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小書き拗促音の組版開始時期について - (2009/07/07 (火) 00:11:02) のソース

*小書き拗促音の組版開始時期について
——事例)『羽陽文化』山形県文化財保護協会(編)——

しだひろし/PoorBook G3'99


*1.はじめに
 7月4日に青空文庫の主催で行われた芝野耕司氏の講演「電子翻刻における「読み」と「見たまま」」の講演資料を読みました。
 
 青空文庫講演資料 
 7月4日に青空文庫の主催で行われた講演会の発表資料
「電子翻刻における「読み」と「見たまま」」
 http://sites.google.com/site/shibano/aozora-bunko-kouen-shiryou
 
 興味深い内容ではあったものの、いまひとつ腑に落ちない。つねづね疑問に思っていたことがあるので、この機会にサンプル調査してみることにしました。
 
*2.テーマ
 拗促音が、小書き活字で組版開始され出したのはいつか。
 
 大書き拗音「あいうえおやゆよわアイウエオヤユヨワ」
 小書き拗音「ぁぃぅぇぉゃゅょゎァィゥェォャュョヮ」
 大書き促音「つツ」
 小書き促音「っッ」
 
*3.目的
 仮説として、「ヵヶ」という小書き活字が組版開始され出したのは、拗促音の小書き活字が広まったのとほぼ同時期か、あるいはその後のことではないか、という問題を設定する。
 一般に、拗促音の小書きの慣習が始まるのは、ひろく「戦後」といわれている。その時期を、もうすこし細密にしぼってみたい。もちろん「ヵヶ」は拗促音ではなく、「ヶ」にいたってはカタカナでもない(らしい)。にもかかわらず、JIS規定が誤用の好例のように、拗促音のカタカナに準ずる記号/符号との認知がされやすい。
 富田さんは、「ヵヶ」は「個/箇/个」に由来するから、という由来説を展開。芝野さんは、Google から「ヶけ」用例結果を集計。集計結果の数量を「広く受け入れられている/いない」の根拠としている。
 
*4.方法
 一事例として、1949(昭和24)年1月創刊の『羽陽文化』山形県文化財保護協会(編)の組版に用いられている拗促音を、ざっくりと目視する。とくに、大書き/小書き混用時期を特定する。
 
 『羽陽文化』うよう ぶんか
 山形県文化財保護協会(編)

・創刊1949(昭和24)年1月〜(現在)
・年4回発行
・一号あたり24〜38ページ A5版
・編集担当:1期 佐藤栄太 No.1〜〓
      2期 川崎浩良 〓〜No.57
      3期 鈴木清助 No.58〜〓
・印刷担当:1期 石沢印刷所 No.1〜〓
      2期 山形荷札(株) 〓〜No.58
      3期 武田紙工印刷 No.59〜
 
