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六十年の回顧 三〇 個人雑誌の発行 三一 民族研究熱の高潮といわゆる特殊部落の解放運動 喜田貞吉 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)曩《さき》に [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから1字下げ] ------------------------------------------------------- [#ここから底本凡例より]  なお今日からすれば使用をつつしむべき差別用語が用いられているが、本著作集においては喜田貞吉の思想、史観を明らかにするうえからあえて改めず、原文のままとした。ただし限定された地名については若干の配慮をほどこした。 [#底本凡例ここまで]        三〇 個人雑誌の発行  明治四十一年二月に講師として、始めて京都帝大に関係を持ってから、今年でまさに満二十五年となった。今さらながら歳月の流れの早いのに驚かされる。もっとも文部省在勤当時の三年間は、毎年ただ約一学期ずつ東京から出かけて、講義のお手伝をする程度に過ぎなかったが、文部編修の休職以来はゆっくり京都に滞在して、好きな見学旅行も勝手に出来る。ことに休職満期の大正二年からは、もっぱら京大にのみ勤務するようになる。その時代が約九年。大正九年七月教授に任ぜられてからが四年余り。さらに大正十三年本官を辞して東北帝大の講師となり、次の新学期からもとの京大講師懸け持ちとなってからでも、今年でもはや九年目である。  南北朝正閏問題の結果として、休職となった後の自分の生活は、実に気楽なるものであった。持って生れたわがままな性質のうえに、この問題のためにあまりに強く打ちのめされて、去勢されてしまったとでもいうものか、何によらず面倒なことがことにいやになった。ただ講義さえしていればよいという責任の少い講師の地位が、自分のためには最も択ばれたものだった。わずかばかりの時間を教壇に立つ以外は全く自由で、実地について各地の古墳墓や、その他の遺物・遺蹟を、盛んに見てまわるようになったのもこれからだ。未熟の研究を臆面もなく起稿して、盛んに学界に迷惑をかけたのもまたこのころからであった。そのうちにわが民族研究に興味を覚えて、ついに大正八年からは、個人雑誌『民族と歴史』を発行することになった。実は自分は同人諸氏とともに、明治三十二年以来雑誌『歴史地理』を経営している。それで身体が閑になった大正元年以来は、ことに盛んに同誌の誌面を塞ぎ、それでも間に合わずしてしばしば他の諸雑誌にも御厄介になったものだった。しかしそれでは同人雑誌なるはずの『歴史地理』が、喜田個人の機関雑誌ででもあるかのごとき世評もあって、熱心に編輯その他のことに尽力せらるる同人諸氏に対して、まことに申訳がない。ことに近ごろ民族研究に熱中して、自然に記事が多くその方面に片よるようになっては、『歴史地理』の本領にとっても不適当であるということから、ついに個人雑誌として、『民族と歴史』を発行することにしたのである。かくて爾後自分の民族・土俗方面の研究は、たいていこの雑誌で発表することとなし、特に歴史地理学的のことのみを『歴史地理』の方に収めることに方針をきめた。そのうちに民族的研究はさらに特殊民の研究に移り、ついには社会組織の史的研究という方面にまで火の手が拡がって行って、この雑誌も後には『社会史研究』と改題し、大正十二年の大震災の影響を受けて、『歴史地理』と合併するまで約五年、通編五十八号まで継続したのであった。その間同誌上に発表した未熟の論文・雑録の数は、大小通じて無慮二百余篇の多きに達している。その他の雑誌や新聞に発表したものを合せたなら、あるいは三百篇近くもあるであろう。これには自分ながらいささか驚いた。実際自分は臆面もなく、粗製濫造品を無暗と発表したものだった。しかしこれについてはいささか自分に主張がある。当時自分は仕合せにも物質上にはそう困っていなかったがために、原稿料稼ぎの起稿は努めてこれを避ける方針のもとに、お義理その他やむを得ぬ場合のほかは、多分の報酬をくれるような雑誌にはなるべく筆を執らぬことにしていた。もちろん単行本としての著書をも絶対に避けて、無暗と学術雑誌上に所見を発表したものだった。大正八年七月、内田銀蔵博士が長逝せられて、その追憶を『民族と歴史』十月号に掲載した中に、自分はこんなことを書いておいた。 [#ここから1字下げ]  君は余が無遠慮にも、未熟の学説を常に雑誌上に公にするのをもって、余のために取らずとなし、「喜田さん、雑誌上の発表もあながち悪いとは申しませんが、なるべく推敲を重ねて、権威ある著書としてお出しになってはいかがです」と。これに対して余は常に、君の好意を謝しながらも、なおこれに従うの意志がなかった。「私に研究的態度を継続する元気の存する間は、私の学説は日進月歩で、逐次に訂正増補を加えて行かねばならぬ。なまじ著書の形をもって発表して、ためにみずから欺き、後進を誤るのは私の忍びないところです。