*M-Tea*4_49-東洋歴史物語(四)藤田豊八 *2012.6.30 第四巻 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八 一八、仏教とその東漸(とうぜん) 一九、後漢の衰亡(すいぼう)と三国 二〇、晋(しん)と北方民族の侵入 二一、南北朝 二二、隋(ずい)の煬帝(ようだい) 二三、唐(とう)の隆盛 二四、唐の衰運(すいうん) &image(http://www.dlmarket.jp/images/uploader/620/4_49-1.png,http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=352&file=milk_tea_4_49.ttz.zip) &image(map4_49_china1.png) &image(map4_49_china2.png) &image(map4_49_india.png) &image(map4_49_w_ajia.png) &image(table4_49.png) [[【週刊ミルクティー*第四巻 第四九号】>http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=352&file=milk_tea_4_49.ttz.zip]] (http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=352&file=milk_tea_4_49.ttz.zip) ※ クリックするとダウンロードを開始します。 (680KB) [[【milk_tea_4_49_wiki】>http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=352&file=milk_tea_4_49_wiki.ttz.zip]] (http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=352&file=milk_tea_4_49_wiki.ttz.zip) ※ クリックするとダウンロードを開始します。 (934KB) &color(red){月末最終号:無料} p.210 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(252項目)p.1533 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. *大山鳴動、おーむ三匹! 週刊むっくりこっくり坂* 禅宗をはじめてシナに伝えた達磨がインドから来て、この梁(りょう)の武帝と法談をまじえた話は有名です。(略) この南北朝の時代は、政治的に見れば事件の多い血なまぐさい時代ですけれども、文化発展の方面からみればいちじるしい飛躍をした時代と見ることもできます。もっとも南朝と北朝とは、諸種の文化にいくぶんずつ趣きを異にするところもありました。なにしろ南部の地は、晋室南遷以来の文化の系統を追うているのに対し、北方には外民族の国を建てるのが多かったためにこうなったのです。また、人の気風も南と北とではおおいに変わっていまして、南がいくぶん浮薄なのに対して北は質実でありました。こうした点から北朝では経学が重んぜられましたが、南朝では老荘の学のほうが好まれ、また詩賦などもさかんだったのです。とにかく文学・美術の方面においては、だいたい南朝が卓出していました。(略)陶淵明や謝霊運などは詩文の大家でしたし、書法の大家としては王羲之がことに知られています。(略)画には顧・之(こがいし)という人がおります。(略) この時分になって仏教はことに盛んになり、外国からも偉い僧侶も来、またシナのほうから仏法を求めに外国、ことにインドに出かけるものも出るくらいでした。こうしてこの時代、仏法が流行したので、それが東方朝鮮・日本のほうへと伝わるようになったのです。 (略)これに対し、ここにシナにまた一つの宗教が発生するようになりました。それは今でもシナに大きい勢力をもっている道教です。その起原はもっと古いのですが、とにかく道家の説にもとづき、それに民間の卑俗の信仰を取り入れてできたものですが、しだいに仏教のほうからいろいろ借り物をして、体裁をととのえたものです。後魏の時代には、かなり広くおこなわれ、その太武帝などはこれを信ずるのあまり、仏教をおおいに迫害いたしました。 とにかく、これから道教と仏教とは目の敵のようにしばしばいがみ合ったのです。