だがそれは、もっと悲惨な別れの始まりにすぎなかった。まだ彼の死霊術は完全ではなかったのだ。どんな文献にある方法を試しても、愛犬の姿はどんどん崩れてゆく。仕舞いには雪深い森の中、愛犬は只の骨と肉の塊、魂のない存在・・・しかも最初に死んだ時よりもっと悲惨な見目形で、消えていってしまった。
失ったものは取り返せない、それは判っている。しかし少年は、それでも何かに縋っていたかった。愛犬の死を頭の隅から追いやる為に、少年は死霊術の上達に没頭した。
それでも疲れるものは疲れる。気付けば少年は、嘗て愛犬と共に歩いたこの雪道に立っていた。相棒を失ってから凡そ三ヶ月、疲労はピークに達していた。
「・・・あれ、オレ、なんでここ居ンだろ・・・」
とても静かな、珍しく吹雪の激しい風音もない、深閑とした森の中、ふと少年は我に返った。帰らなきゃ凍死する。不意に雪国の鉄則を思い出して、彼は身を震わせた。忘れていた。勉学の熱に魘されて感じていなかった底冷えの寒さが、少年の身を襲う。
歩き馴れた獣道を戻ろうと踵を返したその時。わん、と、何処かで犬か狼の鳴く声が聞こえた。まさか、幻聴が聞こえてきたのか。そろそろやべえんじゃねえのかこれ。自分が死ぬかも、という恐怖が、少年の脳裏を駆け巡った。急いで脚に力を込め、雪を掻き分ける。
また聞こえる。わん、わん。怖くなって少年は元来た道を必死で駆ける。愛犬の亡霊が付きまとって来ている様で怖かった。
そして次の瞬間、どん、と背中を強く押されて、少年は雪の中につんのめった。幻聴じゃない。幻覚でもない。今自分は明らかに何かと接触した。驚いて目を剥き、圧迫されて痛む背中をぐるりと見た。
「わふ!・・・わん、わふっ!」
「いっ・・・犬!?」
紛れもない犬・・・否、少年が飼っていた犬も大概大きい身体をしていたが、この犬はそれに輪を掛けて巨大な身体つき。狼だ。すぐに判った。しかも異様な事にオッドアイの瞳に生気はないのに、へっへっと笑っている様に開いた口、だらしなく垂れた紫色の舌、そして何より、腕や肋骨が破れた皮膚の下から見てとれる。間違いない、狼のゾンビだ。食い殺される。何とか調伏して温和しくさせないと、爛れた口の中にずらりと居並ぶ鋭い牙の餌食になってしまう。少年はなんとか身を捩って仰向けになり、右腿に据えてあった小型のナイフに手を伸ばす。
しかし様子がおかしい。殺すつもりならば一気に首か腹を食い千切ればいいものを、この狼はそれをしない。ふんすふんすと荒く鼻息を漏らし、骨の見える腕で少年の胸を掻きむしりながら、首筋に顔を寄せてぶんぶんと体液塗れの頬を押し付けてくる。
「・・・っんだよお前!?」
飼い主・・・使役しているネクロマンサーらしき人影は見当たらない。恐らくは野良ゾンビなのだろう。しかしながら、この狼の行動、少年には覚えがあった。
他でもない、愛犬がよく少年に行っていた、スキンシップそのものなのだ。スキンシップと言うより、暴れている、と言った方が正しい程激しいものだが。
兎も角ここで反撃したら可哀想な気がしてきた。狼は襲ってきているんじゃない、甘えてきているのだ。そんな奴をナイフで串刺しになんか出来るものか。一か八か、少年は徐に両手を伸ばし、狼の耳の下辺りをわしゃわしゃと撫でくりまわしてみた。きゅんきゅん言いながら喜んでいる。恐ろしさより、何か不思議なものが少年の心を満たし始めていた。
「何だよお前ー・・・人間に甘えたいゾンビなんて初めて聞くぞ、オレ」
気付けば少年は、三ヶ月ぶりに心の底から笑っていた。ははっと声を漏らしながら、ひたすら狼の体液に濡れた冷たい身体を撫でまわしていた。