それにはどうしても、漸次改訂を加うるの便宜多き、雑誌上の発表がよいと思います」と。時としてはこんな皮肉なことをもいった。「私がみずから完全だと信ずるほどの著書を発行しようとすれば、例えば百年河清を待つがごときもので、あたかも貴下の『日本近世史』のようになってしまいます」と。余はまたこんな憎まれ口をもきいた。「私は決してみずから完全とは思わぬまても、その当時においてベストと信ずるところを発表するのをもって、学者の任務と信じています。発表をおっくうがるような大家先生は論外だが、発表に臆病な人は、実力以上に世間から買いかぶられているところの箔が落ちるのを恐がるのでしょう」と。実際余といえども、かくまで著書としての発表を重大視した訳ではない。また未熟の学説の発表をもって、そうまで価値あるものとも思っていない。事実は次の研究に忙しくて、前の研究を纏める暇がないのであるが、例の悪い癖から、つい温厚なる君に対して、こんな嫌がらせをもいったのであった。それというのも、余が在学中に、故黒川・小中村両先生の教壇における述懐を拝聴して、痛切に感じたことがあったからである。黒川先生は美術史を講ぜらるるさいに、余らの学生に向って、古物鑑定の眼識を説明せられながら、「自分の研究はそれぞれ筆にとどめてあるから、自分がなくなった後にも諸君に見て貰うことが出来るが、ただこの眼識のみはいかにしてもこれを伝えることが出来ぬ。惜しいものだ」と述べられた。実際先生の研究は、その眼識以外のものはほとんど全くその全集によって伝わり、今日なお余ら後進の者がこれを窺い知ることが出来るのである。しかして及ばないまでも、その上に一歩を進めて見ようと試みることが出来るのである。これに反して小中村先生の述懐は、実にお気の毒千万な、同情に堪えないものであった。「自分は今や余命いくばくもない。これまで公務の忙しさに取り紛れて、いっこう研究を纏めておらぬ。せめては大宝令の分だけをでも世に遺したいと思って、曩《さき》に大学教授の職をも辞し、今では僅かに講師として少時間を諸君の前に立つだけで、自宅に書生を頼んで、日夜これに従事しておるのである」と。しかも先生のこの著手は時すでに晩《おそ》く、先生の深遠なる研究は、直接その講義を拝聴したもの以外には、多くこれを伝えることが出来ないで終られたのである。先生の高齢をもってしてなおかつしかりであった。しかも余らは必ずしも先生の齢を予期することを得ないのである。ここにおいてか余は、なるべく速かにその研究を筆にして、漸次これを訂正増補するの方針を執った。 [#1字下げここまで] というのであった。実際自分は研究の発表に急であったがために、駄作世を誤るもの少からぬことを自認して、研究の進歩とともに順次改訂増補の便多き雑誌上の発表を選んだのであった。しかして臆面もなく駄作を濫発した結果として、ともかくもいくらか自分の研究を纏めることが出来たと自信しているのである。しかしまだそのほかに、蒐集した史料、つつき散らした研究の、そのままに「長持の下積み」となり、自分自身にもこれを利用し得ずに蠧魚になったり、黴が生えたりしつつあるもの、あるいは未定稿のままに筐底に蔵せられて、自分でも忘れてしまい、そのまま腐朽しつつあるものは、さらにその幾倍あるかも知れないのである。これはぜひなんとかして、生命あるうちに整理しておきたいと思うている。  自分が『民族と歴史』を発行するに至った動機は、実に右にいうごとく民族研究に興味を覚えて来たためであったが、しかしそれは単に自分の研究発表機関たらしめるというばかりでなく、同時にこれをもって各地の同好者と連絡を保ち、研究資料の提供を得て、これを蒐集するの機関たらしめたいということにもあった。また特に当時のいわゆる特殊部落の起原・沿革を調査して、社会の啓蒙運動の資料を供給せんとするためでもあった。この点において自分の『民族と歴史』は相当の成績を挙げ得たと信じている。なおこのことについては章を改めて別に言う。『民族と歴史』改め『社会史研究』を廃刊し、『歴史地理』に合併してから後は、しばらく同誌にたて籠って、これを自分の研究発表機関に供してみたが、やはり前に経験したと同じような故障の発生を免れ得ぬ。その頻繁なる発表も自然遠慮がちになって来る。ことに大正十三年東北大学の講師として、年中の大半を東北地方に送るようになってからは、主として奥羽・北海道方面の諸研究、特にその民族的方面のことに没頭して、さしあたり別に資料の蒐集機関が必要になった。調査し研究した事柄も、発表機関がなくてはいつかは「長持の下積み」になってしまう。そこで昭和三年九月から、年寄の冷水の譏りを覚悟しつつ、新たに『東北文化研究』という個人雑誌を始めてみた。しかし寄る年波は争い難く、とても『民族と歴史』時代のように敏活には物が運ばぬ。ことに東北文化と範囲を限ったがためにか、『民族と歴史』のようには売行きがうまく行かぬ。発行者の方で算盤が取れぬのみでなく、編輯の方も後れがちになって、月一回の予定が実行されなくなる。