(「二一、南北朝」より) #ref(4_49.rm) (朗読:RealMedia 形式 536KB、4'21'') [[milk_tea_4_49.html>http://www33.atwiki.jp/asterisk99?cmd=upload&act=open&pageid=352&file=milk_tea_4_49.html]] (html ソーステキスト版 288KB) 藤田豊八 ふじた とよはち 1869-1929(明治2.9.15-昭和4.7.15) 東洋史学者。徳島生れ。号は剣峰。東大教授をへて台北帝大教授。著「東西交渉史の研究」「剣峰遺草」。 恩地孝四郎 おんち こうしろう 1891-1955(明治24.7.2-昭和30.6.3) 版画家。東京生れ。日本の抽象木版画の先駆けで、創作版画運動に尽力。装丁美術家としても著名。 水島爾保布 みずしま におう 1884-1958(明治17.12.8-昭和33.12.30) 画家、小説家、漫画家、随筆家。本名は爾保有。東京都下谷根岸生まれ。父は水島慎次郎(鳶魚斎)。1913年、長谷川如是閑に招かれて大阪朝日新聞において、挿絵を描き始める。長男の行衛は、日本SF界の長老、今日泊亜蘭。 ◇参照:Wikipedia &link_wikipedia(藤田豊八){藤田豊八}、&link_wikipedia(恩地孝四郎){恩地孝四郎}、&link_wikipedia(水島爾保布){水島爾保布}、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。 底本:『東洋歴史物語』復刻版 日本児童文庫 No.7、名著普及会 1981(昭和56)年6月20日発行 親本:『東洋歴史物語』日本兒童文庫、アルス 1929(昭和4)年11月5日発行 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1679.html NDC 分類:220(アジア史.東洋史) http://yozora.kazumi386.org/2/2/ndc220.html *難字、求めよ *むしとりホイホイ 尼牟 → 牟尼 【牟尼】2か所 眞面自 → 真面目 【目】まじめ ちつょと → ちょっと 【ょっ】 いた、し → いたし、 【し、】 人でした、 → 人でした。 【。】 最降期 → 最隆期 【隆】 以上6件、底本は左辺のとおり。 *スリーパーズ日記* 「少さく」は「小さく」に、 「高勾麗」は「高句麗」に、 「も一人」は「もう一人」に、 「煬帝《ようてい》」は「煬帝《ようだい》」に、それぞれ変更。 図版は『学研新漢和大字典』(2005.5)と『世界史年表・地図』(吉川弘文館、1995.4)を参照。東アジア年表テーブルは渡邊義浩『宗教から見る中国古代史』(ナツメ社、2007.12)をベースに、『東洋歴史物語』本文からトピックを追加。 六月二三日(土)晴。遊学館ホール、赤坂憲雄・吉村美栄子県知事対談「縄文からのメッセージ」。会場、二〇〇名ぐらいか。昭和61年、舟形町西ノ前遺跡から出土した復元高さ45cmの国内最大土偶、通称「縄文の女神」が今年、国宝指定されることを記念しての対談。 ナマ知事を見るのは初。赤坂さんは五、六回目。皮切りは、昨年三月一一日のこと。議会日だったので県庁にいた知事は、二階廊下で被震。すぐ知事室へ向かう。県内市町村からの情報が入るシステムはあるものの、県外から情報の入るシステムはなし。TVで状況を知る。翌日、東北六県知事へ電話確認。 赤坂さんは、国分駅ビル三階で被震。ほどなく外へ出されてしまったらしい。その後どうしたのか、タクシーに乗れたのか、歩いて帰路についたのか、どこへ向かったのか、語らず。四月はじめに仙台野蒜(のびる)へ行ったのが最初で、以来、毎週末のように東北のどこかへ行くスタイルが一年間つづいた。 獅子踊り、民俗芸能、鎮魂、厄払い、祝祭、供養。 土偶、女性像、豊饒の祈り、破損、貝塚、人骨の埋葬。 対談をはさんで、真室川の釜淵番楽、米沢の梓山獅子踊、寒河江の日和田弥重郎花笠田植踊、遊佐の吹浦田楽舞。 6.26 社会保証制度、官公、鹿公、賛成白票。462、378、84。 認定子ども園、462、377、85。 消費税率引上、鳩公、小公、青票。459、363、96。 6.28 14:54 弱震。ちょっと長い。東北でやや強い震度4中通・浜通。M5.2推定。 6.29 2:46 千葉県東方沖30秒後ごくごく微震、震度3千葉県南部。 7.1 12:11 十勝岳、山頂で光。入山禁止、噴火未確認。 タチアオイ、ラベンダー。半夏生。 2012.7.3:公開 玲瓏迷人。 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ:&counter() ---- #comment