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MT*2_23-慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 - (2009/12/31 (木) 18:40:53) のソース

*MT*2_23-慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
*2009.12.26 第二巻 第二三号
慶長年間の朝日連峰通路について
佐藤栄太

  一、序
  二、開削年代と当時の状勢
  三、朝日山道の経路
  四、慶長の役と朝日間道
  五、志駄義秀の朝日越考
  
&image(http://www.dl-market.com/images/uploader/620/2_23-1.gif,http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=150&file=milk_tea_2_23.zip)
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[[【週刊ミルクティー*第二巻 第二三号】>http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=150&file=milk_tea_2_23.zip]]
http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=150&file=milk_tea_2_23.zip
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|COLOR(red):月末最終号:無料| p.104 / *99 出版|
付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(64項目)p.417

*飛び出せ! 3D電子本
|COLOR(red):オリジナル版|COLOR(blue):ミルクティー*現代表記版|
|COLOR(red): 羽越國境に聳立する朝日連峯が登山地として開發されたのはまだ近年のことである。其の後營林署や地元で熾んに道路を切開いたので今は登山も非常に樂になつて、朝日礦泉から大朝日までの往復登山は僅か半日の行程に短縮されて了つた。然し連峯の主脈縱走は途中施設の不備や天然の關係等に依り未だ相當の難コースであつて一ケ年の縱走者はまだ/\幾組と數へる程しかない。|COLOR(blue): 羽越(うえつ)国境に聳立(しょうりつ)する朝日連峰が登山地として開発されたのはまだ近年のことである。その後、営林署や地元でさかんに道路を切り開いたので今は登山も非常に楽になって、朝日鉱泉から大朝日までの往復登山はわずか半日の行程に短縮されてしまった。しかし連峰の主脈縦走は途中施設の不備や天然の関係などによりいまだ相当の難コースであって一か年の縦走者はまだまだ幾組とかぞえるほどしかない。|
|COLOR(red): 然るに現在に於てさへ相當の難コースたる連峯主脈の處々に舊い道形が明かに認められるのは縱走者の等しく驚異を感ずる處であつて、西朝日の東面と以東岳の南面最低鞍部の通稱狐穴との間及び以東岳と戸立山との間には不用意にしても尚見逃すことのない程明瞭に刻まれてゐる。殊に狐穴の北偶小丘には遠くより望む時も明瞭に電光形の道形が現在の道の右手に存在して居る。その實、現地は一面の腰邊までの笹籔であるが詳細に調査する時確實に約三尺ばかり斜面を掘下げた跡が明かである。(略)|COLOR(blue): しかるに現在においてさえ相当の難コースたる連峰主脈の所々に旧(ふる)い道形(みちなり)があきらかに認められるのは縦走者のひとしく驚異を感ずるところであって、西朝日の東面と以東岳の南面最低鞍部(あんぶ)の通称狐穴(きつねあな)との間および以東岳と戸立山(とだてやま)との間には不用意にしてもなお見逃すことのないほど明瞭に刻まれている。ことに狐穴(きつねあな)の北偶小丘には遠くより望む時も明瞭に電光形の道形(みちなり)が現在の道の右手に存在している。その実、現地は一面の腰あたりまでの笹籔(ささやぶ)であるが詳細に調査するとき確実に約三尺ばかり斜面を掘りさげた跡があきらかである。(略)|
|COLOR(red): 米澤事情を記した『米府鹿の子』に上杉の將直江山城守兼續が米澤から朝日を越えて庄内へ通ずる新道を開いたことが僅かに見えて居る。開鑿の年次や、其の状況等は記されてゐないが、後に記す現存の古文書や當時の状勢に依つて、慶長三年正月上杉景勝が會津に移封され、直江山城守が其の老臣として米澤に在城するようになつた初年の夏の事業なることが推定出來る。扨て何故に斯る嶮難の地を殊更に通路を開かなければならなかつたか。|COLOR(blue): 米沢事情を記した『米府(べいふ)鹿( か)の子(こ)』に上杉の将、直江(なおえ)山城守兼続(かねつぐ)が米沢から朝日をこえて庄内へ通ずる新道を開いたことがわずかに見えている。開削の年次や、その状況などは記されていないが、後に記す現存の古文書や当時の状勢によって、慶長三年(一五九八)正月、上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)が会津に移封され、直江(なおえ)山城守がその老臣(ろうしん)として米沢に在城するようになった初年の夏の事業なることが推定できる。さてなにゆえにかかる嶮難(けんなん)の地をことさらに通路を開かなければならなかったか。|

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(朗読:RealMedia 形式 468KB、3'48'')


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佐藤栄太 さとう えいた
1902-1954(明治35-昭和29.3.19)
山形県西置賜郡白鷹村鮎貝深山生まれ。山形にて新聞記者をつとめる。昭和22年、山形県文化財調査委員になる。山形県文化財保護協会ならびに県文化財調査委員会創立当時の幹事。『羽陽文化』初代編集担当。山形市香澄町南追手前住。共著『高擶郷土史』。病没。享年52。

◇参照:「佐藤栄太氏の思い出」『羽陽文化』第64号(1964年11月)、『高擶郷土史』(1955.6)p.307、NACSIS Webcat。
※ Wikipedia 未登録。


*底本
底本:底本:『山岳』第29年2号
   1934(昭和9)年12月

NDC 分類:212(日本史/東北地方)
&nolink(http://yozora.kazumi386.org/2/1/ndc212.html)
※ ページ未登録。


 
2009.12.28:公開
2009.12.31:更新
目くそ鼻くそ/PoorBook G3'99
翻訳・朗読・転載は自由です。
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