そのうちに発行引受書肆の破綻があり、また昭和五年の半年に渉る自分の大患のために、一時休刊のやむなきこととなり、次の発行引受者もまた当時の不景気が生む蹉跌から、ついに発刊不可能となってしまった。継続わずかに十号、第十一号目はすでに昭和五年末に印刷を終り、仮製本に附したまま、今に印刷所に保存してあるが、発行者がそれを引き取らず、また読者名薄をも引き渡さぬままに消えてしまったので、自分ではなんとも致し方がなく、ために継続の方法も立たずして今日に及んでいる。これはまことに読者諸氏に対しても申訳なく、自分にとっても遺憾限りなき次第である。 『東北文化研究』が中止になって、発表機関を失った後は、新しい研究もついこれを学界に紹介するの方法を得ずして、そのままになっているものが多い。近ごろの新発見としては、青森県三戸郡是川村における石器時代の遺蹟から、図らずも多数の植物性遺物が、地主の泉山氏によって発掘せられたことである。従来石器時代の遺物としては、石器・土器・骨角器等、主として容易に腐朽しない材料の物品のみに限られていたのであったが、ここに始めて多数の木製品、繊維製品などが発見せられて、従来ほとんど知るを得なかった当時の文化の他の一面が、始めて窺い知らるるに至ったのである。ことにその新発見遺物の中には、思いのほかに進歩した漆器工芸品が多く、かつ往々その実年代の、案外若いものなることを想像せしむべき資料もあって、その発見は確かにわが考古学上の研究に、一新時期を劃すべきものといってよいのである。少くも自分の民族研究の立場からこれを観れば、これを遺したものは確かにわが歴史上に著しい蝦夷の族であり、しかも彼らはなおわが日本民族の奥羽拓殖当時において、青森県のごとき僻遠の奥地にあっては、依然石器時代の状態に住していたことが知られて、ただにわが考古学研究のうえにのみならず、歴史研究のうえにもまた一の新しい見方を与えてくれたものである。ここにおいて自分は杉山寿栄男君の協力を得て、これを図録に調製して学界に紹介し、兼ねてこれを造した石器時代人の研究、ならびにその文化の状態を論述して、図録の解説とともにこれを別冊となし、研究者に新しい資料を供給するとともに、これに関する管見を学界に問おうと試みた。かくてその図録は『日本石器時代植物性遺物図録』の名のもとに、昨年一月中にようやく完成を見るに至ったが、その後また続々新発見の資料があり、これを増補し研究を新たにすべき事実の発生が続々相踵ぐという状態であるとともに、一方には種々の個人的障礙もあって、今もってこれが完成を見るに至らず、学界の期待に背くことの大なるは慚愧の至りである。これというも自分に発表機関を持たぬがためで、正直なところ自分のごとき意志薄弱なものにあっては、なんらかそこに期日を限って督促さるるある物の存在せぬ限り、つい他の雑務に追われて延び延びになってしまうのである。しかしこれもほぼ準備が整ったがために、今現に執筆中のこの『六十年の回顧』の完成次第、遠からず発表し得べき順序になっていることをここに告白しておく。        三一 民族研究熱の高潮といわゆる特殊部落の解放運動  自分がもっぱら京大に教鞭を執っていた時代、すなわち文部省休職後の大正元年から、十三年に東北大学の講師を兼ねて、もっぱら東北地方の研究に没頭するまでの約十三年間は、自分にとってはむしろ平々凡々たる時代であった。閑にまかせて各地を旅行し、主として遺物・遺蹟を調査する。この方面から資料を求めて、日本民族の成立、および発展の蹟を明かにしてみたいとの慾望が盛んになった。もともと自分は歴史地理学の研究を標榜して、籍を大学院にも置いてみたのであったが、卒業後は例の肩書切売に没頭し、文部省に就職してからの自分の日常は、教科書の検定や編纂などに追われて、その必要上一般的に国史の研究を試みた以外には、別になんという専門的の研究に手を染めることがほとんど出来なかった。強いて言わばその間において、いくらか専門を標榜する歴史地理の方面から、大名領知の調査に手をつけかけてみたくらいのことで、それも単に少しばかりの材料を集めたという程度のものであった。さればその期間の業績としては、それは全く偶発の事項として、一時法隆寺や平城京の研究に夢中になり、はからずも他日の学位論文となったところの、かの雑多の原稿を作り上げたことを数え得るに過ぎない。したがって明治三十九年以来の東大における講義のごときも、今から思えば至ってお粗末なもので、ありふれた国史地理上の諸問題を扱っただけだった。しかるに四十一年に京大の講師として、古代史を受持つようになってからは、もっぱらその方の研究に油が乗って来た。しかしてわが古代の真相を明かにするには、単に貧弱なる文献的史料をいくらいじくりまわしたからとて、とうてい十分に知ることが出来ない。これはどうしても古墳墓その他の遺物・遺蹟等、古代人が実地に遺した実物的史料のうえに、考古学的研究を重ねてこれが基礎を築かねばならぬことに気がついた。これは全く法隆寺問題の研究や、平城京址の調査に没頭したお蔭である。かくてそれ以来は暇にあかして、まず主として近畿・中国・四国・九州等、わが古代文化の関係の最も多く、かつ京都にいる身にとって、比較的行くに便利な西部地方の実地を踏査し、その九州に足を容れた数だけでも、大正十三年までに前後十五回の多きに及び、昨昭和七年までには、実に二十回に達しているのである。