『太平洋戦争とは何だったのか(The issue of war)』クリストファー・ソーン
年表
前書き
- 極東戦争という呼称の理由
- 太平洋戦争、では地理的・地政学的側面の性格付けがなされない
- 極東、であれば東アジア、東南アジア、西太平洋、オーストラリアを含むことができる(ほんとかね?)
第1章 最初の反応
特になし。開戦当時の世界の反応を述べている。
第2章 国際的状況
イギリスと日本の戦い
- 極東戦争の起点
- いくつか説がある。1931年の満州事変、1937年の中国に対する日本の攻撃、1928年の張作霖爆殺事件
- 著者は明確な起点をあえて挙げず、衝突が不可避となったのは真珠湾攻撃までの2年間であったとだけ指摘
- この間にナチスドイツがヨーロッパで軍事的勝利を挙げ、(このようなドイツの1870年代からの動きにより)ヨーロッパ体勢の均衡が完全に破壊された
- フランスが敗れ、極東の領土が本国の庇護を失い、日本軍が1940年9月北部仏印、1941年7月南部仏印に進駐した
- 南部仏印進駐が、戦略的情勢を大きく変えた。西欧諸国は日本に対し石油禁輸措置を行い、日本国内では権力バランスが変化し開戦派が力を握った
- 1940年9月に三国協商が成立
- 1941年4月 日ソ不可侵条約、6月 ドイツがソ連を攻撃
- この時期の日本の動きが直接国益を損じたのは、アメリカではなくイギリスであった。
- 直接的な極東のイギリス領への攻撃だけでなく、インド・香港での投資・貿易の冷え込み、オーストラリア・ニュージーランドを含む各地域へ保護を保障できないという権威の低下がみられた
- イギリス政府はなんとかアメリカの援助を得ようとしており、既に世界帝国の面影はなかった
人種的偏見、帝国主義的戦争
- 開戦前、ヨーロッパではそれほど関心の高い事柄ではなかった
- また、開戦自体が可能性の低い事柄であると考えられていた→多くは人種的偏見による
- このように白人の人種差別主義者は一般に避戦論であったが、日本人の人種主義者は逆にきわめて好戦的だった
- 特に日本の差別観は中国に向けられ、おさまるものもおさまらない戦争の原因となっていた
- 真珠湾攻撃前に、誰もが明確な態度を示していたわけではなかった
- オランダは態度を保留し、共栄圏への加入も検討していた
- ネルーは1942年にはファシストとの戦争を強く支持したが、1940年にはイギリスの帝国主義戦争に巻き込まれることに強い反対を表明していた
- インドネシア、インドシナの民族主義者はオランダやフランスの植民地主義者が日本によって罰せられることを望んだ
- 東京はこの時期、特にイデオロギーに支配されていたわけではなく、生存のための戦争と捉えていた
- 1941年の秋ごろになると、日本はほぼ戦争に突入しようとしているだろうと認識されるようになった
- アジアでは、一部の民族主義者が日独のファシズムを批判する一方、イギリスは帝国主義にも重要な注文をつけた。一方一部の民族主義者は、日本の引き起こす戦争を歓迎した。それはヨーロッパ帝国主義の駆逐という意味だった。
- そのような情勢の変化の中、アメリカの存在感はますます増大していった。
白色人種と黄色人種
最終更新:2007年06月15日 04:28