しかしながら、狼はやはり野良らしく、主の居ないこのままでは崩れ去ってしまうのが目に見えていた。雪原に腰を下ろし、おすわりの体勢で温和しく頭を撫でられているこの狼も、何れはあの愛犬の様に・・・そう思うと、少年の胸は張り裂けそうに痛む。
「お前、オレと一緒に来るか?」
「わふ?」
首を傾げる狼。しかしそこに、否定の影は見られない。むしろ、「ほんとについてっていいの?」と言わんばかりの表情をしていた。ぱたぱたと腐って取れそうな尻尾が左右に振れている。
「オレがお前の主になってやるよ。楽しいぞ、多分!」
「わんっ!」
また狼は少年に飛びつく。少年の笑顔を浮かべた頬をべろべろなめ回す。
「わーったわかった!よし、オレがお前に名前つけてやる!・・・んー、ポチ、は適当だなぁ、チョコ、って顔でもねえしなぁ・・・。
・・・コロ!コロでいいや!オレはシベル、お前はコロ!いいな!」
「わふ、わふんっ!」
そうして少年・・・シベルはケラケラ笑って、星の眩しい夜空を見上げた。勉強や愛犬の死で埋め尽くされていた頭の中は、まるでこの星空の様にすっきり晴れ渡っていた。
その頃、雪国から遠く離れた帝国の聖堂に、固い軍服に身を包んだその女性は赴いた。とある神父と会う為である。
「神父よ、時間はあるか。これは強制ではない、私の一存での話だ」
教壇にて分厚い本に付箋を貼る作業の手を止めて、神父はニコと笑った。
「珍しい事もあるものですね。・・・と言っても、教義を聞きに来た訳でもなさそうですが、どうなさいましたか?」
「大した話ではない。お前の行動にはここ最近思う所があってな」
パタン、と革の表紙が閉じられる音が聖堂に響く。女性の緊張した面持ちとは裏腹に、神父は笑顔を絶やさない。
「最近やけに雪国出身の人間と接触を図っている様だが・・・何か理由でもあるのか?」
「ベロニカさん、私は死者を正しく導く事を辞めたネクロマンサーを粛正する立場の人間です。あなたなら知っておいでの筈、ここ最近雪国に於いて不正なネクロマンサー養成学校が暗躍していると。
私は私の仕事をしているまでですよ。道理を外れた死霊術は許してはならない」
「・・・私も最初はそう考えていた。しかし昨今、その雪国のネクロマンサーの力が不自然に増大しているとの報告を受けたのだ。不審に思った。もしかしたら・・・いや、これはまだ私の推論に過ぎない」
「私でよければ相談に乗りましょう。その為にあなたも此処にやって来たのでは?」
「では単刀直入に言おう。何者かが帝国の死霊術の根幹たる部分を、雪国に不正にもたらしているのではないか、と私は考えているのだ」
「・・・」
「どう思う?神父。私はあくまで軍人だ。死霊術についてはお前の方がよく判っている筈。お前の見解を聞きたい」
「・・・横流し、ですか。その可能性はなくもない、・・・と思っています、私も。
あなたは腹を割って話して下さいました。本当に嬉しい事です。ですから私もまた本音を言いましょう。
私はそれが何者なのか探る為に、雪国の人間と連絡を取り合っています」
暫しの沈黙。
「・・・。そう、だな。お前の様な人間が帝国を裏切るなどと、一瞬でも疑ってしまった私が馬鹿だった。すまない」
「いいえ、疑うのは辛い事です。そしてあなたはそれを職としていらっしゃる。辛い立場に率先して立つその姿、尊敬します」
聞いた上だけでは暖かい談笑。しかし互いの腹の奥底には、言葉にならない、またしてはならない蜷局の様な疑念がのたうち回っている。
「今日は急に来て済まなかったな。またお前に助言を求める事があるかもしれない。その時は頼む」
「門戸は常に開かれていますよ、真理を求める者に。いつでもおいで下さい」
ベロニカの胸が焦げ付く様な苛立ちに染まっていた。ノイエスはそれでも笑みを浮かべていた。己の嘘を、嘘と思っていないかの様に。