かくて九州地方特有の神籠石と呼ばるる各地の巨石建造物や、他に類の少い銅剣・銅鉾等の遺物や、墳墓の様子の近畿地方のそれとすこぶる趣を異にするものの多いことなどを調査しているうちに、単にその考古学的研究のみに満足することが出来ず、さらに進んでこれらの遺物・遺蹟をとどめたはずの、いわゆる倭人の民族的研究をなすの必要あるを認むるに至った。かくて大正四年ころには、一時は倭人研究時代と言ってよいほどにも、この研究に熱中しかけたものだったが、湧いて来た民族研究の興味はやがて次から次へと波及する。これはまことに自分にとって悪い癖で、これがために何かとつつき散らすだけで、いっこう纏りが付かぬのにはわれながら愛想をつかす場合が多いが、しかし一方にはまたこの悪い癖があるがために、研究があまり一方に片寄り過ぎるという弊を幾分予防し得るのではないかとも思っている。そはともかくもとして、前につつきかけた研究がまだ纏まらぬうちに、さらに火の手は次のものにと移る。倭人を調べかけてみると、やがて石器時代に弥生式土器を遺した民族のうえに及ぶ。帰化民族のことが調べたくなる。蝦夷のことも調べてみたくなるという風で、民族的研究の興味がますます高まって来る。はては何を見ても民族的方面から考えてみたくなる。日本の古代史はあるいは日本民族の成立史といってよいほどにまでも、民族的色彩が濃厚なものだというところに気がついて来る。しかしそうなって来ると研究の関係するところがきわめて広くなり、材料を各地の土俗・方言等にまで求めねばならぬこととなる。大正八年から個人雑誌『民族と歴史』を発行するに至ったのも、実はこの民族研究の高潮した時代の産物だった。  日本民族に関する研究熱が高潮して来ると、どうしてもその出発点を蝦夷すなわちアイヌ族の上に置かねばならぬ。彼らはおそらく我が島国に始めて足跡を印した民族で、石器時代においては広く全国に渉りてその遺蹟をとどめ、歴史時代になってもなお奥羽地方に活躍をつづけつつ、その遺※[#「((山/(追−しんにゅう)+辛)/子」、第4水準2-5-90]は現代にまでも保存されているのである。したがってその沿革を知るには比較的便宜が多く、これが徹底的研究は、ただにわが古代民族研究上最も重要なる地位を占むるものであるのみならず、さらにこれを他の民族の上に及ぼしては、つとにその蹟を没して、調査の便宜少き他の異民族同化融合の事情をも、これによって類推し得るの好参考資料を提供するものである。ここにおいてか自分の研究はさらに西から東に移った。彼らが最後まで遺留した東北地方の実地調査によって、遺物・遺蹟・土俗・方言等、各般の方面に渉りこれが研究を重ねねばならぬ。しかるに自分の奥羽・北海道方面の視察は、大正四年にただ一度試みたことがあるのみで、東北地方は自分にとってほとんど未拓の野である。否、自分ばかりでなく、従来学界からも比較的閑却されているのである。これはぜひ自分の手でもって、徹底的にやってみたいという慾望が起って来た。かくて大正十一年の十一月に、久し振りに奥羽に足を入れて、山形・宮城両県下を十日ばかり見てあるき、翌十二年三月には秋田県まで足をのばし、さらにその七月には岩手・青森から北海道に渡って、大正四年渡道のさいに懇意になったアイヌの青年達にも、九年目に会見の機を得たことであった。しかしなにぶんにも京都根拠の自分にとっては、途中に多くの日数と費用とを要して、思うままに調査の手を伸ばすことの出来ぬ事情があり、ひたすらそれを遺憾としていたさいにおいて、なんらの幸運か大正十三年に至って、突然東北大学の講師を兼務することになり、ことに斎藤報恩会から爾後数年間研究資金の補助をも与えられて、奥羽・北海道に渉って、比較的容易に調査旅行を試みることの出来る身分となった。かくて今に至るまで、主としてこの方面の民族的研究に従事しているのである。  自分が始めて民族研究に手を染めたのは、明治三十九年末に中田薫君の「アイヌ語神名考」を読んで興味を感じ、翌四十年一月の『史学雑誌』上でこれが批評を試みた時からのことで、その後、さらに同年三月の『歴史地理』第九巻第三号を、「土蜘蛛号」として発行したことであった。しかし自分がこの方面のことに興味を有することになったのは、実は当時すでに多少とも社会の問題となり、これが改善が叫ばれていたいわゆる特殊部落の何ものなるかを、歴史的に調べてみたいという慾望からであった。今日ではもはや世人も特殊部落などいう語をほとんど口にするものはなくなったが、当時にあってはまだ世間一般の人々が、なんらその理由を解することなしに、ただ多年の因習から、はなはだしく差別的の目をもってこれを見、これを忌避するの風習が各地に遺されていたのであった。そこで自分は歴史家として、まずもってこれが起原・沿革を徹底的に研究してみたいと考えた。従来世間普通の人々の考うるところでは、彼らは、普通民とは種族が違うものだという。あるいは朝鮮人の子孫だなどという。しかし自分はどうもそうとは考え得なかった。