*5.結果

|刊行年月|号数|編集担当|印刷担当|結果(印象)|例、例外、備考)|
||||||
|昭和36.7月刊|No.51|川崎|山形荷札(株)|大のみ||
|昭和36.10月刊|No.52|川崎|山形荷札(株)|大のみ||
|昭和37.1月刊|No.53|川崎|山形荷札(株)|大のみ||
|昭和37.4月刊|No.54|川崎|山形荷札(株)|大のみ||
|昭和37.7月刊|No.55|川崎|山形荷札(株)|大のみ||
|昭和37.10月刊|No.56|川崎|山形荷札(株)|大のみ||
|昭和38.1月刊|No.57|川崎|山形荷札(株)|大のみ|備考)カあり|
|昭和38.4月刊|No.58|鈴木|山形荷札(株)|大のみ|備考)ヱ・カあり|
|昭和38.7月刊|No.59|鈴木|武田紙工印刷|混用(大>小)|例)カット,わかつた,フアイト|
|昭和38.10月刊|No.60|鈴木|武田紙工印刷|混用|例)カツト,セット 備考)ガあり|
|昭和39.1月刊|No.61|鈴木|武田紙工印刷|混用(大<小)|例)コレクシヨン,キヤンプ|
|昭和39.5月刊|No.62|鈴木|武田紙工印刷|大のみ||
|昭和39.8月刊|No.63|鈴木|武田紙工印刷|混用(大>小)|例)カット|
|昭和39.11月刊|No.64|鈴木|武田紙工印刷|混用(大<小)|例)フアイト,オリンピック|
|昭和40.1月刊|No.65|鈴木|武田紙工印刷|混用(大<小)|例)プロスペリテイー|
|昭和40.5月刊|No.66|鈴木|武田紙工印刷|ほぼ大|例外)カットのみ|
|昭和40.8月刊|No.67|鈴木|武田紙工印刷|小のみ|備考)カあり|
|昭和40.10月刊|No.68|鈴木|武田紙工印刷|混用||
|昭和41.1月刊|No.69|鈴木|武田紙工印刷|混用(大<小)|例)ジヤングル,マニュファクチュア,マニュファクチアー|
|昭和41.4月刊|No.70|鈴木|武田紙工印刷|混用(大<小)|例)フアイト,打切つた ※ 見出しのみ|
|昭和41.7月刊|No.71|鈴木|武田紙工印刷|小のみ||
|昭和41.10月刊|No.72|鈴木|武田紙工印刷|小のみ||
|昭和42.1月刊|No.73|鈴木|武田紙工印刷|小のみ||
|昭和42.5月刊|No.74|鈴木|武田紙工印刷|小のみ||
|昭和42.8月刊|No.75|鈴木|武田紙工印刷|小のみ||
|昭和42.12月刊|No.76|鈴木|武田紙工印刷|||
|昭和43.3月刊|No.77|鈴木|武田紙工印刷|||
|昭和43.7月刊|No.78|鈴木|武田紙工印刷|||
|昭和43.12月刊|No.79・No.80合併号|鈴木|武田紙工印刷|||

*6.わかったこと
 昭和38.7月(No.59)に混用が見え始める。その後、昭和41.7月(No.71)まで、混用時期が続いている。結果を見るかぎり、1963(昭和38)年が混用の上限で、下限は1966(昭和41)年となった。少なく見積もっても、3年の混浴期間(移行期間)があったことがわかる。ちなみに、担当印刷会社は三社とも山形市内。
 混用期間の始まる昭和38.7月(No.59)は、担当編集と印刷担当の両方が交代する時期と重なっている。
 各論文ごとに拗促音の大小を使い分けているとすれば、論文執筆者に応じて植字工が原稿の通りに組版した結果といえるが、そういう印象は(皆無ではないものの)薄かった。ひとつの段落の中で大小の拗促音が混浴している例も見られた。
 また、組版のハウス・ルールが前後の二社で異なっていたとすれば、混用期間は生じずに、きれいに二分したはずだけれども、結果からは、第3期以降を担当している武田紙工印刷の内部において3年程度の移行期間が生じていたことがわかる。下請け外注は考えないものとする。
 
 なお、(目視でざっくりと)確認した限りでは、「ヵヶ」の使用は皆無。「个」の使用も皆無。「カ」が1件。ほぼ「ケ」で組んでいると見ていい。
 また、右衛門・左衛門・兵衛の「衛」を右工門・左工門・兵工のように「工」(カタカナのエではなく、漢字の工)で組んでいるものが目についたことを付記しておく。

*7.まとめ
「戦後」というと、遅くとも1950年代には小書き拗促音への移行が終了していたような、漠然としたイメージをいだいていたが、サンプルを見るかぎりでは、1960年代という結果が得られた。ちなみに1963(昭和38)年がケネディー大統領暗殺、1964(昭和39)年が東京オリンピック開催の年にあたる。
 今回は、地方印刷出版における活字組版での小書きを対象とした。全国紙など首都圏での出版・メディアとの時差、手書きでの小書き普及との時差なども考えられる。歴史学・考古学を対象とした雑誌であること、執筆者の年齢・教職かどうか・植字工の習練度合いなどの影響も考えられなくもないが、わからない。

 ざっくりと目視で得られた印象、であって、精密な数量を測定した結果ではない。それこそ、全文テキスト入力して単語用例を検索抽出すれば、正確な結果が得られることと思う。
 
*8.今後の課題
 1961(昭和36)年より前と、1968(昭和43)年以降をひきつづき確認してみたい。
 

 
公開:2009.7.6
更新:2009.7.7
しだひろし/PoorBook G3'99
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