自分の郷里にもその部落があって、少年時代から親しくそれらの人々と接触交際する機会が多かったがためか、直感的にどうもそうとは考え得なかったのである。ことに自分は、中学時代に士族の子弟や城下の生徒らから、何かにつけて百姓だの郷中者《ごうちゅうもん》だのという侮辱的言辞をもって、しばしば侮辱されたがために、いわゆる同病相憐むということからか、いっそうこの種の人々に対して、親しみと同情とを感ずることになったようだった。かくてしばしばその部落に出入し、その人々が世間の差別待遇のために、精神的に、物質的に、いかに多くの苦痛を嘗めさせられているかを親しく目賭する時に、ますます世間の無理解に対して、遺憾の念を禁ずるを得なくなった。ここにおいて自分は、もし自分の研究をもって、いくらかでも社会の啓蒙の資に供することを得るならば、それは自分の学問がそれだけ有意義になるわけだと考えた。かくてだんだんと史料をあさり、研究を重ねるに従って、その区別は全然種族の問題ではなく、もっぱら境遇の問題であることがハッキリとわかってきた。明治四十年のころ、帝国教育会の何かの会合の席上で、柳田国男君とこの点について、意見の交換を行ったことがあったと記憶する。またこのころ郷里の部落の人々を会して、自覚反省を促したこともあった。これが自分のこの問題に関して、ともかくも宣伝らしいものを試みた最初であった。その後明治四十一年に京大講師となって以来、しばしば京都に滞在するの機会を育し、自然研究上の便宜も多くなったので、さらに進んで広く内部における史料を調査し、その沿革に関する全貌を明かにせんと試みるようになった。かくて翌四十二年五月、京都の天部部落に古老竹中庄右衛門翁を訪問し、同部落の織田・豊臣時代の文書などを見せて貰い、また維新前の実話を聴取し、同部落の夜学校で有志の人々のために、いわゆる特殊部落の本体について、一場の講話を試みたこともあった。これが自分のこの問題について、ともかくも史的研究らしいものを発表した最初である。  いわゆる特殊部落の研究は、同時に日本民族の研究と並行せねばならぬ。彼是相俟ってますます民族研究熱は高潮して来る。ただに机上の研究のみでなく、これを実地に応用して、世間の啓蒙運動に資せんとするの熱情も熾んになって来る。大正八年一月個人雑誌『民族と歴史』を発行するに至ったのも、一はこの方面における研究を発表するとともに、兼ねて資料蒐集機関に宛てんとするためであった。当時同誌の綱領として発表したところに、「本誌は我が日本民族の由来沿革を調査し、其の社会組織上の諸現象を明にするを以て目的とす」、「本誌は特に過去に於ける賤民の成立変遷の蹟を詳にし、今も尚時に疎外せらるゝの傾向を有する、同情すべき我が同胞解放の資料を供せんとす」とあって、実際はいわゆる特殊部落の研究と、これが解放に関する宣伝とが、当時における重なる対象であったのだ。時あたかも内務省において、細民部落改善協議会が開かれ、翌二月にはまた築地本願寺において、大江天也老師の帝国公道会主催で、同情融和会なるものが開かれて、部落解放運動の機運がようやく向いて来た。すなわち同誌五月号を三百数十頁に増大して、「特殊部落研究号」に宛て、さきの内務省における講演筆記以下十四篇の研究を掲げ、別に大江師の寄稿以下十九篇の報告をも収めて、警鐘を乱打したことであった。この催しはかなり世間の注意を惹いて、毀誉褒貶の批評が少からずやって来た。部落側の人々からは、一面感謝をもって迎えられもしたが、一面にはこれをもって、売名のために、あるいは雑誌を売らんがために、われわれを利用するものだなどと、とんだ穿った批評をも受けた。中にはその特殊部落という名称について、抗議を持ち込んで来た人もあった。滑稽なのになると、喜田は部落出身でもあろう。しからざればあの細君が部落の娘であろう。もしそうででもないならば、頼まれもせぬのにあんなに熱心に研究したり、宣伝したりするはずはないなどと、自己の利己的根性をもって自分の態度を忖度するものもあった。中には全く自分をもって、部落出身の博士だと思い込んでいる人も少くなかった。その後水平社が組識せられて盛んに活動を始め、社会一部の脅威を感ぜしめたさいのごとき、これは裏面にあって喜田が煽動したものだとか、喜田が余計なことを宣伝するから、彼らがつけ上ってあんな乱暴を働き出したものだなどと、飛んでもない認識不足の非難をあびせかけたものもないではなかった。  水平社の勢いが熾烈になって、大いに世間の覚醒を促したがために、融和改善ということが盛んに叫ばれ出した。各地に融和を目的とする団体が組織された。国家は資金を支出して、改善費の補助をこれに与え、初めは中央社会事業協会の地方改善部で、後には社会局の構内に中央融和事業協会というものが出来て、もっぱら融和改善の施設に当るようになった。かくて大正十四、五年ころまでは、自分もその依頼を受けて、自己の研究による歴史的見地から、あるいはパンフレットに執筆し、あるいは各地に講話旅行を試みて、いわゆる部落民の自覚と、一般社会の啓蒙とに努力したことも多かった。しかし自分はどこまでも一学究として、自己の歴史的研究の結果を宣伝するの範囲にとどめ、なるべく実際運動に関係することを避けた。中央融和事業協会の組織せられたさいに、その理事としての推薦勧誘を辞退したのもこれがためであった。しかもその口と筆とによる宣伝も、いわゆる仏の顔も三度で、同じようなことをいつまでも繰り返すでもなく、また社会の進歩もあまりそれを必要としなくなったうえに、大正十三年以来は多く仙台に滞在して、主として奥羽・北海道方面の研究に没頭することになったので、いつとはなしに自然にこれから遠ざかるようになった。 ※ 底本の編注は省略しました。 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社    1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『還暦記念 六十年の回顧』    1933(昭和8)年4月発行 入力:しだひろし 校正: xxxx年xx月xx日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*『六十年の回顧』 *三〇 個人雑誌の発行 六十年の回顧 三〇 個人雑誌の発行 喜田貞吉 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)曩《さき》に [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから底本凡例より] ------------------------------------------------------- [#ここから底本凡例より]  なお今日からすれば使用をつつしむべき差別用語が用いられているが、本著作集においては喜田貞吉の思想、史観を明らかにするうえからあえて改めず、原文のままとした。ただし限定された地名については若干の配慮をほどこした。 [#底本凡例ここまで]        三〇 個人雑誌の発行  明治四十一年二月に講師として、始めて京都帝大に関係を持ってから、今年でまさに満二十五年となった。今さらながら歳月の流れの早いのに驚かされる。もっとも文部省在勤当時の三年間は、毎年ただ約一学期ずつ東京から出かけて、講義のお手伝をする程度に過ぎなかったが、文部編修の休職以来はゆっくり京都に滞在して、好きな見学旅行も勝手に出来る。ことに休職満期の大正二年からは、もっぱら京大にのみ勤務するようになる。その時代が約九年。大正九年七月教授に任ぜられてからが四年余り。さらに大正十三年本官を辞して東北帝大の講師となり、次の新学期からもとの京大講師懸け持ちとなってからでも、今年でもはや九年目である。  南北朝正閏問題の結果として、休職となった後の自分の生活は、実に気楽なるものであった。持って生れたわがままな性質のうえに、この問題のためにあまりに強く打ちのめされて、去勢されてしまったとでもいうものか、何によらず面倒なことがことにいやになった。ただ講義さえしていればよいという責任の少い講師の地位が、自分のためには最も択ばれたものだった。わずかばかりの時間を教壇に立つ以外は全く自由で、実地について各地の古墳墓や、その他の遺物・遺蹟を、盛んに見てまわるようになったのもこれからだ。未熟の研究を臆面もなく起稿して、盛んに学界に迷惑をかけたのもまたこのころからであった。そのうちにわが民族研究に興味を覚えて、ついに大正八年からは、個人雑誌『民族と歴史』を発行することになった。実は自分は同人諸氏とともに、明治三十二年以来雑誌『歴史地理』を経営している。それで身体が閑になった大正元年以来は、ことに盛んに同誌の誌面を塞ぎ、それでも間に合わずしてしばしば他の諸雑誌にも御厄介になったものだった。しかしそれでは同人雑誌なるはずの『歴史地理』が、喜田個人の機関雑誌ででもあるかのごとき世評もあって、熱心に編輯その他のことに尽力せらるる同人諸氏に対して、まことに申訳がない。ことに近ごろ民族研究に熱中して、自然に記事が多くその方面に片よるようになっては、『歴史地理』の本領にとっても不適当であるということから、ついに個人雑誌として、『民族と歴史』を発行することにしたのである。かくて爾後自分の民族・土俗方面の研究は、たいていこの雑誌で発表することとなし、特に歴史地理学的のことのみを『歴史地理』の方に収めることに方針をきめた。そのうちに民族的研究はさらに特殊民の研究に移り、ついには社会組織の史的研究という方面にまで火の手が拡がって行って、この雑誌も後には『社会史研究』と改題し、大正十二年の大震災の影響を受けて、『歴史地理』と合併するまで約五年、通編五十八号まで継続したのであった。その間同誌上に発表した未熟の論文・雑録の数は、大小通じて無慮二百余篇の多きに達している。その他の雑誌や新聞に発表したものを合せたなら、あるいは三百篇近くもあるであろう。これには自分ながらいささか驚いた。実際自分は臆面もなく、粗製濫造品を無暗と発表したものだった。しかしこれについてはいささか自分に主張がある。当時自分は仕合せにも物質上にはそう困っていなかったがために、原稿料稼ぎの起稿は努めてこれを避ける方針のもとに、お義理その他やむを得ぬ場合のほかは、多分の報酬をくれるような雑誌にはなるべく筆を執らぬことにしていた。もちろん単行本としての著書をも絶対に避けて、無暗と学術雑誌上に所見を発表したものだった。大正八年七月、内田銀蔵博士が長逝せられて、その追憶を『民族と歴史』十月号に掲載した中に、自分はこんなことを書いておいた。 [#ここから1字下げ]  君は余が無遠慮にも、未熟の学説を常に雑誌上に公にするのをもって、余のために取らずとなし、「喜田さん、雑誌上の発表もあながち悪いとは申しませんが、なるべく推敲を重ねて、権威ある著書としてお出しになってはいかがです」と。これに対して余は常に、君の好意を謝しながらも、なおこれに従うの意志がなかった。「私に研究的態度を継続する元気の存する間は、私の学説は日進月歩で、逐次に訂正増補を加えて行かねばならぬ。なまじ著書の形をもって発表して、ためにみずから欺き、後進を誤るのは私の忍びないところです。それにはどうしても、漸次改訂を加うるの便宜多き、雑誌上の発表がよいと思います」と。時としてはこんな皮肉なことをもいった。「私がみずから完全だと信ずるほどの著書を発行しようとすれば、例えば百年河清を待つがごときもので、あたかも貴下の『日本近世史』のようになってしまいます」と。余はまたこんな憎まれ口をもきいた。「私は決してみずから完全とは思わぬまても、その当時においてベストと信ずるところを発表するのをもって、学者の任務と信じています。発表をおっくうがるような大家先生は論外だが、発表に臆病な人は、実力以上に世間から買いかぶられているところの箔が落ちるのを恐がるのでしょう」と。実際余といえども、かくまで著書としての発表を重大視した訳ではない。また未熟の学説の発表をもって、そうまで価値あるものとも思っていない。事実は次の研究に忙しくて、前の研究を纏める暇がないのであるが、例の悪い癖から、つい温厚なる君に対して、こんな嫌がらせをもいったのであった。それというのも、余が在学中に、故黒川・小中村両先生の教壇における述懐を拝聴して、痛切に感じたことがあったからである。黒川先生は美術史を講ぜらるるさいに、余らの学生に向って、古物鑑定の眼識を説明せられながら、「自分の研究はそれぞれ筆にとどめてあるから、自分がなくなった後にも諸君に見て貰うことが出来るが、ただこの眼識のみはいかにしてもこれを伝えることが出来ぬ。惜しいものだ」と述べられた。実際先生の研究は、その眼識以外のものはほとんど全くその全集によって伝わり、今日なお余ら後進の者がこれを窺い知ることが出来るのである。しかして及ばないまでも、その上に一歩を進めて見ようと試みることが出来るのである。これに反して小中村先生の述懐は、実にお気の毒千万な、同情に堪えないものであった。「自分は今や余命いくばくもない。これまで公務の忙しさに取り紛れて、いっこう研究を纏めておらぬ。せめては大宝令の分だけをでも世に遺したいと思って、曩《さき》に大学教授の職をも辞し、今では僅かに講師として少時間を諸君の前に立つだけで、自宅に書生を頼んで、日夜これに従事しておるのである」と。しかも先生のこの著手は時すでに晩《おそ》く、先生の深遠なる研究は、直接その講義を拝聴したもの以外には、多くこれを伝えることが出来ないで終られたのである。先生の高齢をもってしてなおかつしかりであった。しかも余らは必ずしも先生の齢を予期することを得ないのである。ここにおいてか余は、なるべく速かにその研究を筆にして、漸次これを訂正増補するの方針を執った。 [#1字下げここまで] というのであった。実際自分は研究の発表に急であったがために、駄作世を誤るもの少からぬことを自認して、研究の進歩とともに順次改訂増補の便多き雑誌上の発表を選んだのであった。しかして臆面もなく駄作を濫発した結果として、ともかくもいくらか自分の研究を纏めることが出来たと自信しているのである。しかしまだそのほかに、蒐集した史料、つつき散らした研究の、そのままに「長持の下積み」となり、自分自身にもこれを利用し得ずに蠧魚になったり、黴が生えたりしつつあるもの、あるいは未定稿のままに筐底に蔵せられて、自分でも忘れてしまい、そのまま腐朽しつつあるものは、さらにその幾倍あるかも知れないのである。これはぜひなんとかして、生命あるうちに整理しておきたいと思うている。  自分が『民族と歴史』を発行するに至った動機は、実に右にいうごとく民族研究に興味を覚えて来たためであったが、しかしそれは単に自分の研究発表機関たらしめるというばかりでなく、同時にこれをもって各地の同好者と連絡を保ち、研究資料の提供を得て、これを蒐集するの機関たらしめたいということにもあった。また特に当時のいわゆる特殊部落の起原・沿革を調査して、社会の啓蒙運動の資料を供給せんとするためでもあった。この点において自分の『民族と歴史』は相当の成績を挙げ得たと信じている。なおこのことについては章を改めて別に言う。『民族と歴史』改め『社会史研究』を廃刊し、『歴史地理』に合併してから後は、しばらく同誌にたて籠って、これを自分の研究発表機関に供してみたが、やはり前に経験したと同じような故障の発生を免れ得ぬ。その頻繁なる発表も自然遠慮がちになって来る。ことに大正十三年東北大学の講師として、年中の大半を東北地方に送るようになってからは、主として奥羽・北海道方面の諸研究、特にその民族的方面のことに没頭して、さしあたり別に資料の蒐集機関が必要になった。調査し研究した事柄も、発表機関がなくてはいつかは「長持の下積み」になってしまう。そこで昭和三年九月から、年寄の冷水の譏りを覚悟しつつ、新たに『東北文化研究』という個人雑誌を始めてみた。しかし寄る年波は争い難く、とても『民族と歴史』時代のように敏活には物が運ばぬ。ことに東北文化と範囲を限ったがためにか、『民族と歴史』のようには売行きがうまく行かぬ。発行者の方で算盤が取れぬのみでなく、編輯の方も後れがちになって、月一回の予定が実行されなくなる。そのうちに発行引受書肆の破綻があり、また昭和五年の半年に渉る自分の大患のために、一時休刊のやむなきこととなり、次の発行引受者もまた当時の不景気が生む蹉跌から、ついに発刊不可能となってしまった。継続わずかに十号、第十一号目はすでに昭和五年末に印刷を終り、仮製本に附したまま、今に印刷所に保存してあるが、発行者がそれを引き取らず、また読者名薄をも引き渡さぬままに消えてしまったので、自分ではなんとも致し方がなく、ために継続の方法も立たずして今日に及んでいる。これはまことに読者諸氏に対しても申訳なく、自分にとっても遺憾限りなき次第である。 『東北文化研究』が中止になって、発表機関を失った後は、新しい研究もついこれを学界に紹介するの方法を得ずして、そのままになっているものが多い。近ごろの新発見としては、青森県三戸郡是川村における石器時代の遺蹟から、図らずも多数の植物性遺物が、地主の泉山氏によって発掘せられたことである。従来石器時代の遺物としては、石器・土器・骨角器等、主として容易に腐朽しない材料の物品のみに限られていたのであったが、ここに始めて多数の木製品、繊維製品などが発見せられて、従来ほとんど知るを得なかった当時の文化の他の一面が、始めて窺い知らるるに至ったのである。ことにその新発見遺物の中には、思いのほかに進歩した漆器工芸品が多く、かつ往々その実年代の、案外若いものなることを想像せしむべき資料もあって、その発見は確かにわが考古学上の研究に、一新時期を劃すべきものといってよいのである。少くも自分の民族研究の立場からこれを観れば、これを遺したものは確かにわが歴史上に著しい蝦夷の族であり、しかも彼らはなおわが日本民族の奥羽拓殖当時において、青森県のごとき僻遠の奥地にあっては、依然石器時代の状態に住していたことが知られて、ただにわが考古学研究のうえにのみならず、歴史研究のうえにもまた一の新しい見方を与えてくれたものである。ここにおいて自分は杉山寿栄男君の協力を得て、これを図録に調製して学界に紹介し、兼ねてこれを造した石器時代人の研究、ならびにその文化の状態を論述して、図録の解説とともにこれを別冊となし、研究者に新しい資料を供給するとともに、これに関する管見を学界に問おうと試みた。かくてその図録は『日本石器時代植物性遺物図録』の名のもとに、昨年一月中にようやく完成を見るに至ったが、その後また続々新発見の資料があり、これを増補し研究を新たにすべき事実の発生が続々相踵ぐという状態であるとともに、一方には種々の個人的障礙もあって、今もってこれが完成を見るに至らず、学界の期待に背くことの大なるは慚愧の至りである。これというも自分に発表機関を持たぬがためで、正直なところ自分のごとき意志薄弱なものにあっては、なんらかそこに期日を限って督促さるるある物の存在せぬ限り、つい他の雑務に追われて延び延びになってしまうのである。しかしこれもほぼ準備が整ったがために、今現に執筆中のこの『六十年の回顧』の完成次第、遠からず発表し得べき順序になっていることをここに告白しておく。 ※ 底本の編注は省略しました。 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社    1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『還暦記念 六十年の回顧』    1933(昭和8)年4月発行 入力:しだひろし 校正:未登録・校正待ち(2008年6月11日現在) xxxx年xx月xx日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 2010.3.6:更新 ※ カウンタを設置。編集モードを変更。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment 【メモ】なるほど。ページ編集が「そのままテキストモード」のため、カウンターもコメントも無効になってる。(しだ) 【メモ】編集モードの途中変更はできないとすれば、再度新規にページをつくってアップする……か。(しだ)

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